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島の娘  作者: M38
23/27

第23話

「エマ……エマ……おれのデイジー……」

「オリバー……あなた……」


 あの日からオリバーは人が変わったようにわたしを求めた。

 それは昼夜かまわず暇があればいつでもわたしを寝室に引き入れた。

 従業員たちの間でもきっと噂になっていることだろう。

 ケルアイユ公爵夫人やルーシー・ウォルターのときよりもずっと。


「あなた……こんな昼間から……」

「かまわないだろう? おれたちは夫婦だ! 誰にもなんにも言わせやしない!」


 4年前のときのように、いや、4年前のときよりもオリバーは狂ったようにわたしを抱いた。

 全身にオリバーのつけた花が散り、わたしは1日のほとんどを寝室で過ごした。

 オリバーがいないときも寝台から出られないほど疲弊していた。

 レースを編む棒さえも重く感じられるほどだった。

 彼は1日1回、必ずデイジーの花冠をプレゼントしてくれた。

 オリバーのわたしに対する情熱が、これほどまでにまだ残っていたとは。

 3年間のうっせきが、すべてこの数週間に集約されたかのようだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ケルアイユ公爵夫人は突然フランスに帰ってしまった。

 彼女が旅立つ前日にオリバーとあいさつに伺った。

 ケルアイユ公爵夫人とオリバーの様子を盗み見たが、特に親しい間柄には見えなかった。

 わたしとノアのてまえ演技をしていたのかもしれないが、オリバーはケルアイユ公爵夫人を敬う態度を取り続けていたし、夫人も終始、親しい部下と話しているような様子にしか見えなかった。

 ケルアイユ公爵夫人は帰り際、手紙を送るので必ず渡してくれとオリバーに念を押していた。

 オリバーはもしかしたら、ケルアイユ公爵夫人と誰かの仲介役をしていただけなのかもしれない。

 それならば、毎回オリバーが夫人の住まいから堂々と出てきていたのが納得できる。

 噂が立つようにわざとしていたのだろう。

 オリバーはケルアイユ公爵夫人の愛人の存在を隠すためのカムフラージュに使われていただけなのかもしれない。


 オリバーはネル・グウィンとも切れたと噂になっていた。

 彼女の息子はケルアイユ公爵夫人がフランスに帰ったその翌日、国王から認知を受けた。

 さいきん機嫌の悪かったネル・グウィンが認知の報を受け、狂喜乱舞しながら劇場でドンちゃん騒ぎをしたことがイングランド中で話題になっていた。

 いまではネル・グウィンの関心事は息子のみとなっているらしい。 

 その日からオリバーとネル・グウィンが連れ立って出歩くことはなくなったそうだ。


 一方、バーバラ・パーマーはネル・グウィンの息子が認知されたことで大変な怒りようだ。

 連日のように王城へ押しかけ国の重鎮たちを悩ませていた。

 バーバラ・パーマーへのオリバーの訪問がパタリと無くなったと、例の王城の侍女が知らせにきてくれた。

  

 オリバーの外出はぐっと減った。

 ケルアイユ公爵夫人がいなくなったことで王党派カトリックの抵抗勢力が弱まり、いままで鎮圧に動いていた議会派に余裕が出て少し政情が安定してきたらしい。

 だが、家に居る分わたしへのオリバーの執着は異常とも思えるほど強くなった。

 常にわたしのそばから離れず寝室でときを共にし、ひどいときには膝に乗せて手ずから食事をさせてくれた。


 ぜんそくはおさまっていた。

 オリバーが新しく南国から取り寄せてくれたハーブが、わたしの症状にピタリと一致したようだ。

 咳が止まり呼吸も苦しくなくなった。

 

 子供の手前このような生活はよくないと何度も訴えたがオリバーは聞く耳を持たず、ノアは子守の元で寝起きするようになり、わたしとは完全に引き離された生活となっていた。

 オリバーは以前のようにノアを可愛がらなくなった。

 かわいそうなノア。

 ときどき会えるとノアは飛んできてひどく甘える。

 だが、すぐにオリバーに引き離される。


「ママー!」

「ノア! 部屋にもどっておとなしくしていなさい!」

「パパ……?」

「オリバー……そんな言い方……」

「いいから! ノアはあっちへ行っていなさい! パパたちはいそがしいんだ。ママは疲れてる!」

「はい……」


 ノアはとぼとぼと子守の元へ帰っていった。


「ごめんね、ノア……」


 オリバーはノアが自分の子供だと思えなくなったのだろう。

 ひどく冷たい態度を取るようになった。

 厳しく叱りつけたりもするのでノアの気持ちを考えると非常に辛い。

 ノアを見ているとキャロルのことを思い出す。

 あの子はいま、どうしているのだろう。

 寂しがり、マミー、マミーと毎晩また泣いているのだろうか。


「エマ! すぐに支度して出掛けよう。さあ、これを着て!」

「オリバー……えっ……これは……」

「母のドレスにそっくりな物を見つけたんだ! ほら、素敵だろう? エマに似合うと思って……」


 それは4年前にオリバーの母親にいただいたピンクのドレスとよく似ていた。

 上質なシフォンを身にまとい揃いの絹の靴に足を通すと、まるで4年前の舞踏会に戻ったときのように感じられた。

 だが、確実に今のオリバーとわたしの間には、あのころはなかった深い溝がある。

 あのころ感じた甘いときめきを、いまのわたしには感じることができない。

 今日もオリバーが被せてくれた花冠も、なぜか掠れて見えた。


 オリバーと向かった先はなんと、4年前に初めて行った舞踏会の屋敷だった。

 天井や大広間の壮麗な造りはなんら変わっていないのに、それを見るわたしの心はひどく変わっていた。

 十代の夢みる乙女は、いまやわたしの中のどこにもいないということを思い知らされた。

 豪華なシャンデリアの灯かりやピカピカに磨き上げられた床までも、あの頃よりも濁って見えた。


 だが、弦楽四重奏の調べは変わっていなかった。

 ファーストダンスは今回はオリバーと踊ることができた。

 クルクルと回りはじめたオリバーの輝く瞳を見ていると、あのときの出来事が走馬灯のように思い出されてくる。


 ご丁寧に四方の壁際では、大きな扇の陰でうわさ話をしている女たちの様子までもが再現されている。

 最近オリバーが女たちと関係を絶ち妻であるわたしと寝室を共にしていることを、おもしろおかしく噂しているのだ。

 オリバーが言うとおり、夫婦のことを他人にとやかく言われる筋合いはない。

 だが、女たちにとってはかっこうのネタであろう。

 4年前ちがう女性と婚約していたオリバーは今宵、ファーストダンスのステップをその女の義理の姉ときざんでいる。

 ステップのリズムがピタリと一致していても、2人の心が同じとは限らない。

 ここ最近の彼の気持ちが、まっくわからないのだ。

 4年前よりもたくさん、肌を合わせているというのに。

 

 いまもダンスのせいで2人の肌は薄い絹一枚でピタリと密着している。

 4年前はそれだけで離れがたい想いにとらわれたものだ。

 オリバーの吐息を耳元に感じるだけで、気持ちをすべてもっていかれてしまう。

 彼の瞳を見つめ続けるこの状況はあのころとまったく一緒だけれども、わたし自身は音の無い世界に行くことがいっこうにできない。

 夢の世界には2度と入れないのだろう。

 オリバーを見つめながら、彼のうしろでうわさ話をするご婦人方の扇の揺らめきが気になって仕方がないのだ。

 もう、オリバーの瞳の奥へ旅する機会はないのか。

 乙女の時代はとっくに過ぎ去ってしまった。 

 ふと視線を感じて振り返ると、テラスからクロエがこちらを見ていた!


――ドンッ!

 

「エマ?」


 ダンスの途中でオリバーを押しのけ、テラスへ走った!

 そうだ、あのときもクロエはああいう目をしてわたしを見ていた。

 おまえを絶対に許さないという目だ。

 一気に中庭まで駆け抜けた!


「ハアハア……誰もいないわ……。いけない、ぜんそくが……コホン、コホン……」

「エマ!」

「オリバー……」


 うしろからオリバーがやってきた。

 大広間からバイオリンの演奏が聞こえてくる。

 あのときと同じ状況がつくりだされていた。


「急に走ったらいけないよ? そこのベンチに座ろう」

「ハアハア……はい」

「どうしたんだい?」

「クロエが……ハアハア……」

「クロエ? 彼女のことは放っておけ。またトラブルに巻き込まれるぞ」

「でも……」

「何かあれば堂々と接触してくるだろう。そういう女だろう? 君は何も気にしなくていい」

「わかりました……」

「エマ……月がきれいだ……あの夜と一緒だね?」

「オリバー……」

「おれが風邪をひいた理由を知っているかい? このベンチで朝まで君との余韻に浸っていたせいだ。港で島へ帰る君を見送ったときも、おなじぐらい切なかった……」

「あなた……」


 やはり彼もこの場所を憶えていたのか。

 あのころはオリバーはクロエの婚約者で、わたしたちは手を握るのも憚られるような関係だった。

 

――リーン、リーン……。

 

 そうだ――あのときもこんな風に虫が鳴いていた。


「エマ……愛してるよ……月の女神、おれのデイジー……」

「オリバー……」


 オリバーがキスをしようとしてきた。

 実は、彼に求められた夜からキスができない。

 どうしても拒んでしまうのだ。

 今夜もオリバーの唇が触れる寸前に横を向いてしまった。


「…………!」

「……ごめんなさい」

「クロエと一緒にダニエルもいたのか?」

「えっ……? なんて……?」

「だから拒むのか? え? そうだろう?」

「そんな……さっきはクロエしかいなかったわ! 本当よ!」

「わかるものか! なにしろ……4年前婚約者のいたおれと、キスできたぐらいだからな!」

「なんてことを……! ひどいわ!」

「本当のことだろう? なぜキスぐらいできない? くそっ! 思い出ごと汚された気分だ!」

「オリバー……あなた……」

「先に戻ってる! 落ち着いたらあとからきなさい!」


 オリバーは怒って大広間へ戻ってしまった。

 

「オリバー……ごめんなさい……」


 あのとき警鐘を無視したわたしへの罰だ。

 情熱という名で自分の衝動を包み込み、己の罪を隠蔽したことへの報いだ。

 背徳の味は蜜だと言っていたのは、たしかダニエルだった。

 

 下を向くわたしの足下に影が差した。

 誰かがわたしと満月の間に立ち塞がったからだ。

 顔を上げなくてもわかる。

 クロエだ。


「何が望みなの? どうして欲しいの?」

「エマ……母が見つかったの。遠くの親戚の家に身を寄せていたわ。だからわたしも、遠くへ行くの。もう会えないかもしれない。最後にあいさつをと思って……いままでごめんなさい」

「クロエ……!」


 顔をあげたとき、すでにクロエの姿はなかった。


――リーン、リーン……。


 あとには鈴を転がすような虫の鳴き声しか聞こえてこない。

 クロエを探す気力も残っていなかった。

 わたしはこのあと、クロエの目を見て話すべきだったと後々後悔することになる。

 あらゆる意味で、わたしは人を信用しすぎた。

 しばらく虫の声に聴き入っていた。

 だが、こんなところにいても仕方がないと立ち上がり歩きはじめた。


「エマ!」

「え……っ?」


 いきなり暗闇から現れた男に手を取られた。

 びっくりして振り向くとそこには――ダニエル・リードがいた!

 彼はいきなりわたしに抱きついてきた!


「一緒に逃げよう! ノアも一緒に!」

「やめて! 離れて!」


――――ドンッ!


 わたしが強く押すとダニエルは簡単に離れていった。


「なにをしている!」

「オリバー……」

 

 オリバーがすごい形相でやってきた!

 彼はテラスのあたりからわたしを見守っていたらしい。

 駆け寄ったオリバーに抱きすくめられたとき、すでにダニエルの姿はどこにも見あたらなかった。

 ダニエルに触れられた背中の中心が、ボバリー夫人に蹴られたときのようにジンジンと痛みはじめる。

 古傷はまだ治っていなかったのだ。


「エマ! またか! また会っていたのか! くそうっ! 君のそばを離れるんじゃなかった!」

「オリバー……コホン、コホン……ちがうわ……ダニエルさまが勝手に……」

「いいからこい! すぐに帰るぞ!」


 無理やりオリバーに馬車に連れていかれ、招待主に別れのあいさつもせずに宮殿へ帰った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ 


 その日からオリバーにダニエルのことを責められるようになった。

 いくら弁解しても聞き入れてもらえず、夜は夜で情熱的に攻められた。

 ジャックやメアリーから島の様子を伝える手紙がきたが、オリバーがすべて破り捨てた。

 オリバーはもう、わたしの島さえも憎いと思うようになってしまった。

 絶対に島へは還さないと言う。

 反対にわたしは、早く島に帰らなくてはと考えるようになってしまった。

 だからどんなに疲れているときもレースだけは編むのをやめず、いつかオリバーと離れるであろうその日に備えた。


 ルーシー・ウォルターのお腹は日を追うごとに大きくなり、それもわたしを責めさいなんだ。

 オリバーの西の棟への訪問は止まない。

 ノアとの接触は更に減らされた。

 オリバーはダニエルだけでなく、ノアにさえも嫉妬の炎を燃やした。

 

 しばらく経つと、オリバーはわたしを食事会やサロン、舞踏会などの公の場へ連れ歩くようになった。

 最近、国王の女性関係が落ち着いてきたことにより国政が安定してきた。

 オリバーの仕事にも影響があるようで、諸外国との貿易が活発化してきた。

 商売が盛況になるにつれて義務的な付き合いが増えてきたようだ。

 いままでオリバーの公の場でのパートナーを務めていたネル・グウィンがいなくなったため、わたしにお鉢がまわってきたみたいだ。

 なんとも惨めな話だが、オリバーの役に立てるならとがんばって社交場へ足を運んだ。

 ネル・グウィンほどの演技力はないが、義理の両親やリード家の親戚、セバスチャンたち従業員のためにも一生懸命リード家の伯爵夫人を演じた。 


 その甲斐あってか、わたしの評判は上々だった。

 ぜんそくもハーブのお蔭で鳴りをひそめている。

 皆の間でわたしは、浮気性な夫を陰で支える健気な妻というイメージが定着していた。

 多少なりとも女性関係のある貴族の夫を持った妻たちにとって、わたしは同情と共に共感できる夫人として受け入れられた。

 ただ、女たちのあけすけなうわさ話には心底うんざりしていた。


 そんなに心臓が強いほうではない。

 気にしないふりをしてただ傍観しているだけだ。

 オリバーはダニエルとの一件依頼、公の場でかたときもわたしのそばを離れないようにしている。

 そのダニエルが、ときどき東の離宮の周りに現れるので、そのたびにオリバーはカリカリして不機嫌になりわたしを責める。

 クロエと別れたいま、ダニエルはいったいわたしたちに何を望んでいるのか。

 何も言わずにそれ以上は距離を近づけてこない彼の存在がとても不気味だった。


 今日も王城のサロンで人々のうわさ話に苛まされていた。


「ねえ、リードの奥さま、わたしたち本当に感心しておりますのよ! だって、あのケルアイユ公爵夫人を追い出したのでしょう? たいしたものだわ!」

「女優のネル・グウィンもでしょう? リードさまはよく、彼女と連れ立ってこの王城に見えてましたわよ? 決まって、奥の小部屋へ……あら、失礼? でも、過去のことですものね? 気になさらないでしょう? リードさまは劇場はもとより、ネル・グウィンの館にもよく通われていたとか? でも、オリバーさまと奥さまのお宅でのお噂のほうが有名ですわよ。それはもう、オリバーさまに愛されていらっしゃるとか……。国王の愛妾に勝っただなんて、素晴らしいことですわ!」

「バーバラ・パーマーさえも撃退なされたのでしょう? いったい、どうやって? バーバラ・パーマーほどの気性の女は、わたくし見たことございませんわよ? いまだに国王を悩ませているとか。今日も朝早くから、王城へ直談判に上がったそうですわよ! 泣き喚いて大騒ぎしていたとか! ねえ、みなさん?」

「奥さまのその美しさと慎ましやかな風情の勝利ですわね。やはり女性は、奥さまのように家庭的でないと!」

「ところでリードの奥さま、ルーシー・ウォルターはまだ東の宮殿におりますのでしょう? あの娘の家は最後まで王党派として激しく抵抗していましたのよ。王族の末裔らしいわ。結局、一族は首都を追われて地方に逃れましたのよ。嫁ぎ先がなくなり軍人の愛妾になってオランダへ渡ったのですが、亡命していた王族と知り合い、今年の頭にイングランドへ復帰したばかりなんですの」

「……そうだったんですか。わたくし、彼女のことは何も知らなくて……。庭で会っても会釈するぐらいで……」

「まあ! それはいけないわ! 正室は側室のことを把握しておくべきだわ! それが貴族の常識よ! 将を射んと欲すれば先ず馬を射よでしょ? ましてや、ねえ……暮れには子供まで生まれるそうじゃないの?」


 それから延々と、皆から側室とその子供のあしらい方についての講義を受けた。

 オリバーとルーシー・ウォルターの噂に妊娠の話が加わり出したのはごく最近だ。

 いまごろになってネル・グウィンの館でオリバーとルーシー・ウォルターがもめたことが人々に広まりはじめた。


 わたしにとっては針のむしろのこの社交場で、それでも毅然と立っていられるのはひとえにリード家の嫁としてのプライドだけだ。

 オリバーの正室としての役目を果たす。

 ただその使命感だけがわたしを支えていた。


「奥方さま……」


 そのとき、そっと袖を引く者がいた。

 例の王城に勤める侍女が、意味ありげな上目遣いでこちらを見ている。

 そうか、ここは彼女の仕事場だった。

 なにか急用だろうか。


 わたしはサロンの人々にお詫びをしながら退室し、侍女のあとを追った。

 実は心の奥でホッとしていた。

 もう少しで扇の陰で泣き出しそうだったからだ。

 いくらなんでも夫がよその女に産ませる子供の話には耐えられそうにない。

 侍女は王城の奥へ奥へと入っていき、小さな部屋の前で突然とまった。


「こちらへ……」 

 

 そしてその部屋の隣りにある階段の暗がりへわたしを引っ張りこんだ。


「あの……ちょっと……」


 わたしはとまどったが、観念してそこに止まった。

 王城のこんな奥まできてしまっては、ひとりでは帰れない。

 侍女に従うしかなかった。


 彼女はギラギラした目で隣りの小部屋のドアを指差した。

 ドアが開いた!

 小部屋から出てきた人間にとってこの暗がりは死角になっているらしい。

 その人物は無防備になんの警戒もしていなかった。

 オリバーだった。

 

 いまオリバーは国王の間へ謁見に行っているはずだ。

 嘘を吐かれていたのだ!

 もうひとり小部屋から誰かが出てきた。

 この香りは――ネル・グウィンだった!

 息子らしき小さな男の子も一緒だ。

 オリバーはネル・グウィンの息子を恭しく抱き上げると、彼女のあとに続き廊下の奥へと消えていった。


 衝撃でカラダが震え、しばらく言葉がでなかった。

 喉がカラカラになり、咳ひとつ出る形跡がない。

 体中が凍りつき固くなった。

 

 数年前のオリバーの言葉が甦ってきた。


『ぼくも今度は女優と付き合うよ。彼女たちは私生活ではきっと、君のように嘘を演じたりはしないだろうからな!』


 オリバーはたしかにそう言った。


「奥方さま、ここが有名なリードさまとネル・グウィンの秘密の小部屋です! ぜひ、奥方さまに見せて差し上げたく思いまして……」


 侍女が横目でこちらの様子を伺っている。

 最後に会ったときみやげを持たせなかったことがそうとう気に入らなかったとみえる。


「それで? 早くサロンに案内してくださる?」

「あの……はい……」


 わたしにもプライドがある。

 侍女の暇つぶしに付き合うほどヒマではない。

 だが、絹のドレスの下で足は震えていた。

 もう動揺などすまいと思っていたのに、心まではコントロールできないようだ。

 体にまで影響するようではすでに限界がきているのだろう。

 手にまで震えがくる前に、ありがたいことにサロンに到着していた。

 侍女はわたしが打撃を受けていなかったことが面白くないらしい。

 がっがりしながら一礼して去っていった。


「エマ!」


 サロンにオリバーがいたのでびっくりしてしまった。


「どこに行ってた! 誰に会っていた!」


 ひどい剣幕で怒っている。


「……侍女に……城のなかを案内してもらって……」

「城のなかだって? どこだ?」

「あの……よくはわからないわ……」

「王城のなかまでダニエルがこられるわけないが……。もう、帰ろう! 君は目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうんだな」

「……そんなことは」


 他の女と密会していたオリバーにわたしを責める権利などないはずなのに。

 モヤモヤした心を抱えたまま帰路についた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇


 翌日。

 気分転換にデイジーの花畑に行ってみた。

 ここにいると島に帰ったような気分になる。

 ノアを連れて島に帰ってしまいたい。

 だけどそれでは3年前の再現になるだけで、なんの解決も得られないだろう。


 どうしよう、どうしたら――最善の方法がどうしてもわからない。

 ジッと耐えることが得策だとはわかっている。

 だが、それだけでは、いつまで経ってもこう着状態から抜け出ることができない。

 なぜなら今のわたしたちは、とてもよくない状況に陥っているからだ。


 誰か助けて!

 問題を抱えているのに相談する人もなく改善策も見つからないまま、デイジーの花冠だけが完成していく。

 本当はこの場所にはいたくない。

 ルーシー・ウォルターの部屋からこの花畑はよく見えるからだ。

 半分あてつけのようにして花畑に陣取っている自分にも嫌気がさす。

 じっと下を向きながらデイジーを編んでいると、目の前に影が差した。

 花冠を作ることに夢中になっていて、人が近づいてきたことに気づかなかった。

 誰だろうと顔を上げて心底おどろいた。


 美しいまなじりを最高潮にまで引き上げ長い黒髪をメデューサのように風にたなびかせ、頭上高くに振り上げた手の平を今まさに振り下ろそうとしているその女こそ、稀代の悪女バーバラ・パーマーだった!

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