恋の形
失恋をした。
高校2年のこの秋の時期に失恋をした。
なんということはない。その言葉通りだ。端的に言って失恋をした。
この恋心にはっきりと気づいたのは半年ほど前。確か体力測定の50メートル走計測の時だった。自分が体育委員として皆の記録を集計していた折、さ行の人の番が回ってきて、彼女がスタートラインに立った。彼女は陸上部だったのでもちろん足は早かった。軽やかな足取りで彼女が走る姿を見たとき、その美しい走りに思わず魅了されたのを覚えている。
教科書で見るような手本のフォームすら遥かに凌駕するクラウチングスタート。無駄のないその動きに興奮した。一歩一歩踏みしめるごとに地が揺れていた。一歩一歩前に出すたびに加速していた。それはまるで足が自然とゴールに吸い寄せられているかのようだった。それほどに滑らかかつ精緻な走りだった。こんな感動的な気分になったのは初めてだった。世界が認める巨匠が生み出す美術作品なんか目ではなかった。そんなものむしろ眼中にすら入らない。彼女ほど美しいものは見たことがなかった。
私は計測のことなど忘れてただただ先の光景に心奪われていた。幸いだったのはそれでも無意識にストップウォッチを押していたことだろう。いや、不幸の方が正しいか。もし押していなければ、文句は言われるだろうけどもう一度あの走りを見れていたかもしれない……。
「早く下りてきなさい!もうごはんって言ってるでしょ!」
お母さんが呼んでいる。そういえば家に帰ってきていたのだった。もうごはんということは19時ぐらいか。いつの間にか2時間も経っていたらしい。
「ご、ごめん、今行く……!」
急いで制服から部屋着に着替えて階段を下りていく。
「もう、ずっと呼んでたのに気づかなかったの?」
「ごめん、ちょっと部屋でぼーっとしてた」
自分の席に座り、今日の夕飯の献立を見る。今日は純和食という感じで、焼き立ちの秋刀魚が香ばしい香りを放っていた。
私は急いで椅子に座る。お母さんが自分の隣に座りお父さんが前に座っている。今日は仕事が早かったようだ。久々に三人での食卓を楽しめる。
「いただきます」
「いただきます。……うん。今日のごはんもおいしい」
ごはんは自分の毎日の楽しみでもある。お母さんの作る料理は料亭に負けず劣らずだし、何より元々シェフを目指していたほどである。腕は確かなものである。
「そういえば今日は帰ってきてからずっと変だったそうじゃないか」
味を噛み締めながら食べていると、お父さんが不安そうな顔でそう言う。
「そうよ。早く帰ってきたのねと思えばすぐ上行っちゃって全く下りてこないし……。さっきだってぼーっとしてたって……」
「あぁそれは……」
「なんか悩み事か?言いにくいことなら別に無理にとは言わないが……」
二人が本当に気にかけてくれているのがよく分かった。できればこんなことで心配をかけたくない。でも言いにくいことなのは確かだ。だから今はまだ言えない。
「ごめん、ちょっと今日の授業で疲れてね。でも大丈夫。家で休んだらましになったからさ」
「そうか?ならいいんだが……」
二人はまだ疑心暗鬼な顔をしていたが、それ以上聞いてくることはなかった。
まだ明けて間もない午前五時。不意に目が覚めた。雨戸を開けて外を見るが、ようやく白んできたといったところで、朝のジョギングをしている人がちらほら確認できた。いつも七時に起きるのに今日はなぜか目が覚めてしまった。普段より早く寝たからだろうか。いずれにせよ二度寝するわけにもいかない。遅刻したら本末転倒だし。
すると下からどたどたと慌てる音が聞こえた。お父さんの出社時間には少し早い気がするがどうしたのだろうか。気になり下りてみると。
「誠さん、かばんかばん!」
「あぁすまない!」
「あれ?お父さんもう出るの?」
今まさに出るところのようだった。普段なら六時半ぐらいに家を出るのに……。
「実はね今日早く出なきゃいけないのを誠さんたら忘れてたのよ」
「ちょっとうっかりしててな……。真優子、スーツ乱れてないよな」
「大丈夫よ」
「よし!じゃあ行ってくる」
お父さんは慌ただしく玄関で靴を履き、扉を開けた。
「気をつけてね。行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーい」
「あぁ、行ってきます!」
そうしてお父さんが走ってバス停に向かった後、家には再び朝の静けさがやって来た。
「そういえば今日は起きるの早いわね」
不意にお母さんが訊いてきた。
「ちょっと目が覚めてね」
「まさかお父さんが騒いだから?」
「ううん。違う」
特に理由はないから否定だけをした。昔の人が朝同じ時間に起きていたときのようにすっと起きた。起きれた。ただそれだけ。
「そう…。なら朝ごはん一緒に食べちゃいましょ」
頷いて自分の定位置となった席に座る。すぐにお母さんが作っていた朝ごはんが置かれ、二人でいただきますを言う。
それからはもくもくと朝食を食べていた。テレビを付けて今日の天気などを話すことはあったが、別段変わった話はしなかった。いつもの日常だ。ただ一つ違うと言えばお父さんがいないことだろうか。それでも大したことじゃない。おそらく会議とかが入っていたんだろう。まぁそういう日もあるさ。
部屋に戻って身支度をする。学校に行く時間にしてはちょっと早いが、早いに越したことはない。
昨日既に準備をしていたバッグを肩掛けに持つ。自分の最も好きな青色を基調とした涼しげな印象のボストンバックだ。
階段を下りてすぐに玄関へ向かった。今日は体育があるし、運動靴がいいだろう。
「お母さん行ってきます」
「あら、もう行くの?」
「どうせならと思って」
「じゃあこれお弁当」
お母さんから手作りの弁当の包みをもらい、バッグの中へいそいそと仕舞う。
「今日は部活?」
「うん。帰るときになったら連絡する」
「お願いね。じゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関を出ると綺麗な秋空が広がっていた。まだ残暑が続くそうだから今日の体育に部活は辛いだろうな、とそんなことが頭を過るのだった。
学校の距離はそこまで遠くはない。最寄り駅から急行で一駅行けば着くところにある。でも電車賃がもったいないから自転車で通っている。お母さんには最近は夜道とか危ないから電車で行ったらと言われたが、トモがいるから大丈夫と言って結局自転車通いにした。トモというのは友達の友という意味ではなく、相坂知理という幼なじみのことだ。今日はさすがに一人だと思っていたのに、なぜか隣にはトモが並走していた。
「トモってストーカー?」
「なんでそうなる……」
「だって今日はいつもの時間じゃないのにタイミングよく家から出てくるし」
「いやいやホントたまたまだって。俺自身すげぇびっくりしたんだぞ?」
「どうだか」
軽快に自転車を進めていく。じわじわと辺りは暑くなるかと思っていたが、案外過ごしやすい感じだ。学校に着いたら暑いかもしれないが、これなら今日の体育は比較的マシかもしれない。
ここら辺りはまだ田舎に相当するところなため、景色はなんとも質素な雰囲気を醸し出している気がした。
ここの道は広いし好きだ。並走していてもお巡りさんが注意しに来るということはないし。でも学校近くになると都会にも近づくからさすがに並走はしないけど。
「そういや昨日佐藤を呼び出したんだろ?どうだったんだよ」
唐突にトモが訊いてきた。
トモは昨日自分が告白したことを知っている。もちろん自分で告げたからなのだけど、そんな風に訊いてくるとは……。
「いきなり人の傷抉ること言わないでくれる?」
「そうか……やっぱりダメだったか。だが、告白を決意することに意味はあると思うし、あまり気に病むなよ」
わかったような口を利く。でも誰よりも自分のことを理解しているトモなのだ。それが間違ってないからなんとも苛立つ限りだ。
「まぁ……分かってたことではあるけどね」
「だろ?まぁそれでもやっぱり自分の思いを言えるだけ凄いと思うぞ」
「そう?あっさり玉砕したってのに?家族にさえ言わずに勝手にフラれといて?」
「そんなん知らねぇよ。俺はお前の覚悟に感嘆してるんだ」
「へー、感嘆なんて言葉知ってたんだ」
「くそっ褒めてやってるのに馬鹿にしやがって……」
そろそろ車道に入る。踏切を越えれば道は狭くなるから、並走はやめて縦走に変えねばならない。
そして踏切のバーが上がったその時、
「……ありがとう」
トモにそう告げた。
トモは一瞬何のことか分からないといったような表情を見せたが、さすが幼なじみ。すぐに気づいて自分の背中に触れて、
「遠慮だけはするなよ。相談ぐらいは乗ってやるからよ」
そう言って踏切を越えるのだった。
それからトモとは学校に着くまで特に会話はなかったが、トモは少し照れていたような気がした。らしくもないことを言うからだ。でも素直に嬉しかった。その何気ないものが現実を緩和してくれた。だからその時だけなぜかトモの背中が頼もしく写っていた。トモのくせに。
行きは上りばかりで大変だが、立ち漕ぎさえ出来ればなんてことはない。二人で励まし合いながら坂を上がり、まだ人気の少ない校門を潜る。自転車を学校の駐輪場に止め、雑談を交えながら下駄箱へと向かう。
自分達の下駄箱の位置はなぜか隣だった。ちなみにクラスも一緒。変に同じになるから最近は離れないかなぁと思ったりしている。
「今日の体育ってサッカーだっけ?」
「そうですよ。忘れたんですか?」
皮肉気味に言ってやる。
「違ぇよ。確認で聞いたんだよ。ったくめんどくせぇなもう」
にやにやしながらトモをからかう。まるで昨日のことがなかったかのようだ。
しかし教室に入ると、まだ少ないクラスメイトが全員振り向いた。視線で体を射止められたような気がした。だが挫けるわけにはいかない。こうなることは分かっていたではないか。
『おい、あいつが佐藤に告ったんだって?』
『今じゃSNSでみんな騒いでるぜ』
『佐藤も相当動揺してたらしいぞ』
『らしいな。ってことは今日休むかもよ』
ひそひそと話してるつもりなのだろうけど、トモと自分を含めても10人しかいないここで聞こえないはずはなかった。
トモが彼らの元へ何か言いに行こうとする素振りを見せたので、腕を掴みそれを止めた。目で、別に気にしていないと伝える。トモは悔しそうな顔をしたがそれ以上何もしようとはしなかった。
しばらくして担任教師が教室に来るまで、クラスメイトの話は自分のことで持ちきりだった。登校した皆が自分を見る度すぐに自分の話をし始める。なんとも不思議な光景だ。
しかしそれでは終わらなかった。情報は次々と他のクラスメイトにも伝播していき、もはや教師すらその話を耳にするほどだった。別に何かを先生に言われたわけではない。ただそれほどに情報が早かったということだ。
おかげで今日一日居心地が一際悪かった。もしかすると告白した相手が悪かったのかもしれない。学年が違ってもその名が知れるほどに、佐藤さんは綺麗な人だと言われる存在であった。自分が惚れたところはその美貌ではなかったのだけど、致し方ないことだろう。
入学した当初は学校中で佐藤さんは噂されたものだった。まるであの時のように今度は自分が噂されている。望んだことではないし、気持ちのいいものではなかったが、なんだか一種の背徳感のようなものを少し感じてしまった。でも、慣れないものは不快しかやはり生まない。
時はそれでも着実に流れていき、放課後になった。ようやくましになるかなと思ったが、結局その当の佐藤さんが登校してくることはなかったのだった。
「今日の授業はホント長く感じたよ」
「お前大丈夫だったのか?」
「何が?」
「何もされてねぇよなって訊いてんの」
「さすがにそれはないよ。まぁ周りの目線が変わったのは確かだけど」
トモと一緒に今は部活をしていた。部活は陸上部。準備体操を入念にやっている最中だ。
しかしやたらと陸上部の先輩後輩皆自分のことを遠くから眺める視線が自分には痛かった。別に佐藤さんを追いかけて入部した訳じゃないのだが、勘違いされるのは必然だったのかな。とはいえ恋心に気づいたのは半年前なのだ。まずその時点でありえないし、それに中学のころから陸上部として走ることも嫌いではなかったからこそ入ったのだ。でも今はやはり勘違いされててもおかしくないけど……。
「ねぇねぇ先輩先輩」
そこへ厚かましく後輩の南田が話しかけてくる。
「なんだ南田。応答ならこの相坂知理がしてやるぞ」
南田の前にトモが立ち塞がる。今日一日一番苛立っていたのは間違いなく自分ではなくトモだろう。幼なじみとして心配してくれるのはありがたいし嬉しいのだけど、当人よりイライラしているというのはどういうことだろう。
「やだなぁ相坂先輩。僕は学校中が騒いでる先輩の噂話には全く興味ないですよ」
「……?じゃあ何なんだ」
「普通にお話しようってだけです」
「は?」
そういえばそうだった。彼は相当のミーハーで、男も女も関係なく話しかけてくるめんどくさいやつだった。自分は他の人達に明らかに劣る気がしているのだけど、世間ではモデルにいてもおかしくないほどの美形の部類に当たるらしい。こういうのって案外みんな自分で分かっているのではないかと思っていたのだが、そうでもないんだなと身に染みて実感している。自分は一般人だとここに来るまで思っていたから。
「こんなお方と陸上部で一緒になれるなんて光栄じゃないですか!」
「はいはいそうですね」
「相坂先輩が僕は羨ましいです……。僕も先輩と幼なじみになりたかった……」
「アホか。お前みたいな見境のなさそうなやつに幼なじみなんて務まるかよ」
「えっそうなんですか!」
自覚が全くないらしい……。苦笑いをしながら二人のやり取りを見ていたのだが。
そこで先生が近づいてくるのが視認できたので、皆一斉に普段通りにウォーミングアップを始めた。この陸上部顧問兼体育教師歴30年の伊藤正十郎先生は恐ろしく怖いことで有名であった。若い頃は一睨みで不良共を失禁させていたとか……。ま、まぁとにかく怖いことで有名な伊藤先生に逆らう者は誰もいない。のだけど、どうやら佐藤さんと自分には比較的優しい対応をしているらしい。同じように指導を受けている身からすれば、そうは思えないのだけどどうやらそうらしい。ということは伊藤先生もミーハーなのだろうか?この学校はもしかしてミーハーの巣窟!?
「止まってないでしっかり体操やれ」
伊藤先生に頭を小突かれてしまった。
「は、はい……。すみません…」
伊藤先生がその場を離れ、見越したように自分の醜態をトモが笑ってくる。
ちょっとこれにはむっとしたので。
「先生」
「どうした宮本」
「相坂くんが突然先生の後ろ姿を見てニヤニヤし始めました」
「何だと!?」
一瞬で真っ青になるトモの顔。顔には出さなかったが、自分の内心では大いにトモのことを笑っていた。ざまぁみろと。
それからトモがどうなったかは察しの通りだと思う。
部活は滞りなく続き、最終下校時間になった。部活仲間と別れを告げ、ついでに南田にも言ってやり、トモと一緒に家路についた。
今日はいろんな意味で疲れた。だから寄り道などはせずにそのまま帰った。ほとんど無意識になっていたらしく、気づいたら目の前に自分の家が立っていた。
そこでトモと別れて、扉を開け、玄関を跨いだ。
「あら、おかえり」
「ただいま」
声に隠れた疲労の音が出ていたのだろう。すぐに昨日のようにお母さんは心配そうな顔をしたが、それ以上何も言わないでくれた。
自分が笑顔で対応したからだろうか。詳しい理由までは分からない。でも自分の心情を察してくれたのならありがたかった。しかし結局その日も家族に話すことはなかった。自分で全てを抱え込むようなタイプでもなかったが、どうしても言いづらかった。でも家族は優しく、それに不満を訴えるようなことはしなかった。これだけは家族に言わない。そう決心したのだ、あの時に。自分のことを何より心配してくれるお母さんとお父さんに言えることではないと思ったから。
今日は昨日のようにすんなり寝ることはできなかった。真夏よりは過ごしやすくなったとはいえ、残暑のまだある初秋。それが就寝を妨げているのだろう。でも自分はそれだけではないと感じていた。それが何なのかはもちろん分かっている。だがそんなことを考えさせないかのように夜は更けていくのだった。
翌日。今日もいつもと大きな変化はない。昨日と違うことと言えばお父さんが慌てていないことか。というより休みであることかな。
「それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってらっしゃい」
今日は普段通りの時間なので、トモは変わりなく家の前にて待っていた。
相変わらず秋空は綺麗だった。蝉の生き残りが最後の求愛行動を行っていた。朝の微風が夏の退きと冬の訪れを感じさせた。しかし自分はそんなの関係なく自転車を漕ぎ続けなければならない……。
「ほら、頑張れよ。昨日は普通に行けたじゃん」
「待ってトモ……。いや、昨日の陸上部で張り切りすぎたとかなかなか寝付けなかったとか、まぁいろいろ条件が重なって足が動かないんだって……」
「言い訳無用。こんな坂のある高校に入学したんだから全く関係なし。さっ急げ急げ」
トモが急かしてくる。若干腹が立ったが、文句や言い返しをする気にもならなかったので。
「ケチ」
それだけ言ってトモに付いていくのだった。
今日も今日とて授業は続く。退屈だろうが何だろうが続くものは続く。しかしそれを聞いてない人はいる。寝てる者、遊んでいる者、別の教科をしている者。そして欠席している者。
今日も佐藤さんは学校に来なかった。
放課後部活にて。
「今日伊藤先生出張だって」
「よっしゃー!」
大体の人はこの疋田のように喜ぶ。疋田は自分達と同じで2年である。彼も若干のミーハーが入っているが、南田ほどではない。
「みんな喜びすぎ」
「ならさ、久々にリレーしようぜリレー」
「いいねリレー。チームはどうする?」
「ねぇ無視?」
「じゃあ宮本チームと相坂チームにしよう」
「あの巻き込まないでくれる?」
昨日は少しぎこちなかったが、みんな今日は通常運転のようだ。佐藤さんが休んでいるのは気になるが、次の日になった途端に自分が佐藤さんに告白したという話は噂に過ぎないのでは?と思われるようになり、放課後になった現在では昨日が虚構だったかに思えるほどになっていた。
人は珍しいものには目がないのだと思い知らされた。もしかすると自分がそれに対して無関心を示したことも要因かもしれない。何にせよ1日で大方解決して良かった。あとは佐藤さんが登校してくれれば良いのだが、周りがどう考えようと告白したのは事実だ。あれは噂に過ぎなかったと勝手に判断しようが、自分は確かに告白したのだ。
「なぜ俺まで巻き込まれている」
そこへトモが帰ってきた。さっきまで日直の仕事でいなかったのだ。
「佐藤がいない今、リーダーになれるのはお前らしかいないでしょ」
「うんうん」
「単純に幼なじみ二人でちょうどいいってチーム決めたな」
「知理あたっりー。まっおとなしくリーダーになりなさいな」
「あぁもう分かったよ……」
「やりぃ!」
トモも了承したみたいだ。なら仕方ない。自分もリーダーをしてあげよう。
「やるからには勝つぞお前ら!」
『うぉぉぉぉ!!』
向こうは気合い入ってんなぁ。
「まぁこちらは気長に行こう。でも気は抜かずにね」
気合いはいらない。覚悟さえあればいい。さて、トモをギャフンと言わせてあげようかな。
その日はみんなで楽しくリレーをした。結構うちの陸上部は強く、県大会2位の実力を誇る。実はそのスタメンにトモと自分、そして佐藤さんも入っている。しかしだからといって補欠の彼らが弱いという訳ではない。おかげで昨日に引き続き全力で走ってしまい、下校時にはくたくたになってしまっていた。
「う〜失敗した……」
「俺もやっちまった……」
帰り道。二人とも自転車を押しながら後悔をする。
これ以上の負荷をかけることは不可能だと思った。だから歩いていた。もう辺りは暗い。できれば早く帰りたい。でも……。
「こういう時近い方がいいなって思うよな……」
「それ分かる!でも寄り道できることとか考えると遠い方がいいような気もするんだよねぇ」
「まぁな」
二人ですっかり暗くなった田んぼ道を進む。なんてことはないいつもの道だが、最近は少し違って見えた。ような気がした。正しく自分は景色が見えているのだろうか。たまにそう思うときがある。顔を上げれば無数の星が目に入る。星はいつだって人を見下ろす。まるで何でも知っている神様みたいに。
「なぁ」
不意にトモが声を掛けてきた。
「ん?」
「まだ悩んでんだろ。佐藤のことで」
「…………」
「はぁ、全くお前と何年一緒だと思ってる」
「結構ばれないようにしてたんだけど」
「バレバレだ。とはいえその運命の日からまだ一日しか経ってねぇ」
「運命だなんて大袈裟な」
「ホントにそう思ってんのか?」
真剣な眼差しで見つめるトモ。気づいたら歩く足は止まっていた。
「覚悟決めてやったことなら、最後まで覚悟決めろよ。お前のそんな姿見たくねぇよ」
「知らないよそんなの」
少し怒り気味で投げやりに言う。
「でも、“私”は間違いだったなんて思ってない」
揺るぎない視線をトモに返すと、トモは途端に柔らかな態度になり。
「それだよ。俺が今まで見てきた“理沙”は」
そう告げると急に私の鞄をトモの自転車のカゴに突っ込んだ。
「ちょっと何すんの?」
「今から行ってこいよ佐藤ん家に」
「え……?」
「話つけてこいよ。おばさん達には俺から言っとくから」
突然何言ってんだと思った。もう20時近いというのに……。
「先伸ばしは時間の無駄。やるなら今やる。それが私の生き方」
「あっ、それ……」
「お前が小学校のときに俺に言った言葉だ。まぁ俺は相変わらず変なところで優柔不断だが、理沙もあの頃から変わってはいねぇだろ。ほら」
背中をポンと押された。軽いものだったが、それには熱く強い何かが込められているように感じた。
「行ってこいよ」
その言葉に抗う理由など存在しなかった。私は新たな覚悟を決めて、自転車を家への帰り道と反対に向けた。
そして疲れた足に鞭打ち、全力で漕ぎ始めた。目的地は佐藤さんの家。もしかしたらこのまま佐藤さんは学校に来なくなってしまうかもしれない。でもはっきり理由も聞かないでさよならなんてのは嫌だ。私が好いた人は、決してそんな弱い人ではないはずだから。
私はなりふり構わず漕ぎ続けた。ふと見えた星々に見守られながら。
「さて、俺はなんておばさん達に謝罪しようかな……」
送り出したはいいものの、これからを考えると自分の方がよっぽど大変な気がする相坂知理であった。
「はぁはぁはぁ、着いた……」
本来ならあそこから自転車でも10分はかかるところを5分でやってきたのだ。足はガクガクで、もはや立ってるのがやっとだった。
私はおそるおそる緊張しながらそっとピンポンを鳴らした。
『はいー。あら理沙ちゃん?』
「こ、こんばんは……。あのー、昨日と今日と佐藤さんが休んでいたので、心配でお見舞いに来ました……」
私にとても優しくしてくれる佐藤さんのお母さんは私は少し苦手だ。
『本当?理沙ちゃんありがとうね。熾奈美もきっと喜ぶわ。あっ、今玄関開けるわね』
ガチッと音がして、大きく扉が開けられた。
「どうぞ、入って」
すごくニコニコしながら私を入れてくれるお母さん。やっぱり少し苦手だ……。
「すみません夜分遅くに」
「いいのよ。部活があったんでしょ?」
「はい……」
「なら仕方ないじゃない。伊藤先生怖いそうじゃないの。熾奈美から聞いたわ」
何を佐藤さんはお母さんに言っているのだろうか。別に伊藤先生は悪い先生ではないのだけど。毎回私達を全国に連れていってくれる敏腕陸上競技トレーナーなんだし。
「そ、そうですか……。あの、それで佐藤さんは……」
「あぁ、そうね。熾奈美なら部屋にいるわ。案内するわね」
「お願いします」
佐藤さんの家には実は何度か上がらせてもらっていた。でもなぜかすごく久しぶりに感じた。別にそんな前でもないはずだけど、何か変化があったとしたらやはり私自身にある。
部屋の前まで行くだけなのになぜかその一歩が重く、そして遅くなったように思えた。私はこうなることを分かって告白したつもりだった。いつの日か芽生えた恋心に嘘をつきたくなかったから。でもいざこうなってしまうとやっぱり心が痛かった。悲しかった。恋人じゃなくてもいい。友達でいいからもっと一緒にいたいと。
トモはそんな私の気持ちに気づいていたんだと思う。見透かしていたんだと思う。だから背中を押してくれたんだと思う。
はぁ…… やっぱりトモには敵わないな。
「ほら、熾奈美〜。理沙ちゃんが来てくれたわよ〜」
佐藤さんのお母さんの声でもう部屋の前まで来たことに気づいた。確かに佐藤さんの部屋だ。何度も来たことはある。でもその扉より奥を想像することは出来なくなっていた。まるで禁忌の部屋のように思われるのだった。
「えっ!?お母さん…ちょっ、えっ!?」
中では何かどたどたと騒がしい音が聞こえた。慌ててる様子が見ていなくても一目で分かった。
「ほ、ほんとにいるの?」
「ほんとよ〜。ねぇ理沙ちゃん」
「えーと、き、来ちゃった……?」
私の声に反応して息を呑む気配がした後、さらに部屋の中で激しい音が響いた。
「あらあら、どうしたのかしらね〜。折角理沙ちゃん来てくれたのに」
私はこの部屋に入ることがいかに難しいことか分かっていた。本来は段階を踏むべきなのだ。しかし私はトモを信じてここまで来た。あとには引けない。何としても会う。会わなきゃ何も始まらないから。
すると突然部屋の中の騒がしさが止んだ。
「……いいよ……入って……」
私は目を見開いた。予想外だったのだ。まさかすんなり通れるなんて思っていなかったから。
「ふふっ、じゃあ私は下に降りておくわね。何かあったら呼んでちょうだい」
お母さんはそう言ってその場を離れた。不気味に思えてしまうほどニコニコしながら…。
ゆっくり開いた扉の側から覗き込むように顔を出した彼女は、紛れもなく佐藤さんだった。化粧っけのない素顔の佐藤さんだったが、綺麗で端整な顔立ちに変わりはなく、やっぱりこの方が可愛いなと私は思った。
「お、お邪魔します」
私は恐縮な気持ちでおそるおそるその禁断の部屋に入った。学校の皆が憧れる佐藤さんの部屋。初めて伺ったときは背徳感を否応なしに感じたものだが、今はまた別の思いを抱いていた。あの頃からこんなに変わるものかと感じさせられた。
パタンと扉が閉じられる。
佐藤さんはしばらく黙って何か言いたげな顔をしていたが、結局口を一文字に結んだままベッドに座ってしまった。
「えーと、さ、最近学校来てないね」
「…………」
「し、心配したよ?でも元気そうでよかった」
「…………」
「そ、そういえば部活でね、柿沢が……」
「……ねぇ、理沙もそっち側だったの?」
私は息を呑んだ。佐藤さんが私を部屋に入れてくれたのはちゃんとケリを着けようって思ったからだと私は理解した。
佐藤さんは悲しそうな目で私を睨む。親族でも殺されたかのような憎しみのこもった眼差し。私は一瞬で萎縮してしまった。
「ねぇ、理沙答えてよ……」
その声は震えていた。
「なんでよ……」
整った顔立ちがだんだんと崩れていく。声は涙声に変わっていく。
ここまで来た意味は何だったのか。佐藤さんを泣かせるためだったか。違う。私はケリを着けるために来たんだ。私は自分に嘘をつきたくなかった。そして本音で佐藤さんと話し合いたかった。だから……。
「違う。私は熾奈美の心意気と走ってるときの姿に見惚れて告白した」
もう半分泣きながらも佐藤さんは私に応じてくれる。
「走ってる……ときの……姿?」
「う、うん……」
「……容姿じゃなくて?」
「そ、そりゃ熾奈美は綺麗だけど、何よりもそこが好き……かな」
私もある意味では一目惚れだ。でもそれは佐藤さんに興味をもったきっかけなだけで、私は意外と無邪気な一面もある佐藤さんが好きだ。私とトモと三人で話してるときに楽しそうにしている佐藤さんが好きなのだ。けして佐藤さんが綺麗で可愛くて表では礼儀正しいところだけを見て好きになったのではない。
「私はそこらのダメ男どもと違う。私は本気で佐藤さんのことが好きになったの!」
言ってしまった……。
言ってから少し後悔した。私は恋心を抱くまで自覚もなかったが、私は女である佐藤さんを好きになってしまった。嫌われるのはイヤだったけど、伝えない方がもっとイヤだったから告白を決意した。それがほんの二日前の話。でも、それでも今の仲をも壊れてしまうことにずっと恐怖心があった。
なのに私は二度目の告白をした。もう後戻りはできないが、自分はこれで終わったという妙な確信だけが頭を過った。
「そっか……。そうか〜」
しかし佐藤さんはそんな私の全力の告白に、最初のときのような私を忌避するような顔は見せなかった。むしろ安心したという表情だった。
「理沙があいつらと違ってよかった……。やっぱり理沙は理沙だったぁ……。あいつら私のこと全然分かってないくせに告白なんてしてくるからさ……」
「あ、あれ?不思議というか、へ、変に思わないの?」
「変?」
自分で言いたくないんだけどな……。
「わ、私……お、女だし……。それを変に思わないのかなぁ……って」
それを聞いて佐藤さんはなぜか驚いた顔をしたが、すぐにぷっと吹き出してクスクス笑い始めた。
「……自分でそれ言うの?」
「だ、だって……それが原因で学校来てないのかな……って……」
佐藤さんはくつろぎながら目を閉じ、苦笑いを浮かべた。
「まぁ正直少しあったよ。素直に驚いたし。でも私はそれよりも今の関係が壊れるのが怖かった……」
佐藤さんは近くの可愛らしいクマの人形を引き寄せて、抱きかかえながら語り始める。
「私にとって理沙は心の支えだった。いつだって私を真っ正面から見てくれたから」
「そんな……私は……」
「理沙は気づいてるでしょ?周りの私に対する態度」
「…………」
佐藤さんはこの学校、いやこの国で一番と言っていいぐらい美人である。それは私が他の美人をよく知らないから言えるのかもしれないが、それでも明らかに格というものが違うと感じていた。それはもちろんクラスメイトも同じく感じていて、どうしても皆友達として佐藤さんに話し掛けることはできなかった。どこか佐藤さんとは皆距離を置いていた。
「誰も私を見てくれなかった……。見てくれなんてうわべだけじゃない……!」
なんか自分はブサイクみたいな言い方なのが少し気になるが、余計なツッコミは控えるとしよう。
「でも理沙と知理は違った……。二人は私を見てくれた……」
「熾奈美……」
私とトモは1年のときも同じクラスだったが、そのときは佐藤さんとクラスは違っていた。佐藤さんという美人が入学してきて、自分たちと同じ学年であるという噂はたちどころに広まり、私たちの耳にも届いた。最初は興味もなかったし、一目見ようとさえ思わなかった。トモは多少なりとも気にはなっていたようだけど、別にいっかと最終的にどうでもよくなっていた。
でも私たちは陸上部に入部を決めたときに佐藤さんと出会うことになった。
私たちも噂になっている美人相手にぎこちなくなってしまうこともあったが、部活で会う度に次第に打ち解けていった。そして、夏休みに入る前には一緒にお昼ごはんを食べるまでになった。トモは男の友達と食べることがほとんどではあったが、週に一回三人で一緒に弁当を食べながら他愛もない話をした。
「私は理沙の告白に、はいと答えることはできない。でも、親友だと思ってる。私は親友として理沙といたい……」
真っ直ぐに私を見つめながら、熾奈美はそう告げた。
「あぁ、見事な玉砕だなぁ」
「ごめん……」
「ううん、謝ることなんかない。私は私で折り合いついたし、むしろありがとう。私の思いに向き合ってくれて」
「ふふっ、やっぱ変だね理沙は」
「なっ」
「冗談冗談。あっ、そういや学校どうなってる?古典とか進み早いからすごいことなってそう……」
「冗談なの?まぁ学校なら……」
それからというもの、学校の話を中心に真夜中になるまで私たちは話し込んだ。幸い明日は土曜日で陸上部の練習もなかったから思う存分話し合った。
そして、翌朝。
「それじゃ、私帰るね」
「うん、また明後日」
鞄を持ち直し、自転車に跨って漕ぎ進めようとしたとき。
「あっ、ちょっと待って!明日、明日どっか遊びに行かない……?」
私は驚いた。私やトモから誘うことはあっても、熾奈美から誘われたことはなかったから。
「いいよ。どこ行く?」
「えーと、ゲームセンター……とか?」
「げ、ゲームセンター?いいけど、かなり遠出しないといけないけど……」
「問題ないよ。明日駅前でいつもの時間に。知理も誘っといてね」
「うん。……もちろん。それじゃまたね」
再び私はペダルに力を込めて自転車を漕いだ。
帰宅したとき、お母さんに怒られるかと思ったけど、普通に出迎えてくれた。私が自室に荷物を持っていこうとしたとき、お母さんに、
「知理くんに感謝しなさい」
そう言われ、それ以上詮索されることもなくお母さんは皿を洗い続けていた。
私はお風呂に入る前に玄関を飛び出し、トモのインターホンを鳴らした。
ガチャッという音ともに分かっていたかのようにトモがあくびをしながら出てきた。
「ふぁ~、おはよう。昨日はよく話せたかよ」
「まぁおかげさまで」
「そりゃよかった」
「ありがとね、ほんと」
「俺は幼なじみとして当たり前のことをしただけさ」
「えーと、それとね、明日って暇?」
「明日?別に暇だけど」
「熾奈美からの誘いなんだけど、ゲームセンター一緒に行かない?」
「げ、ゲームセンター!?ま、まぁいいぜ。行こう」
「ありがと。じゃあ明日駅前でいつもの時間に」
「おう。わかった。でもあれだな、お前はほんとは女二人で行きたかったんじゃねぇの?」
「うっ……」
なんでトモはわかるんだ。知理も誘っといてって言われたとき、トモもか~とか思っちゃいましたけど!
「図星だな。お前は顔に出やすいんだから、もっとポーカーフェイス磨いた方がいいぜ」
「う、うるさい!また明日!」
見透かされたことに恥ずかしさを覚えた私はさっさと家に帰った。扉を後ろ手に閉め、そのまま風呂場に向かいながら、トモには敵わないなと明日が楽しみだという思いが同時に浮上するのだった。
理沙はからかいがいがあるなぁ。
顔を赤くして戻っていく理沙を眺めながらそう思う。理沙の初恋が熾奈美になるとは思わなかったが、こうなると俺の初恋は叶いそうにないかもな。
「ふっ、お前を一目見たときから好きでしたなんて誰が言えんだよ」
まだしょぼしょぼする目をこすりながら俺はドアをおもむろに開いた。
不定期更新第四弾です。今回は慣れない恋愛ものです。お楽しみ頂けたでしょうか。トモみたいな幼なじみがいたら、どれだけ安心できることか。そんな友達、欲しいものです。それでは今回はここらで、次回も読んで頂けると幸いです。