第9話
あの日と同じ寝台の上。
わたしはあのときのようにオリバーと同じ夜を過ごした。
翌朝、鳥の声と陽光に幸せな目覚めを感じながら、隣りに首をまわした。
オリバーの広い背中が見える。
「オリバー……あなた……」
「汚らわしい! その名を呼ぶな!」
振り返るオリバーの瞳の色が憎しみに満ちている。
瞬間すべてを思い出した。
必死になってからだを隠そうとするわたしに、オリバーは無理やりのしかかり視線を合わせてくる。
「誰だ! 相手を言え! 幼馴染の男か? まさか……ダニエルか? あの放蕩者の手に堕ちたのか!」
「オリバー……あの……」
「その名を呼ぶなと言ったろう!」
オリバーの目から涙がこぼれ落ちる。
それはわたしの頬をつたい白い敷布へと流れていく。
思わず伸ばしたわたしの手をオリバーは払いのけ顔をそらした。
「本来なら八つ裂きにしても足りないところだが、腹立たしいことにぼくはエマ、君を愛している! 君なくしてぼくは生きてはいけない。それを承知で君は……!」
――ドガッ! ドガッ! ドガッ! ドガッ!
「…………!」
顔の両脇にオリバーのコブシが打ち込まれる!
そのたびに広い寝台のあちこちがギシギシと恐ろしい悲鳴をあげていく。
生きた心地がしないまま罰を受ける覚悟でじっと目をつむっていた。
「聖女のフリをした偽りの花嫁にどんな制裁を加えてやろうか! 言え! どうしてもらいたい!」
「……あなたのお気のすむまで……なんなりと……」
いまのわたしに生きる望みはない。
焼かれることもなくうち捨てられた人形のように、手足の力をダラリと抜いたまま横たわっている。
オリバーに顔を向けてはいても、瞳は宙を見つめたまま動かない。
もはやわたしの意識はこの世にはない。
「ではそうしてやろう! エマ! おまえは一生、ぼくの奴隷として生きろ! 生きながらにして人形になるのだ! ぼくの操り人形に!」
「はい……」
「くっそぅっ……!」
オリバーがわたしのむき出しの胸に顔を埋め泣きはじめた。
わたしの瞳からもとめどなく涙が流れ落ちる。
もはやわたしたちには、なすすべもない。
ひとしきり泣くとオリバーはとつぜん起き上がり、黙ってわたしの瞳をのぞきこんだ。
そしていきなり、むさぼるようにくちづけをしてきた。
わたしはただただ、オリバーの情熱を受け止めることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
結婚式のあとから毎日オリバーと公式の場に出掛けた。
さまざまな人々と出会い、そのたびに挨拶をさせられた。
わたしは島へ逃げ帰る機会を完全に逸していた。
公の場に出ることで人々の嘲笑を得ていることも自覚していた。
わたしだけならまだしも、オリバーまで陰口を叩かれるのは我慢できなかった。
新婚旅行は何ヶ月も前に取りやめになっていた。
どうやらオリバーは、クロエとの結婚事態を止めようとしていたみたいだ。
それを見越して継母とクロエはわたしを罠におとしいれたのだ。
わたしがオリバーと幸せになることだけは許さないつもりだったらしい。
オリバーは人前ではにこやかで親切な夫を演じていたが、2人だけになるとひどく冷酷で辛らつな男に変貌した。
わたしという存在を空気のように完全に無視することもあれば、とことん過去の男について言及することもあった。
だが、夜になると必ず情熱的に寝屋を共にした。
枕の下に忍ばせた結婚式の花冠はいつの間にか無くなっていた。
わたしの心と同じように色あせ枯れ果てホコリのように散ってしまったのだろう。
自らの運命を呪う気力もなく毎日を流されて過ごしていた。
気がかりだった島の所有権は、わたしに丘の権利が残っていたことで有利に働いた。
リード家の思いやりでエマ・リードとしてわたしが統治できることに決定した。
「君は昼と夜とではまるでちがうな? 昼間はこんなに貞淑な妻を演じているのに、なぜ夜になると好きでもないぼくのような男にあんな風に身をまかせられるんだ? ああ、そうか! 君は結婚前から聖女を演じていたな! 女優なんだ! ぼくも今度は女優と付き合うよ。彼女たちは私生活ではきっと、君のように嘘を演じたりはしないだろうからな!」
「あなた……」
わたしがオリバーの名を呼ぶことは許されない。
オリバーも決してわたしの名を呼ばない。
呼ぶのは情熱的なベッドのなかでだけだ。
◇ ◇ ◇ ◇
イングランドの王宮は深刻な事態に陥っていた。
議会派の勢力が強まり、王党派が脇に追いやられはじめたのだ。
ダニエルが言っていたとおりのことが起こりつつあった。
「このままでは議席数で我々王党派が負けてしまいます。そうなったら貴族に対する税金が跳ね上がり物価が上昇して人々が暮らしにくくなります。どうしても次の会議で議席数を増やさなければなりません。父上、他国から有力な貴族にお越しいただくことは出来ないのですか?」
「オリバー、それどころではないんだよ。前に暴動のあった領地がいつの間にか議会派に占領されているようなんだ。年明けに視察に行く予定だ」
「父上、ではぼくも一緒に参ります」
「いや、おまえはこちらでがんばっていてくれ。議会で人気のあるおまえが王宮を離れるのは得策ではない。オリバーはまだ新婚だ。エマのそばにいてやってくれ」
「エマも最近ではぜんそくがすっかりよくなったわね。少しふっくらしてきたんじゃない?」
「そうですね……」
オリバーが意味ありげにこちらを見た。
彼は最近ダニエルとわたしの噂話を聞き付け、2人だけになると必ずきつい嫌味を言うようになった。
もうすぐクリスマスだ。
新年を迎えたら島に帰るつもりでいた。
実はのっぴきならないからだの事情を抱えている。
さきほどもリード夫人やオリバーの言葉に一瞬ドキリとしてしまった。
自分のこのホッソリとした体型に助けられ今のところ誰にも気づかれてはいないが、臨月はさすがに無理であろう。
故郷に帰りひとりで乗り越えたい。
このことをオリバーに素直に報告したら、もしかしたら喜んでくれるかもしれない。
だが、すぐに医師から日数が合わないことを宣告されるだろう。
あの満月の夜のことはクロエたちとわたししか知らない。
いまさら打ち明ける勇気もない。
いままでのことを素直に告白すれば、わたしはオリバーに軽蔑されるだろう。
これ以上彼に嫌われたら、わたしは生きてはいけない。
結局のところわたしは、自分に自信がないだけだ。
だから逃げる。
偽りの花嫁のわたしに似つかわしい最後を飾ろう。
◇ ◇ ◇ ◇
議会派の躍進は日増しに強くなる一方だった。
このような状態のリード家を立ち去るのは心苦しいが、これ以上はごまかせない。
島の冬場は海風のおかげで温暖だ。
ここよりは過ごしやすいだろう。
部屋で荷物をまとめた。
カバンの奥から銀の小さなスプーンがでてきた。
「あら? これはゾーイの墓の前で拾った……」
このスプーンは幸福の象徴ではなかったのか。
でもこの赤ちゃん用のスプーンは、わたしの未来を暗示していたのかもしれない。
荷物を揃えた。
住居はジャックとメアリーが整えておいてくれるはずだ。
あとはどういう理由でリード家を立ち去るかだ。
そのとき口実が向こうからやってきた。
突然ドアが開き怒り狂ったオリバーが入ってきたのだ。
「ジャックという男の手紙を見せてもらった! 島に逃げる気だな!」
「あなた……それは……」
クリスマスにメアリーへカードと一緒に島に帰りたいムネを書いた手紙を送っていた。
その返事をメアリーの代わりにジャックが送ってきたようだ。
「いつでも帰れるように元の従業員部屋を整えておくとあるぞ! 隠していた男は、やはり幼馴染だったんだな! だからかたくなにしゃべらなかったんだな!」
「あなた……ジャックはそんなんじゃないわ! 第一ジャックにはメアリーという許婚がいるのよ。彼は本当にただの幼馴染なの」
「だったら、ダニエルとの噂はなんだ! ボバリー夫人はいまだに社交界でその話をふれまわっているんだぞ! この目で見たとな! どっちだ? どっちの男が本命だ! それとも……2人ともなのか?」
「そんな……わたしは決して……!」
「だったら本当のことを言え! 真実とはなんだ!」
「あなた……ごめんなさい……許して……」
「許してとはなんだ? 謝るということは……罪を認めるんだな!」
「あなた……きゃあ!」
オリバーが乱暴にわたしを抱き上げベッドに落とした!
すぐにわたしの上に乗り上げてきた!
「エマ! 君がすべてなんだ! はなしたくない! どうしてなんだ……? どうして君は……!」
「あなた……」
オリバーがわたしの胸に顔をうずめ苦しみはじめた。
わたしはオリバーの頭を抱えこみやさしく抱きしめた。
2人はやはり一緒にいるべきではない。
お互いを傷つけるだけだ。
彼には彼の本当の幸せを、どこかの誰かと見つけてほしい。
深い悲しみのなかで2人は愛し合い、やがて朝を迎えた。
◇ ◇ ◇ ◇
オリバーが起きだす前にカバンを片手にこっそりと屋敷を出た。
リード夫妻はセバスチャンと領地に出かけていた。
通りで馬車を拾い港へやってきた。
――ミャウミャウ、ミャウミャウ。
船を待つ間オリバーのことばかり考えていた。
去年この港に降り立ったときには、こんな結末が待っているとは思ってもみなかった。
――ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ!
船の上でドラの音を聞きながら、送ってくれる人もいない港を眺め続けた。
次にここへ来られるのはいつだろう。
そのときわたしは誰と一緒で、どんな気持ちでいるのだろう。
涙でにじむ視界の向こうに陸地がだんだんと遠ざかっていく。
だからわたしは気づけなかった。
港に隣接する建物の傍らで、泣きながらわたしを見送るオリバーの姿を。




