第18話
辛い現実に朝から打ちのめされる。
これ以上の仕打ちには耐えられそうにない。
オリバーのおはようのあいさつも聞こえないぐらい動揺していた。
「ママー! パパがおはようだって!」
「あ、ああ……そうね。オリバー……おはようございます」
「どうした、エマ? もしや……具合でも悪いのか?」
「い、いいえ……そんなことは……ゴホッ……」
「やはりそうか! 侍医を呼んでもらおう!」
「だ、だいじょうぶですから……。それでしたら、ハーブティーを……コホン、コホン……」
「君、すまないが妻にハーブティーを! 処方箋はこれだ。ない草があれば買ってきてくれ!」
オリバーはメイドたちにハーブティーの指導をするため部屋を出ていった。
「ママー! 大丈夫?」
ノアが心配そうに顔をのぞき込んでくる。
この子を不安にさせるわけにはいかない。
「ノア……大丈夫。じきによくなるわ。オリバーがハーブティーを持ってきてくれるわ。昔もそれでよくなったのよ……ゴホン、ゴホン……」
「よかったー! パパ、しゅごーい!」
「そうね……オリバーはすごいわ。わたしのぜんそくを治してくれた。教育も与えてくれて……リード家を再興しようとしている。ノアのことも……これ以上を望んではいけないわね。オリバーが今日あるのも、彼女たちのお蔭なのかもしれないし……ハアハア……」
「ママ……?」
「ごめんね、ノア……なんでもないのよ……」
ノアの柔らかな金色の巻毛を撫でてやる。
いまこそ、がんばるときだ。
この子のためなら何もかも我慢できるはずだ。
――コツコツコツコツ、――バンッ!
「エマ! 煎じてもらった! これを早くお飲み!」
「まあ……オリバーったら、おおげさね……」
オリバーからハーブティーを受け取りひとくち飲んだ。
息が落ち着いてきた。
椅子に腰掛け本格的にいただく。
オリバーがいれてくれたかと思うと、それだけで何倍も効くような気がするから不思議だ。
「エマ……くれぐれも無理はしないで。必要ならばメイドの数を増やすよ。それぐらいの余裕はある」
オリバーがひざまづき、わたしの手を握りながらそう聞いた。
わたしは心から感謝しながらそんな必要はないとこたえた。
むしろここへ来てから体を動かさないことがよくなかったのかもしれない。
今度また植物園へ行こうと3人で約束した。
「エマ、すまない。今日もこれから王城に出向かなければいけない。大事な仕事があるんだ」
「そう……行ってらっしゃい。今日は……どちらかに出向かれるの?」
「いや、ずっと王城にいるよ。何かあったら城に伝令をやってくれ」
「わかりました。気をつけて……」
「パパー! いってらったーい!」
「ああ、ノア、いってくるな! エマも……無理はしないで……」
「はい……」
オリバーはわたしとノアの頬にキスをすると名残惜しげに出掛けていった。
昨日の件があるので、さすがに口へのキスは避けたようだ。
わたしも唇へされたらどうすべきかと身構えていたので助かった。
人と人とはこうやって、感情と共に体も心もすれ違っていくものなのだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
ノアと一緒にハーブティーを飲んでいると、いつかのお節介な王城で働く侍女が訪ねてきた。
メイドに部屋へ通してもらうと、思いがけない人物の手紙を携えやってきた。
「クロエからだわ……」
「リードさまの奥方さまにと、バーバラ・パーマーのところの知り合いの侍女を通して頼まれました。渡すだけでよいからと」
「そう……どうもありがとう……。それと、彼女からの手紙や連絡はこれきりにしてちょうだい。もう取り次がなくていいわ」
「そうですか……? では、今後はそのように……」
侍女が伺うような視線を寄こした。
口止め料が必要だろう。
わたしはメイドに頼み、オリバーが持ってきた紅茶と高級な菓子を包んで王城の侍女に渡してもらった。
紅茶がそうとう珍しかったのだろう。
たいそうよろこび何度も礼を言って帰っていった。
帰りぎわ、とっておきの情報があると耳打ちしてきた。
「実は……ケルアイユ公爵夫人のご長男のレノックスさまが、突然リチャード王から認知されたそうなんです。いま王城はその話題で持ちきりですわ」
「でも……ケルアイユ公爵夫人がリチャード王とお会いしている形跡はないわ。あなたもこのまえ、ケルアイユ公爵夫人は国王に今にも捨てられそうだと言っていたじゃないの? 認知を渋っているって……
」
「ですが本当のことでございますよ。さすがの教養あふれるケルアイユ公爵夫人でもご自分の息子となると別のようで、すっかり舞い上がり何も手につかない状態だとか……」
「それは、不思議な話だわ……」
「でしょう? 何かあるのではと皆が興味津々なのです。リード家の奥方さまは、何か心当たりはございませんか?」
「ないわ……どうしてそのことに、皆が興味を示すの?」
「だって……国王はいま議会派に対してとてもお弱いお立場なのです。そんなときに認知だなんて! しかもカトリックの女の子供ですよ? プロテスタントのネル・グウィンの子供を認知するならまだしも……。議会派に対する嫌がらせとしか思えません。だけどこうなったら、あとの2人の女も黙ってはいないでしょうね? 自分たちの子供も認知しろと国王に迫ることでしょう! 面白くなるわ!」
侍女はそれだけ言うと意気揚々と引き揚げていった。
そのうしろ姿が門を出ていくのを確認してから、クロエの手紙を開封した。
『近くの病院でお母さまらしき記憶喪失の患者が見つかったの。一緒に確認にいらしてちょうだい。場所は南の一角ネル・グウィン財団の病院よ。 クロエ・カーライル』
「たいへんだわ! どうしよう……オリバーには言えないし……」
さんざん悩んだ挙句、あんな女でも義理の母親だと思い行くことにした。
ノアは警備兵に託し、知り合いに急用で呼ばれたので会いにいかなかればならないとまた嘘をついた。
「ママ! ご用なの?」
「そうよ、ノア……ごめんなさい」
「ううん。ノア、いい子にしてる! でもママ、ご病気は?」
「だいじょうぶよ。もう、すっかりいいわ。ありがとう……遅くならないうちに帰ってくるわね」
「うん!」
ノアに手を振りながら足早に門の外へ出た。
通りで馬車を拾いネル・グウィン財団の病院へ向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
その病院は王立劇場の裏の貧民窟の真ん中に建てられていた。
チャペルと鐘楼を併設した救済施設だ。
「ミセス、お気をつけて」
「どうもありがとう」
「エマ!」
馬車を降りるとすぐにクロエの巨体が駆け寄ってきた。
今日はわたしと同じような茶色い地味なドレスに身を包んでいる。
キャロルもいた。
ナニーらしき若い女性に抱かれている。
キャロルは今日も不安そうな碧い瞳でこちらを見ていた。
「エマ! 遅かったじゃない! 早く! こっちよ!」
「お義母さまの件は本当なの? お怪我は?」
「いいから、来て!」
クロエがすごい速さで歩いていく。
「ハアハア……クロエ……」
わたしとキャロルを抱えたナニーはクロエに一生懸命ついていった。
いいお天気で、病院の敷地内には施しを受ける人々や見舞い客が大勢ひしめいていた。
クロエは教会の裏へ回り中庭を抜け、奥の建物に近づいていった。
平屋建てのその施設は、大きな窓ガラス越しに中の様子が見てとれた。
たくさんの病人が床のベッドに寝かされていた。
奥の窓際に白髪頭のやつれた老婦人がいて、寝台に座っていた。
見た目はたしかに継母似ているが別人のようだ。
「ハアハア……クロエ……わたしはあの老婦人はちがうと思うわよ」
「そんなの! ちょくせつ話してみないとわからないでしょう? いいから、中に入って話しかけてきてよ! わたしはここから反応を見ているから」
「反応? 実の娘のあなたのほうがいいに決まってるわ。クロエが先に行ってきて……コホン、コホン!」
「エマ! お医者さまがそうしたほうがいいって言ってるのよ! いいから、早くして!」
「……わかったわ」
仕方なく、ナニーとキャロルと一緒にクロエより先にその建物に入ることにした。
手前のドアを開け、老婦人に近づいていく。
彼女はこちらに気がつくとニッコリと笑った。
やはり別人のようだ。
クロエはなんだってこの人が自分の母親だなんて思ったのだろう。
たしかに、継母がすごく痩せればこの老婦人のような様子になるかもしれないが。
「あの……すみません。あなたはミセス・カーライルをご存知ないですか?」
「はっ? ごめんなさい。わたくし耳が遠くて……あなたは王妃さまですか?」
「王妃? いえ……わたくしは元カーライル家の者です。あなたにお聞き……」
「王妃さま! わたくし、観劇に行きたいですわ! 今日もあのネル・グウィンが慰問に参りますのよね? もう、いらしているころですわね?」
「あの……わたくしは王妃では……」
「奥さま、そのご婦人は10年前からそのようなご様子ですよ」
「えっ?」
声のしたほうを振り返ると、看護師が立っていた。
「では……この方は素性がはっきりしているご婦人なのですか?」
「そのご婦人は家族を火事で亡くし、ご自身も後遺症で記憶があいまいなんです。わたしのお隣に住んでいらした方です。心優しいネル・グウィンさまのお情けでこちらに入れていただけたんですよ」
「そうですか……知り合いに似ていたものですから。失礼いたしました」
ナニーと一緒に施設から出た。
キャロルが大人しいと思ったらナニーの腕のなかで寝ていた。
寝顔に涙の筋がある。
かわいそうに。
この子はきっと寂しいのだ。
父親や母親と一緒にいられるノアのほうが何倍も恵まれている。
「あら? クロエは?」
窓から中をのぞいているはずのクロエの姿がどこにも見当たらない。
周りをきょろきょろと見渡してみたが、彼女らしき女の姿はどこにも見えなかった。
ただ、あんなに大勢いた人々の姿が跡形もなく消えていた。
今この病院内の中庭にいるのは、わたしとナニーと彼女の腕の中でスヤスヤと眠っているキャロルだけだ。
「おかしいわね……クロエが言い出したことなのに……」
――ドタドタドタドタッ!
「ネル・グウィン! かくごーっ!」
「きゃーっ! 助けてー!」
「ネル殿、あぶなーい!」
――ダダダダッ!
――カキーイイーンッ!
――ズザザザザザアアーッ!
「たいへんだー!」
「ネル・グウィンが暴漢に襲われたぞー!」
ネル・グウィンですって?
今の声は――もしや?
「エマさま!」
「いってみましょう!」
病院中の人間が左手にあるレンガ造りの建物にむかって走りはじめた。
もしかしたらクロエも巻き込まれたのかもしれない。
ナニーと一緒に皆のあとを追った。
「ハアハア……あら? あれは……」
建物の向こう側には芝生の広場がひろがっていて、野外劇場が設置されていた。
大勢の人間がその周りを取り巻いている。
舞台の真んなかでひとりの大男が剣を片手に倒れていた。
男に剣を突きたてネル・グウィンの前に立ち塞がっている人物こそ――オリバーだった!
「やはり、さっきの声はオリバー! なぜ、ここに?」
咄嗟に建物の陰に隠れた。
大勢の野次馬が固唾を飲んで見守っている。
どうやら観衆の前で演劇中にネル・グウィンに切り掛かってきた大男を、オリバーが剣で叩きのめしたようだ。
さすがイングランド随一の騎士と呼ばれるだけある。
見事な剣さばきだったのだろう。
みながオリバーをほめたたえ見惚れている。
「オリバー……どうもありがとう……あなたは命の……恩人……」
「ネル殿!」
オリバーに近づこうとしたネル・グウィンが、フラフラと酩酊しながら倒れそうになった。
すかさずオリバーが抱きとめる。
2人はまるで恋人同士の抱擁を交わしているかのようだった。
――わあああー……!
――ほおおおー……。
「…………!」
美男美女のラブシーンにたくさんの観衆からため息が漏れる。
いたたまれなくなり、目の前にあるドアを開けて中へ入った。
「ここは……? あら? クロエ! なにしてるの? ゴホン、ゴホン……」
「……エマ? もう! びっくりさせないでよ!」
そこは控え室のような場所だった。
クロエがうしろの窓を開けティーポットのお茶を捨てていた。
近づいていくと、微かにアルコールの匂いがした。
「エマ! こっちにこないで! サッサと出るわよ!」
「クロエ! ここで何をしていたの? まさか……ゴホッ!」
「ここにいたらまずいわ! 出ましょう!」
クロエにせかされ、とりあえず建物の外へ出た。
広場ではまだ、さっきの続きが取り交わされていた。
「どこの手のものだ!」
「…………」
「口を割る気はないようだな……。だったら、早く立ち上がれ! 王城へ連れていく!」
「オリバー……バーバラ・パーマーにちがいないわ……認知の件でわたしに先を越されたくないのよ……ああ……どうしたのかしら……お酒に酔ったときみたい……」
「それはおかしいな。ネル殿は酒を飲めませんよね?」
「そうなのよ……おかしいわ……今日は紅茶しか飲んでいないのに……」
今の話が本当ならば、ネル・グウィンの飲んだ紅茶に酒を入れたのはクロエだろう。
なんと恐ろしいことを!
「クロエ! わたしとキャロルを利用したわね! あなたにそっくりなわたしをあんな目立つ病室に入れておいて、その隙にあなたは……! おお、神よ……! なんと恐ろしいことを……コホン、コホン……」
「帰るわよ! ナニー! キャロルを連れて早くきて!」
「ハアハア……クロエ……待ちなさい……! ゴホッ……ゴホンッゴホンッ……!」
そのときどういうわけか、咳の音を聞きつけたオリバーが突然こちらを振り向いた。
咄嗟に建物の陰に隠れた。
胸がドキドキしてくる。
咳が漏れないように一生懸命、両手で口を押さえた。
「リードさま、どうかされましたか? 男はこのまま王城へ連れていってよろしいのですか?」
駆けつけた衛兵がオリバーに指示を仰いだ。
「あ、ああ……すまない。身内の声がしたような気がして……男は逃げないように紐でしっかり縛っておけ! 看護師どの、ネル殿を早く病室へ。ああ、いい、おれが抱いていく」
――ウワアアー……ッ!
――ヒュー、ヒューッ!
――すてき……!
オリバーがネル・グウィンを抱き上げた。
彼女は酒に酔ったようにぐったりとしている。
大きく開いた襟元からは豊満な胸がはみ出しそうだ。
まるでアポロンに抱かれた女神ヴィーナスのようだ。
1枚の絵画を観るように美しかった。
とてもわたしの出る幕ではない。
大勢のギャラリーからも野次が飛ぶ。
オリバーはネル・グウィンを横抱きにしたまま、衛兵に捕らわれた男と共に広場から去っていった。
――ワアアアアーッ!
――パチパチパチパチーッ!
野次馬たちから拍手と歓声が一斉に湧き起こった。
皆がオリバーを口々にほめたたえている。
夫を誇らしく感じる反面、光の中にいるオリバーとネル・グウィンと自分との差に大きな衝撃を受けていた。
建物の陰に隠れて息を殺している自分がひどく惨めに思える。
もう、足は震えない。
怒りよりも先に自分自身に対する哀れみのほうが強く出てきてしまった。
わたしはもうおしまいだ。
この感情はとてもじゃないが押し戻せない。
オリバーに愛される自信がなくなった。
あんなに魅力的で立派な女たちが相手では、何をしようと勝ち目はないと悟った瞬間だった。
病院内をトボトボと歩き外へ出ると、通りへ戻り馬車を拾った。
ノアの待つ東の離宮への帰途についた。
◇ ◇ ◇ ◇
――ガラガラガラガラッ……。
宮殿が近づくにつれ馬車の中から西の棟が見えてきた。
2階の窓からルーシー・ウォルターがその美しい面をのぞかせている。
見るべきではなかった。
夕陽に栄える彼女の横顔が、母になる喜びに光り輝いている。
自信に満ちた女の表情を目の当たりにして、自分の哀れさがなおも身に沁みてくる。
打ちのめされ苛まれ地面に叩きつけられそれでもなお立ち上がるデイジーの花のように、わたしも生きていかなければならないのか。
いや、ノアのために絶対にそうしなければならない。
あふれる涙の向こうに滲む夕陽に、わたしは固くそう決意した。