第24話
「きゃああーっ!」
――ダダダダダダッ!
瞬間、目をつむった!
だが、次にくるであろう衝撃はやってこなかった。
ゆっくりと瞼を上げた。
オリバーがバーバラ・パーマーの手を押さえつけていた。
「パーマー夫人! おやめください!」
「オリバー! 止めないで! ハアハア……この女のせいで会ってくれなくなったのでしょう? この女のお腹の子のせいでわたくしへの愛情が……!」
「ちがいます! この女性はわたくしの妻のエマです! ルーシー・ウォルターではありません!」
「ハアハア……正室? 妻ですって? そういえば……お腹が大きくないわ……」
宮殿の従業員たちが騒ぎを聞きつけやってきた。
門番がしきりとオリバーに謝っている。
有名なバーバラ・パーマーが訪ねてきたので、快く門を開けてしまったようだ。
「ルーシー・ウォルターのお腹の父親はわたくしです。今年の頭に舞踏会で再会して……。どうぞ、お引取りを」
地面の底に大きな穴がぽっかり空いたかのようだった。
わたしの周りだけ一気に暗闇が支配した。
穴の底に落ちたわたしは、いくらあがいても這い上がれない。
バーバラ・パーマーは落ち着きを取り戻したようだが、不審そうな目でオリバーを見ている。
胸がはみ出しそうなほど大胆な襟ぐりの真っ赤なドレスを着ていた。
「今日のところは引き下がるけど……。いいわね? 呼んだら絶対にくるのよ! そのときは良い返事を持ってらっしゃい!」
バーバラ・パーマーはそう言い捨てるとこちらにはいちべつもくれず、派手なドレスの裾を引きずりながら去っていった。
当然わたしへの謝罪は一切ない。
「エマ! 大丈夫かい!」
びっくりして座り込んだままのわたしをオリバーは引き上げ、強く抱きしめてくれた。
衝撃が強すぎて何も考えられなかった。
ぼうっとしたままオリバー腕のなかにいた。
ダラリと下げられた指の先には、編みかけのデイジーの花冠が引っ掛かっていた。
「オリバー……コホン、コホン……」
「恐い思いをさせてすまなかった……。すぐに部屋へ戻ろう!」
オリバーはそのままわたしを抱き上げ、部屋へと連れていってくれた。
横抱きにされ上を向いた瞬間、西の棟のカーテンの隙間から怯えた瞳でこちらを見つめるルーシー・ウォルターと目が合った。
睨みつける気力もない。
カーテンを握りしめて震えるルーシー・ウォルターの白い指先だけを、ただ見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇
バーバラ・パーマーはそれきりわたしの前に現れることはなかった。
しばらくすると、彼女の息子も国王から認知を受けた。
彼女の怒りは収まり、王城に押しかける回数が減ったそうだ。
ただ、気になる噂も聞こえてきた。
そのころ、オリバーがバーバラ・パーマーの元をお忍びで訪ねたそうなのだ。
息子が国王の子と認知されたら当分は男と遊べなくなる。
最後の逢瀬だったのではないかと大きな噂になっていた。
わたしの胸に衝撃が走った。
本当に最後なのだろうか?
ネル・グウィンのときのようにいまでもこっそり隠れて会ってやしないのか。
噂の出処はあの王城の侍女であろう。
バーバラ・パーマーのところの侍女と知り合いだと言っていたから、まず間違いはないと思う。
今度とっちめてやろうと思っていたら、向こうからやってきた。
「リードの奥方さま、たいへんです。まだ公になっていない噂を聞き付けました!」
「いったい、なにかしら?」
「リードさまのことです……」
「バーバラ・パーマーに会いに行ったという話でしょう?」
「そんな不確かな話ではないのです! 今度は正真正銘の本物です! リードさまがバーバラ・パーマーとベッドを共にしていると……!」
「なんだって……そんな……」
「バーバラ・パーマーの侍女が直接その目で見たそうです! だから最近バーバラ・パーマーの怒りが収まったって! 息子の認知のおまけに、当代きっての美男剣士オリバー・リードも付いていたって! いま社交界での、1番のうわさ話になっています!」
その話にはたしかに思い当たる節があった。
バーバラ・パーマーにこの宮殿を襲撃されて依頼、オリバーが毎日のように夜に外出するようになったのだ。
朝方帰ってきて西の棟に寄ってから寝室に戻る。
オリバーは香の匂いこそしないが、いつも疲れてげっそりとして帰ってくる。
そして激しくわたしを抱くのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
ノアの誕生日がきた。
朝から大はしゃぎでオリバーの買ってくれた木馬に一日中乗っていた。
これにはオリバーも大喜びで親子でずっと木馬を揺すって遊んでいた。
ダニエルを警戒して招待客は呼ばなかった。
その代わり思いがけない人物がやってきた。
「ウィンター公爵!」
「オリバー、リード夫人、ノア! お誕生日おめでとう!」
「おじちゃーん!」
「ほーら! たかいたかい! ノア! 大きくなったなー!」
ウィンター公爵はわざわざノアのために誕生日の贈り物まで携えてやってきてくれた。
「レオ! 急にどうしたんだ? 忙しいんだろう?」
「大事なノアの誕生日だぞ! 島も気になってな。ついでに行方不明の子供の捜索も頼まれてる」
「まあ! 島に行ってくださったんですね? どうもありがとうございます!」
「リード夫人、ニットのほうは順調ですからご安心を。今年は適度に雨が降り日も照り豊作でした。漁も好調で家畜の状態も良いそうですよ。お屋敷もきれいに保存されていました。よかったですね」
「うれしいわ! ほんとうにどうもありがとうございました!」
わたしは当主でありながら島を忘れていた自分が恥ずかしくなった。
自分の身に起こったことがあまりに辛かったとはいえ、島民たちはまいにち厳しい労働に耐えながら生きているのだ。
悲しみや苦しみに身を投じている場合ではない。
わたしがいなくなったら島民たちの生活はどうなるのだ!
ありがたいことに、今年は島を取り巻く環境が良さそうだ。
それだけでも救いだった。
「ところでリード夫人、あの島は小さい割りに入り江が深い。大きな船がいくらでも停泊できる。これからは海賊船などに備えたほうがいいと考え港に衛兵を配置しておきました。オリバー、よかったかな?」
「レオ、それは気づかなかった。どうもありがとう。エマの島だ。精一杯、守ってやりたい」
「ウィンター公爵、オリバー……どうもありがとうございます」
わたしは2人の紳士に心からお礼を述べた。
これからは島のことを第一に生きることにしよう。
女としての喜びも苦しみも今日を最後にケリをつけるのだ。
「リード夫人、こちらへ……オリバーいいかな? 少し彼女をお借りしても?」
「レオ、あんたならエマを安心して任せられる。おれはノアと木馬に乗ってるよ。エマ、いっておいで」
「ママ! いってらったーい!」
「ハハハハ! それはいい! どこまで遠くに行けるかな? それでは奥さん、いきましょう!」
「はい、ウィンター公爵」
ウィンター公爵の腕につかまり庭に下りた。
ルーシー・ウォルターがバルコニーから外を見ていた。
彼女のおなかは大きくせり出していて、誰が見ても子供がいることが明らかだった。
もはやルーシー・ウォルターは妊婦であることを隠そうとはしなくなった。
睡蓮の葉の上を蝶々が飛びまわり幻想的な雰囲気をかもし出していた。
色とりどりの花々も熱い陽射しにくたびれて下を向いている。
むあっとした草いきれは噴水の飛沫がはじき飛ばしてくれていた。
サアーッと風が横切り、デイジーの花畑を揺らしていった。
「暑くてデイジーも元気がないな。人間にも潤いが必要です」
「ウィンター公爵……」
「あなたは島に居たときのように生き生きとしておりませんな。何か心配ごとでも? 社交の場で予習はしてきたつもりですが」
「デイジーのように生きたいのですが、それだけでは島は沈んでしまいます。どうしたらよいのでしょうか」
「あなたはいま、質問されましたか? もしくは相談の答えを求められておられるのでしょうか?」
「はい。わたしは意見を求めています。それも明確な答えを」
「求めよ、さらば与えられんです。あなたはいまとても切ないのではないですか? やりきれない想いでいっぱいでしょう。でも、それを押し隠して生きている。ちがいますか?」
「はい、そうです。毎晩、苦しいのです。でも、それに耐えながらまいにち努力するのが人生だと思ってやってきました。なのに……事態はますます悪化するばかりで……どうしたらいいのでしょう?」
わたしは堰を切ったようにウィンター公爵に話しはじめた。
こんなに人に自分の想いを話したのは初めてのことかもしれない。
淑女らしくない行為だ。
でも、いちど話しはじめたわたしの口の動きを、自分自身でも止めることができなかった。
「切ないの心理をご存知ですか? 怒りの抑圧です。あなたは怒りを悲しみに転化しているだけで、実はオリバーに大いなる怒りを感じているのです。ちがいますか?」
「大いなる……怒りですか……? すぐには理解できそうにありません。高名なウィンター公爵がおっしゃるなら、間違いないのでしょうが……」
「学問の話ではありませんよ。一般的な人間の心理です。それは変わることなく続く人間同士の憎しみの形です。あなたの心に巣食ったその心は、なんらかの行為で解消しなくてはなりません。でなきゃあなたが自滅してしまう。その発端を作ったのは実はわたしなんですがね。そういう意味では、わたしはあなたに深くお詫びしたい。リード夫人はひどく痩せてしまった。悩みがそれだけ深いのですね。たいへん申しわけありませんでした。でもこれも、大国同士の大いなる未来のための布石なのです。あなたの崇高な精神が、イングランドとヨーロッパの将来を救うのです。ひいては国民のためとなります。貴族とは国民の明るい未来のために存在しているのです」
「ウィンター公爵、もうしわけございません。わたくしには、おっしゃる意味が半分も理解できません。あなたに謝っていただくような内容ではございませんし……。結局はわたしとオリバーの夫婦の問題なのでございます」
「それはそうですが……。だとしたらリード夫人、あなたからオリバーに愛の告白をしたことはございますか? オリバーからあなたとの結婚のいきさつは聞いています。あなたはオリバーと、義理の妹の身代わりで仕方なく結婚したと思っていらっしゃるのですか?」
「それは……わたくしが偽りの花嫁だということを気にしているかということでしょうか? それならば答えはノーです。罪ではありますが、わたくしはオリバーを結婚前から愛しておりました。ですからわたくしにとってこの結婚は、心から納得できるものでした」
「リード夫人、愛は他人に語るものではありませんよ。愛は本人に打ち明けてこそ意味を成すのです」
「ウィンター公爵……たしかにそうです。わたしからオリバーに愛を告げたことはございません。それが淑女のたしなみだと思って生きて参りました」
「あなたとオリバーには話し合いが足りないようだ。リード夫人、オリバーに聞きたいことを聞いてみましたか? 耐えているだけでは問題は解決しませんよ。強く出なければいけないときもあるのです」
「ウィンター公爵……わかりました。それらのお言葉を、よく心にとどめておきます」
「奥さん……皆があなたの味方です。オリバーなんか特にそうですよ! 彼の態度を見ていればわかるでしょう? あなたは絶対に間違ってはいない。勇気と自信を持ってお進みください」
「ウィンター公爵……どうもありがとうございました……」
デイジーの花畑の真ん中で涙を浮かべながらわたしは、ウィンター公爵に心より感謝していた。
彼に悩みを打ち明けただけで、とても心が軽くなった。
これからきっと、事態は好転していくにちがいない。
そんなうれしい予感がした。
◇ ◇ ◇ ◇
ウィンター公爵はそれからすぐに帰ってしまった。
いろいろと忙しい身のようだ。
ノアは上機嫌だった。
オリバーがやさしくしてくれるものだから、以前の子供らしいわがままを取り戻していた。
わたしに向かって普段できない要求をしてきた。
「ママー! お砂糖! もっと!」
「ノア……」
「エマ、ノアは子守に虫歯になるからと砂糖の制限をされているんだ。ノア、今日だけだぞ!」
「わーい! ぼくのスプーンを取ってくる!」
「あっ! ノア!」
ノアはトコトコと可愛らしく自分の部屋に走っていった。
以前よりもだいぶ足腰がしっかりしてきた。
オリバーや警備兵たちと走り回って遊んだ結果だろう。
性格もしっかりしてきたし話し方も前より明瞭だ。
食事中もお行儀よく席にジッとしていられるようになった。
過保護なわたしと離れたことで、よかった面もたくさんあるようだ。
「パパー! これで食べるー!」
ノアが例の銀のスプーンを持って駆け寄ってきた。
「ノア……それは……!」
「オリバー? そのスプーンを知ってるの?」
「これは我が家に伝わる銀の匙だ……。我が家に生まれてくる赤ん坊は皆このスプーンで最初の食事をとるんだ。ノアがこのスプーンを使っていたなんて……」
「これはリード家に伝わる物だったの? そんな……! わたしはこれを4年前、ゾーイのお墓の前で拾ったのよ」
「それはおれだ! おれが落としたスプーンだ! 許婚にこの銀の匙を渡そうとポケットに入れ、ゾーイの墓の前へ行った。クロエに会ってがっかりしてしまい、スプーンを渡す気がなくなって今まで忘れいたよ……。エマ、君が拾ってノアに使わせていたとは……! これも神の思し召しかもしれない。ノアは誰がなんと言おうと、リード家の立派な子孫なんだ! その銀の匙が認めてくれたんだよ! ノア! 我が息子よ!」
「パパー!」
「オリバー……おお、神よ……!」
オリバーが愛おしそうにノアを抱きしめた。
やはり、あの銀の匙は幸運のスプーンだったのだ!
こうして巡りめぐって、ノアとオリバーを結び合わせてくれたのだから!
わたしはスプーンを与えてくれたリード家の祖先に、心の底から感謝を捧げた。
◇ ◇ ◇ ◇
誕生日を境に、ノアもわたしたちと行動を共にするようになった。
寝室は別だが、日中は3人で一緒にいることが多くなった。
また植物園にも足繁く通うようになった。
「パパー! ママー!」
ノアがデイジーを持って走りまわる。
「この、いたずら坊主ー!」
そのノアをひたすら追いかけまわすオリバー。
「まあ……ウフフフフ、フフ……」
何気ない日常がこんなに幸せだなんて知らなかった。
オリバーがいてノアがいて、ただそれだけでわたしは満たされる。
ウィンター公爵と銀のスプーンがもたらしてくれた幸せな日常。
その幸運にわたしはしばし浸っていた。




