第19話
それからの日々は漫然と過ぎていった。
だが、わたしはただ流されていたわけではない。
オリバーの心が3人の賢婦人の元にあるのは、いたしかたないことだ。
わたしがイングランドを離れていたこの3年は彼にとって激動の時代だったのだから。
彼女たちのお蔭で今のオリバーが存在しているわけだ。
偽りの花嫁であるわたしもその子供であるノアも、本来であれば彼に再会することは叶わなかったはずだ。
考えても過去は変わらない。
すべてはなかった事として水に流すことにした。
それよりも、自分自身が彼女たちに追いつけるように心がけた。
毎日きちんと化粧をして身なりを整え髪型やアクセサリーなども工夫した。
ネル・グウィンを見習い会話もウィットに富みオリバーが楽しめるような話題を選んだ。
なるべく笑顔を絶やさず、健康なフリをした。
オリバーが以前、革命が起きたら国外へ逃げると言っていたので、ノアとヨーロッパの文化や言語、マナーや習慣についての勉強をした。
以前のようにいろいろな知識を得ようと本を読んだりオリバーに質問をしたりした。
彼はとてもよろこび、わたしとノアにさまざまなことを教えてくれた。
あの王立の植物園にも暇があれば何度も連れていってくれた。
オリバーがまいにち王城へ上がっているのは本当のようだ。
疲れている理由が女たちの相手だけではなく、他に重要な仕事がありそうなことも確からしい。
青白い顔で熱心に書類を点検しているオリバーの姿をよく見掛けるようになった。
ときには長い手紙を書いていることもある。
剣の稽古にも余念が無かった。
近々戦争か革命が本当にあるのだろうか。
そんな雰囲気がオリバーから見てとれた。
いつでも逃げられるよう荷物をまとめておくようにと常に言われていた。
だが、相変わらずオリバーの朝帰りはなくならない。
最近ではひんぱんにネル・グウィンと公の場に出掛けているようだ。
知りたくなくてもメイドや侍女たちが教えてくれる。
わたしとノアはオリバーに、人が多く出向く場所や社交場へは絶対に行くなと先に釘を刺されていた。
もはや打つ手もなくだが負けるのもイヤで、わたしはわたしに出来る精一杯の生き方を見つけようと模索していた。
勤勉さだけは持ち合わせていたので、涙に暮れた翌朝も早起きして水を撒き掃除をして衛兵たちに止められながらもポニーの世話をした。
女とオリバーのことを考えると夜が長すぎて眠ることができない。
遊びつかれて熟睡するノアの傍らで毎晩レースを編んだ。
そんな生活をくりかえすうちにわたしの体は痩せ細り、ぜんそくがぶり返してきた。
1ヶ月も経つとオリバーの目にも明らかで、ひどく心配された。
「エマ……ずいぶん痩せたな……なにか心配事でも? 最近、ケルアイユ公爵夫人が忙しくてノアがレノックスと遊べないことを危惧しているのか? だったら子守を雇おうか?」
「オリバー……コホン、コホン……大丈夫よ……」
「エマ……」
オリバーがわたしの前にひざまづき両手を握りしめてきた。
碧い澄んだ瞳でこちらの様子を伺っている。
オリバーもずいぶんとやつれた。
寝不足の目は赤く充血し肌も荒れている。
金髪の巻毛も伸びて乱れ放題だ。
不自然に開け広げた襟元からのぞく白い肌は、むかしのように生き生きとはしていない。
不健康に青白いだけで、血管が通っている人間のモノにはとても見えない。
不貞行為を平気でしていること事態、同じ人間とは思えないが。
また、心のなかでオリバーを責めてしまった。
うしろめたくなったわたしはツイと視線を反らした。
それに気づいたオリバーがとても傷ついた顔をした。
その表情を見ているだけで死ぬほど辛くなる。
オリバーはわたしに、いったいどうして欲しいのだろうか。
こちらにきてから1度も寝屋を共にしていないというのに。
オリバーが言う通り、ケルアイユ公爵夫人は息子が認知されてからとてもよそよそしくなった。
元男爵の娘なんかとは口も利きたくないといった雰囲気があからさまに感じられる。
ノアとレノックスを絶対に一緒に遊ばせなくなった。
国王のお墨付きを貰った息子を連れ、近々フランスに帰るつもりらしいと従業員たちが噂していた。
反対にルーシー・ウォルターはさいきん体調がいいのか、庭をよく散歩するようになった。
お腹がだいぶ目立ってきた。
わたしは彼女と会わないようにしているが、ときどきニアミスしてしまうとお互いに会釈だけはする。
正室の庭を平気で歩き回るだなんて、相当にずうずうしい女だ。
それとも、わたしがたとえ正室であろうと男爵の娘なんて気にも留めていないということだろうか。
まただ。
また厭な女になってしまった。
いまのわたしの顔はたいそう醜かろう。
下からのぞき込んでくるオリバーの表情が複雑に変化していく。
「オリバー……あの……クロエは……?」
「クロエ……? 急にどうした?」
「それは……あの……あれきりだから、どうしたのかと……」
「クロエはあれきり接触してこない。それもそれで不気味だよ」
「そうね……」
ずっと気になっていたクロエについて聞いてみた。
病院の件いらい、彼女とは一切の連絡を絶っている。
たびたび侍女やメイドを介してメッセージを寄こしたり偽名で同情的な手紙を届けたりしてきたが、すべて無視した。
昨日ひさびさにあの王城の侍女がやってきて、クロエが一昨日バーバラ・パーマーの屋敷を辞めさせられたと教えてくれた。
窃盗容疑があったらしい。
バーバラ・パーマーも弱みを握られていたようで公にはできなかったそうだ。
王城の侍女が、クロエにわたしと連絡を取りたいと何度も頼まれたが無視してあげたんだと恩着せがましく言ってきたので、紅茶と高価なハーブティをみやげに渡してから帰した。
どうやらオリバーは、本当にクロエの動向について知らないらしい。
彼女は今頃どこでどうしているのやら。
よからぬことを企んでいなければいいのだけれど。
オリバーに迷惑をかけるのだけはやめてほしい。
悲しげな目で問いかけるオリバーになんのこたえも発せぬまま、わたしは彼の美しいブルーの瞳を見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇
ときだけが虚しく過ぎていく。
ある日、宮殿内を歩いていたわたしは、見知らぬ小部屋のドアを開けてしまった。
「あら?」
そこには子供用の木馬が置いてあった。
来月に迫ったノアの誕生日の贈り物らしい。
見なかったことにしてそっとドアを閉めようしたところで、ドアの陰に赤ちゃん用のゆりかごが置いてあることに気がついた。
「これは……! ゴホンッゴホンッ……!」
ルーシー・ウォルターが産む赤ん坊のための物だろう。
それはノアの木馬よりもずっと豪華で立派な作りだった。
まるで皇太子でも寝せるかのごとく壮麗な金の装飾がなされていた。
くやしい!
瞬間、強い殺意と憎しみを覚えた。
わたしがノアを産むとき、島民がいらなくなった子供用のベッドを持ってきてくれた。
オモチャも残り布の手作りで、木切れで作った積み木などで遊ばせてきた。
ノアには満足にごちそうも食べさせてあげられなかったのに、ルーシー・ウォルターの子供は生まれた瞬間からこんな豪勢なベッドで眠ることができるのだ。
憎しみが火のようにわたしを焼き尽くした。
それ以上ゆりかごを見ていられなくなり、すぐにドアを閉めて寝室にもどり泣き崩れた。
くやしく切ない。
このやりきれない気持ちと、このさきどうやって付き合っていけばよいのだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
気分転換をしようと、ノアと2人で庭へ出た。
今日はルーシー・ウォルターはいないようだ。
彼女が大きなお腹で侍女と庭にいても、オリバーは決して話しかけようとはしない。
わたしにルーシー・ウォルターはケルアイユ公爵夫人の知り合いだと言ってしまった手前、親しくするわけにはいかないからだろう。
頭の良い彼らしい、かしこい選択だ。
贈り物の包みや手紙、バラの花束を抱えて西の棟をこっそり訪ねるオリバーをよく見かける。
明け方や夜中に西の棟から出てくるところを、わたしに見られていることも知らずに。
ケルアイユ公爵夫人はルーシー・ウォルターを完全に無視していた。
わたしの味方だという約束だけは守ってくれているようだ。
久しぶりに馬術場へ行ってみた。
わたしはこのとき完全に油断していた。
常に狙われているという事実を、すっかり忘れていたのだ。
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
――バッ!
「ママー!」
「ノア……!」
とつぜん疾風のように現れた覆面の男がノアをさらっていった!
「ママ、ママ、ママー!」
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
男はあっという間に馬術場の向こうに消えていった!
「そんな……ノア! ノアー! ハアハア……ノアー!」
わたしは力の限りノアと男の消えた方角に向かって叫んだ。
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
「エマ! ノアを返して欲しくば、ついてきなさい!」
「クロエ……! ゴホッ……」
目の前に馬に乗ったクロエがあらわれた!
もう1頭、馬を連れている。
「コホン、コホン……クロエ……ノアをどこへ……おねがいよ……! ノアだけは……ハアハア……」
「一緒にくれば無事に帰してあげるわ。さあ、いくわよ! はあっ!」
――パカッパカッパカッパカッ!
クロエが馬を1頭、残したまま走り去った。
「そんな……ノア……ノア……ハアハア……」
いそいでその馬に飛び乗り、クロエのあとを追った。