2-1
毎日が最悪だった。
どんなに頑張っても評価は良くならない。成果が出せないのだからそれも当然だろう。
しかし、時間だけは容赦なく過ぎていく。時間の経過と共に責任だけは重たくなっていく。
理不尽に上司に怒鳴られて、取引先には嫌味を言われて、精神の磨耗だけを実感していく日々。
いつも頭の中を支配しているのは自分の人生への絶望だった。
「こんな風になる為に生まれた訳じゃない。」
思ったところで、声に出してみたって、何も変わらない。
この最悪は不変であり無限でもある。
つまり死ぬまで最悪は終わらない。
そんな考えに至ってしまった時、俺は逃げ出した。
いつも降りる駅をそのまま乗り過ごしてしまう。考える事は止めて静かに目を閉じて時間の経過だけを感じる。
終電で降りて思いっきり背の伸ばす。ポケットの中の鳴り止まない電話の電源を切る。
そしてそのまま、目的もなくトボトボ歩き出す。
知らない町を直感だけで歩いていくのは子供の時以来だった。
ちょっとした観光地だったらしい町は見るところもそこそこあって楽しめた。
まったく興味のないその町の記念館なんかにも足を踏み入れたりしてみた。
気づいたらもう夕方になっていて、その事に下校中らしい学生を見かけてようやく気が付いた。
久しぶりにのんびりできて楽しかった。
最後にひとつだけ行って見ようと思い立った場所に向かう事にした。
駅から降りた時から気になっていた崖と海。
別になんでもないような場所だけど、不思議とそこに魅せられていた。
理由は考えるまでもない。俺はそこで死んでしまおうという思っていたのだ。
だってこの最悪は死ぬまで終わらないのだから。
目的のなかったと思い込ませていた徘徊は無意識に自分の結論から目を逸らしていた結果。
多分、心の奥底ではまだまだ生きていたいと思っている。
それでも、一日の終わりを感じた自分はしっかりと死に場所に向かって足を進めている。
崖と海の間には少しだけ高い手すりがあった。道中にいくつか置いてある花とか缶ビールを見つけてここで死のうと思った人間は自分だけではなかったと事を知らされる。
道中にあったコンビニで遺書を書く紙と封筒を買った。
外で談笑しながらアイスを食べている学生を見かけて、この子達が成人する頃にはもっと日本が住みやすくなっていて欲しいなんて都合のいい事を考えた後、それはそういった努力を全て放棄して今から全て終わりにしてしまおうと思っている自分には願う権利すらないと思い、考えるのをやめた。
遺書の書き方なんて調べてなかったので手間取ってしまったが結局、両親への謝罪の言葉と何故か初恋の人へ告白を書いていた。かなり恥ずかしい内容だったが誰かがこれを読むときはもう俺はこの世に存在していないのだから意味はない。
手すりに手をかけて海を眺める。素直に綺麗な場所だと思った。空気も水にもどこか力強ささえ感じた。きっとここへ来る人達はそんな感想を抱いていくのだろう。純粋な気持ちでこの風景の気持ちよさを味合えるのだろう。
まぁ、その場所をこれから汚してしまう訳だけど・・・。
下の方を覗きこむと打っては消える波が自分を呼んでいるような気がした。ふと頭の中にさっきみかけたお供え物であろう花やお酒を思い出してここで何人か飛び降りた事を納得してしまった。
幸いに周囲に人はいない。後はこの手すりを乗り越えて飛び降りるだけ。
覚悟を決めて手すりを跨ごうとしたら手すりのでっぱりにズボンを引っ掛けてしまった。
なんとかズボンを取ろうと足掻いてみたがただの引っかかりはずなのに中々取れない。触れば触るほど深くひっかかり、しかもズボンが裂けてきて綻びた糸が更にでっぱりに絡んでいく。
もう解くのは諦めてその部分だけ切り取る事にした。結構高いスーツだったけど今更気にしていても仕方が無い。
ハサミかカッター、または何かしら鋭利なもの。なにかしら持ってないかとポケット探ってみるけど電話とさっき買ったボールペンくらいしか入っていない。
無理だと思いつつもボールペンでズボンの解体を試みる。裂け目にボールペンを刺そうともがいている内にバランスを崩して転びかける。
その時に乱暴にポケットにしまった電話が海に落ちてしまった。
それを見たら、なんだかあの電話が自分の本体であって自分は今、抜け殻になってしまったように思えた。
そういえば、今日はのんびりしていたつもりなのに電話をずっと気にしていた気がする。電源まで切ったのにあそこまで不安になっていたなんてなんだか馬鹿らしい。
気持ちが落ち着いてきて、さっきまで呼ばれていると感じていた波も普通の景色にしか見えなくなってしまった。
結局、ボールペンでズボンを裂くという作業は上手くいかないまま、コンビニで見かけた学生達が通りかかるまでしばらく海を眺めていた。
学生達に助けられた際に命の大切さを説かれてしまいなんとも恥ずかしい気持ちになったのは言うまでもないだろう。
思えば、わざわざ遠くから地元まで死にに来るなんて迷惑以外の何者でもない。別に波だって呼んでいない。
そのまま学生達に駅まで見送られて、肩を落としながら帰りの電車に乗る事にした。
「おっちゃん、いい事は絶対にあるから簡単に死のうとするなよ。」
電車に乗る直前に大声で元気つけてくれた学生達に心の底から感謝すると同時に周囲の視線が気になってとても恥ずかしい気持ちにもなった。
なるべく奥の車両へ逃げる。
そしてかなり人が少ない車両まで来てようやく腰を下ろす。
揺れる車内でこれからの事を考えると泣きたくなった。
というか少しだけ泣いていたかもしれない。
もう会社には戻れない。別に戻りたいとも思っていないけど。
でも、取引先には申し訳ない事をしてしまったし自分の仕事を誰がやっているのかも気になる。
俺がいなくても大丈夫だろうか。
それよりも明日からの俺は大丈夫なのだろうか。
目を逸らしていた現実が一気に頭の中になだれ込んでくる。
死んで全部捨ててしまおうと高く放り投げた問題が生きる事で全部落ちてくる訳だからしょうがない。
「とりあえず、なんでもいいから仕事探さなくては・・・。」
声に出して見ると事の深刻さが増したような気がして冷や汗すら流れる。
もう家にすら帰りたくなかったがそういう訳にもいかない。
このまま永遠に電車に乗っていたいけどそうもいかない。
あとどれくらいで目的駅まで着くか計算しようとして顔を上げてみる。
そこで違和感に気付く。
最初はなんだかわからなかった異変はしばらく辺りに視線を配らせてようやく原因にたどり着く。
乗客が全然いない。
こんな事もあるのだろうか?でも乗り込んだ時はそれなりに人はいたような気がする。
だからここまで逃げてきた訳だし、というかこの車両にも多くはなかったけど何人かいたと思う。
それが今では自分と目の前に座っている女性の二人だけ。
そこまで考えてから目の前の女性にも違和感を感じる。
なんというか・・・見た目がおかしい・・・・・・
ファッションセンスにケチを付けれる程のセンスは持っていない俺でもおかしいと思える。
なんだかコスプレみたいな派手な服だった。極端にヒラヒラしているパーツが多くてとても無駄が多いように見える。
それなのに色合いは地味な色で統一されていてなんだかアンバランス。
ジロジロと眺めていたせいかふと目が合ってしまう。
失礼な事を考えてしまったせいバツが悪く慌てて目を逸らす。
もしかしたら涙目であるかも知れない自分の目も気になる。
「あの、何か…ありましたか?」
声をかけられてしまった。
「へっ、いや、あの、お、俺っすか?」
情けない返事である。急に話を振られるとこうなってしまう。
これがまた上司の機嫌を損ねる反応らしく、この件で随分嫌な思いもしているがなかなか直せない。
「はい、すごく辛そうでしたから。」
なんだか落ち着いた雰囲気の優しい声色だった。
「あ、いや、別に。大した事じゃないです。」
しかし、知らない人に急に話しかけられても困るのも事実だった。
「まぁまぁ、私で良ければお話聞きますので、全部吐き出してみてください。」
やっぱり綺麗な声である。よく見てみればお顔の方もかなり綺麗である。
さっきまでは変人カテゴリに入っていた女性だが急に恥ずかしくなってしまい目を逸らす。
「さぁ、どうぞ、全部聞きますよ。時間はたっぷりありますから。」
と横から声をかけられる。驚いて隣に視線を移すと目の前に座っていた彼女はいつの間にか隣に座っていた。
驚いたけど声を聞くとなんだか落ち着いてくる。そして目を合わせると優しく微笑んでくれて・・・
「俺、どんなに頑張っても誰からも認めてもらえなくて・・・努力だけじゃダメって自分でもわかってるから余計に辛くて・・・・・・。」
「上司が怒るのも理解できるんです。でも仕事以外の人格面まで批判されると苦しくて・・・。」
「同僚が俺の悪口を上司に吹き込んでるって噂を聞いて、さっきまで一緒に笑い話してたのにそれが全部嘘だったと思うと仲間まで信じられなくなって・・・。」
「それで、この辛いのは無限なんだって思ったら、急に電車降りるの怖くなったんです。いや怖くなったのは考える事自体だったのかもしれません・・・。」
「電話切ったのに、電源消したのに、それでも仕事が気になって、でもその事考える事放棄してしまって。逃げる為に歴史の勉強までしましたよ・・・あ、いります。記念館のマスコットキーホルダー・・・。」
「結局時間が来て死のうだなんて思って、わざわざ海まで行きました。コンビニで紙とペン買っている時点で突発的な衝動だったのに前からそう思っていたなんて真面目思っていましたよ・・・。」
「遺書になんて書いたと思います。両親への感謝と初恋の人への告白ですよ。そんな遺書で告白されても迷惑ですよね。ただ後味悪いのが残るだけなのに・・・遺書、ありますよ読みます。・・・。」
「ズボンが引っかかって手すりすら越えられませんでしたよ。ほら、ここのところメチャクチャじゃないですか。これボールペンで裂こうとしたからこうなりました。笑えますよね。馬鹿すぎて・・・。」
「電話が落ちて急に自殺なんてする気がなくなってしまってもう終了ですよ。学生来るまで片足手すり乗っけて海眺めてました。あんなにむなしい時間はそうそうないですよ・・・。」
「しかも学生に説教までされてしまいました。いい事あるよなんて無責任なこと言って・・・いや、あの学生達には感謝してますよ。そんな風に歪んで捉えてしまう俺が汚いです。醜いです・・・。」
「もう・・・明日からどうしていいか、職探すにしても退職理由とかどう説明すればいいかわかりませんし。そもそも手続きとか色々あるし・・・でももう会社行きたくないし・・・このまま消えてしまいたいなんてさっきの今で思っているのがいかにも自分らしくて情けなくてむなしくて・・・俺ってどうしてこう自分を守る事しか考えられないですかね。本当に情けない・・・・みっともない・・・・・・。」
・・・全部吐き出してしまっていた。
彼女は黙って話しを聞いてくれた。時折合槌を打って。一緒に辛そうな表情を浮かべてくれた。同調してくれると思うと不思議と気持ちが楽になった。
「はは・・・全部話しちゃいました・・・・・・ごめんなさい。こんな話。気分悪くしてしまいましたね。」
吐き出す事によって身軽になってようやく自分が一方的に話していた事に気付く。
「いえ、お話してくれてよかったです。大変でしたね。」
辛かったですね。と慰めてくれる。
なんだか軽い言葉のようでもあるのに彼女の言葉になると自分のダメな部分が全部許されたような気持ちになってくる。
ただ話を聞いてくれただけの女性であるのに気付けば自分の信頼の大部分を彼女に寄せてしまっていた。
「あの、貴方の悩みの一つ、私でしたら解決できるかもしれません。」
そういって少しだけ微笑んでくれた。
「実は、私の職場がですね。調度人手不足で悩んでいまして・・・お力をお借りできないかと。」
驚いて彼女の方を見る。彼女はさっきと同じで優しそうな顔で微笑んでいる。
今の話を聞いてよく仕事を紹介する気になったなと怪しく思う。
自分で散々話したのでよくわかるが要約すると「俺は仕事が辛くなったから逃でだしました。それなのに仕事の事が頭から離れずについには自殺なんて思ってはみたものの直前で思いとどまってそのまま学生に説教されて帰っている最中。」というものになる。
そんな奴が必要な職場なんてあるのだろうか?
「いえ、急なお話でちょっと・・・。」
急に冷静になって彼女と距離を取ろうとする。
「お話だけでも聞いてくださいませんか?」
しかし、黙って俺の情けない話を聞いてもらった以上はこちらも話を聞かないといけないだろう。
じゃあ、お話だけ・・・と言って彼女の話しを聞く事にする。
「私達の世界で騎士として働いてくれる人を探しているのです。
というのも、私達の世界はこの世界とは別の所にあります。こっちの世界は落ち着いていますがあちらの世界はかなり不安定でして・・・。
なんども滅びの窮地に立たされながらもギリギリのラインで意地できている状況です。そこで世界の基軸となるものを作り出してもらう為に騎士をこちらの世界からあちらの世界へ送るという計画が立案されました。
私はこちらの世界で騎士になる方を探す役目を持ってあちら世界から来た者です。どうか私達を救ってくれる騎士になってください。」
という設定の役を探しています。それが彼女の話だった。
「えっと・・・遊園地のショーの役者さんとかですか?」
ちょっと困惑してしまった。
「そのようなものです。騎士を演じてもらえればそれで十分です。」
「そういうのはプロの役者に頼むのが良いのでは。」
「いえ、それではダメなのです。私達が探しているのは本物なのですから。」
「ああ・・・素人がいいって事ですか。」
待遇面の問題なのだろう。
よく考えれば求人を出さずに自分達で役者を探している時点であまり景気の良い遊園地ではないのだろう。
「条件ですが・・・住み込みで働いていただけます。お仕事は自分のペースでやってもらって結構です。でもお給料の方は頑張った分だけになります。そしてなにより、とびきりの特別待遇をさせてもらいます。」
ここでますますよくわからなくなる。自分のペースで出来るショーの役者なんてあるのだろうか?
特別待遇というもの気になる。それに福祉厚生とか保険とかそういった大事な話が出てきていない。
「今の貴方にはあまり悪くない条件だと思うのですが・・・どうでしょうか?」
そう言われるとそうでもある。
次の職を探そうにも退職理由が散々なのできっと苦労する。
その間に家賃を払い続けるのだって難しい。
自分の現状を改めて見つめなおすと好条件なような気がする。
「検討してみます。あの改めてご連絡したいので連絡先を教えていただけると助かるのですが。」
「それは、良い返事という事でいいですか。」
「ああ・・・ええ、良い返事だと思います。」
「それは良かった。ありがとうございます。」
にっこりと笑う彼女を見て、なんだか自分がすごくいい事をしたように感じてしまう。
「あの、それで連絡先は・・・。」
とここまで言いかけた時だった。
視界が急に暗くなる。トンネルにでも入ったのだろうか?
いや、トンネル内でも車内は明るいはずだ。じゃあ、なんでこんなに暗い。事故?
そんな疑問が頭をかけ廻っている中、彼女の声だけが頭の中に入ってくる。
「連絡なんて必要ないですよ。スグに着きますから。では、お願いしますね。」
それはどういう意味なのか。
聞いてみようにも声がでない。視界はまだ暗くて辺りが見えない。
事故でもあったのか、それとも俺は本当は自殺していて死後の世界に踏み入れているのか。
そうでもなく最初から全部、夢だったのではないか。色んな考えが浮かんでは消えていく。
どれくらい経ったのだろうか、電車の中とは思えない程の静けさである事すら気づけないまま時間だけが過ぎていった。
・・・・・・・・・ふと、急に視界が明るくなる。
しかし、そこはさっきまでいたはずの電車の車内ではない。
木々の揺れる音、鳥の鳴き声が聞こえる。
見渡すと辺りには緑が広がっていてのどかな風がそよいでいる。
驚いて立ち上がってみると自分が座っていたのが電車の座席ではなく椅子のような形をした岩である事に気付く。
自分の座っていた岩の背の部分に見た事のない文字で「どうか、この世界の歪みをなくしてください。」と書いてあった。
もう女性の姿はなかった。
状況を把握しようととして辺りを見渡そうとすると金属音が聞こえる。
その音の発生源が自分である事、自分が鎧を身につけている事、その鎧を外す事ができない事。自分が人とは思えないような邪悪な波動を振りまいている事。
その他の色々な特別待遇に気が付くのは少しだけ先になる。
これが俺が完全に人間であった最後の日の記憶である。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
トンネルを抜けた車内には人がひしめきあっている。
帰宅ラッシュを迎えた車内では人がいない車両など存在しない。
みんな、窮屈そうに自分の入れるわずかなスペースを確保してこの人混みを耐えている。
そんな車内で一人分の座席が空いている。
座席の前に立っている女性はその座席に腰を下ろす。
隣に座っている人にすら聞こえない小さな事で。
「ごめんなさい。」
と呟いて涙を一粒流した。




