第17話
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
東の離宮とは王城を挟んで反対側にある西の離宮。
バーバラ・パーマーはそこに住んでいる。
「ここよ……」
「ハアハア……ここが有名な西の離宮……」
リチャード国王の寵愛を一心に受けていたバーバラ・パーマーは贅沢の極みをこの離宮に集結させた。
見事なつくりの門構えの向こうに王宮にも引けを取らない白亜の御殿が建っていた。
立っているだけで気後れするほどの壮麗さだ。
間違いなくイングランドの代表的な建築物だろう。
「裏にまわりましょう」
「ええ……ゴホッ……」
クロエと宮殿の裏にまわった。
道の向こう側にある森に馬を繋ぐと裏門から広い敷地内へと入っていった。
国王はこの宮殿の主である寵姫のいいなりだと聞く。
望んだことはすべて叶えてやっているそうだ。
その噂どおり、庭のあちこちに高価で珍しい花や植物がたくさん植わっていた。
庭のあちこちに躍る彫刻はまことに見事なものばかりだ。
イタリアあたりから特別に取り寄せたものなのかもしれない。
有名な庭師が入っているのか、庭園のデザインは斬新でとても素晴らしく王宮に匹敵する作品ばかりだった。
「キョロキョロしていないで、こっちよ!」
「ハアハア……ええ……」
クロエに急かされながら狭い裏口を入っていった。
うなぎの寝床のような通路を進んだ先には小さな階段があり、2階に上がれるようになっていた。
「ここから各部屋がのぞけるの。バーバラ・パーマーも趣味が悪いわよね。ここを見つけたのは偶然よ。さあ、お目当てのオリバーさまがいらっしゃるはずよ!」
クロエに言われなくてもわかっていた。
今居る通路の覗き窓から宮殿の北門が目の前に見える。
そこからオリバーが人目を気にしながら入ってくるのが見えたのだ。
しばらくすると侍女がドアを開けた。
すぐうしろから黒髪で黒い目をした三十前後の女が入ってきた。
まるで女王陛下か女優のような豪勢な衣装を身にまとっていた。
あれが有名な悪女バーバラ・パーマーだろう。
面長な顔立ちに高い鼻と妖艶な目つきで、ひどくけだるそうにしていた。
ざんばら髪に真珠の髪留めを飾り、大きく開けた胸元からは陶磁器のように白く豊満な肉体が躍っていた。
手つきや所作のはしばしに奔放さとみだらさが充満していた。
あのトロンとした色気たっぷりの瞳に見つめられたら、メドゥーサに睨まれた神話の人物のごとく、世の男性たちはみな石のように動けなくなってしまうことだろう。
これなら一国の王の寵姫となるのもうなずける。
魔女のように妖しい魅力のある女性だった。
「おまえは外に出ておいで! いいね? 絶対に呼ぶまでもどってくるんじゃないよ!」
「はい」
――カチャッ、パタン。
侍女は出ていった。
しばらくすると誰かやってきた。
――コツコツコツコツ、コンコン、カチャッ。
ドアを開けて入ってきたのはオリバーだった!
朝出かけたときと同じ服装をしている。
王城に行ったのではなかったのか。
「待ち焦がれていたわ! さあ、早くこちらへ!」
「パーマー夫人……」
――コツコツコツコツ……。
オリバーが一礼してバーバラ・パーマーの元へと近づいていく。
待ちかねたように手招きをするバーバラ・パーマー。
フラフラと彼女のほうへ歩きはじめる真剣な表情のオリバー。
それだけで充分だった。
「ちょと! エマってば!」
わたしは耐えかね、振り返ると出口に向かってガタガタと震える足で歩きはじめた。
すぐにクロエが覆いかぶさるように耳打ちしてきた。
「ね? 言ったとおりでしょ?」
「…………」
わたしはショックでよろめきながら、無言で歩きつづけた。
宮殿を出て庭を横切る。
色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園も、素晴らしい彫刻に囲まれた池や緑あふれる生垣も何もかもが光を失い、白と黒だけの色彩に陥っていく。
真っ青な空をさえずりながら飛んでいく小鳥たちさえも、今のわたしにはわずらわしいだけだ。
芝生の草の1本1本まで汚らわしく呪わしい。
この宮殿ぜんぶが消えて無くなればいいのに!
強い恨みがわたしの心を支配していく。
3年前の自分の行動が悔やまれた。
戻れるものならあの頃に戻ってもう1度やりなおしたい。
悪の化身クロエのたくらみに乗せられ踊らされた憐れなあやつり人形、4年前のエマ・カーライル。
彼女に忠告したい。
イングランドの土を決して踏むなと!
馬に乗り帰ろうとするわたしを、クロエが引きとめ南へ誘った。
「エマ! そっちじゃないわ、こっちよ!」
「ハアハア……どうして? 東の離宮はこっちの道よ」
「まだ帰らないでよ! 行くところがあるんだから!」
「行くところ……? ゴホッゴホッ……」
あっちはたしか――劇場がある方角だ。
クロエはバーバラ・パーマーだけではあきたらず、もう1人の愛人ネル・グウィンも紹介するつもりらしい。
◇ ◇ ◇ ◇
怒りで頭がぼうっとして正しい判断がつかない。
胸の傷は大きくひろがり、痛みを通り過ぎ感覚を失くした。
中心からドクドクと血を流し断末魔の悲鳴をあげるのみだ。
もはやわたしに耐えられる現実の範疇を越えていた。
だが、ここまできたらとことん確認してやろうという気持ちもあった。
正室としての地位を日頃から脅かされているわたしは、自虐的な気分に浸っていたのかもしれない。
震える指で手綱をにぎり、クロエに導かれるままについていった。
◇ ◇ ◇ ◇
馬の尻尾をぼんやりと眺めているうちに、いつのまにか大きな王立劇場の前に到着していた。
息も荒く真青な顔で馬から降りたわたしは、震える足でクロエのあとを追った。
着飾った人々がひしめくなかを通り抜け、劇場の裏にある飲食店に入った。
「まだ開演時間に間があるわ。何か食べましょう」
「ハアハア……わたしは……コーヒーだけでいいわ」
「そう? ご自由にどうぞ!」
クロエは相変わらず、ものすごい食欲だった。
ポテトや魚など労働者の食べ物も平気でほおばっていく。
いったい今までどういう生活を送ってきたのだろう。
息が整うにつれ、さきほどのオリバーとバーバラ・パーマーのショックが甦ってきた。
水も喉を通らないほど、嫌な気分で胸がいっぱいになる。
心の痛みは尋常ではない。
いますぐノアを連れて島へ逃げ帰りたい心境だ。
だが、それでは3年前と同じ状況に陥ってしまう。
この状態を打破するためには、いったいどうしたらいいのだろうか。
ケルアイユ公爵夫人のように大人の女性として割り切るべきなのか。
この荒波を無事に乗り越えられれば、夫人がいうように平穏な波がわたしとノアを待っているのだろうか。
「そういえば……クロエ、お義母さまはどうされているの?」
「報告してなかった? お義母さまはイングランドにもどる途中で船が難破してそれ以来行方不明よ。もう半年になるわ」
「なんですって! そんな……! 行方はまったくわからないの?」
「さんざん捜したけど見つからなかったわ。どこかで生きていてくれるといいんだけど……。仕方がないわよ。それよりも、その後わたしがどんな思いでここまで生きてきたかわかってるの? たいへんだったのよ!」
「クロエ、ダニエルさまとはどこで別れたの?」
「ダニエル? ダニエルの話なんかしてないわよ? ほら、開演するわ! 行くわよ!」
「あっ! クロエ! そっちは……」
「いいから、ついてらっしゃい!」
クロエは勝手に劇場の裏口から中へ入ると、狭い通路を進んでいった。
わたしはついていくのに精一杯だった。
クロエはなんだっていつもこんな裏道ばかり知っているのだろう。
突き当たりに薄暗い小部屋があり、机や椅子が乱雑に積み重ねてあった。
クロエは勝手にそこに入り、奥にある木で出来た小さな小窓を開けた。
椅子を2つ持ってきて小窓の前に置いた。
「さあ! こっちも開演よ! ここから楽屋の入り口がよく見えるの。その椅子に座るといいわ」
「ハアハア……クロエ、ここは……?」
「4年前にダニエルに教えてもらったの。よくここから劇場に出入りしてたのよ。ダニエルはとにかくモテたから、多くの女優たちとも付き合っていたわ」
「コホンッ……ここで……何をするの?」
「いいからちょっと待ってなさいよ。1幕目が終わるのはすぐだから!」
「…………」
クロエと一緒に小窓から楽屋口を眺めた。
薄いベールや派手な衣装を身につけた華やかな俳優たちが前を通り過ぎていく。
この窓は死角になっているようで、通路を歩く人々はこちらにまったく気がつかない。
――ドッ! ワハハハッハハーッ!
――パチパチパチパチーッ!
――ワアアーッ!
盛大な笑い声と割れんばかりの拍手や歓声が聞こえてくる。
大盛況のうちに1幕目が終わったようだ。
主演級の俳優たちが次々と楽屋へもどってくる。
そのなかに、あの舞踏会の夜に喜劇を演じていたネル・グウィンの姿があった。
愛嬌のある大きな茶色い瞳とぽってりとした赤い唇は人目をひくものがあった。
よく見ると茶色い巻毛に隠されたその瞳の奥には、悲しみと慈しみの表情が隠されていた。
極貧の中から這い上がってきた彼女にとって、この世の中は辛いことばかりなのかもしれない。
大勢の人々の前で連日はなやかな舞台に立っていても、その孤独の影を癒すことは誰にもできないのであろう。
だから田舎暮らしを好んでいるのかもしれない。
そんなネル・グウィンは、その大胆でみだらな衣装とは裏腹にとても慎み深く一途な印象を受けた。
彼女はわたしたちの前を通り過ぎると、いちばん大きな楽屋へ1人で入っていった。
「…………!」
この香りは――いつかオリバーのカラダから漂ってきたものだ。
ネル・グウィンからの移り香だったのか!
椅子の下で膝がガクガクと震えはじめた。
しばらくすると辺りはシーンと静まりかえり、通路を歩く人間はひとっこひとりいなくなった。
――コツコツコツコツ……。
どこからか靴音がしてくる。
長い影が伸びる。
背の高い巻毛の男がやってきた――オリバーだ!
難しい顔つきで足早に歩いてくる。
オリバーだとわかった瞬間、足が震え呼吸が苦しくなった。
心臓の鼓動がドクドクと耳元で脈打つ。
すべての刻が止まりすべての音が消えた。
――コン、コンッ。
オリバーがネル・グウィンの楽屋のドアをノックした。
――キイッ。
「オリバー! 待っていたわ!」
「ネル殿、ご機嫌いかがですか?」
ネル・グウィンが楽屋から顔を出し、心底うれしそうにオリバーに笑いかけた。
周りに気づかう様子もないところを見ると、2人の交際はどうやら噂どおり皆に公にしているようだ。
オリバーは一礼して楽屋に入っていった。
――パタンッ……。
楽屋のドアが静かに閉められた。
わたしはクロエに涙を悟られないよう暗闇のなか下を向いていた。
「これで少しは、わたしがいままであんたに感じてきたくやしい想いを少しはわかってもらえたかしら? わたしとお母様が受けた屈辱はこんなものではなくってよ! だいたい、あんたたち母娘ときたら……ちょっと! エマ! 待ちなさいよ!」
――コツコツコツコツ……。
クロエを無視してもと来た道を戻りはじめる。
両の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちていく。
今回も足が震えて仕方がなかった。
だがこれは悲しみや動揺からの震えではない。
これは怒りだ!
それも、カラダの中から怒涛のごとく湧き上がる憤怒の叫びだ。
できれば、生きているうちにこのような感情をおぼえたくはなかった。
一生をノアに捧げ、ただの労働者として島で生活していればよかった。
いまからでも遅くはない。
逃げ帰ろうか。
この恐ろしい伏魔殿のイングランドから。
あふれる涙をぬぐいもせずに、劇場からいきなり明るい通りへと飛び出した。
強い太陽の光をまともに受け、目の前がクラクラして足がよろめいた。
――ドンッ!
「きゃっ!」
「気をつけなーっ!」
「す、すみません……ゴホン、ゴホンッ……」
うす汚れた服を着た赤毛の娼婦にぶつかってしまった。
女は悪態をつきながら裏通りへと入っていった。
うらぶれたゴミだらけの小道の先には貧民窟がひろがっている。
とても貧しい界隈だ。
ネル・グウィンはこういう場所からカラダを張ってここまで上りつめたのだろう。
少し落ち着いてきたのでハンカチで涙を拭き馬に跨った。
クロエを待たずに先に帰った。
馬は馬術場に返し宮殿に戻った。
「ママー! おかえりなさいー!」
「ハアハア……ノア……」
ノアが寂しがって飛んできた。
ギュッと抱きしめひと安心した。
ノアに食事をさせ寝かしつけても、オリバーは帰ってこなかった。
見たことすべてが衝撃的すぎて信じられない想いのほうが強かった。
ショックで身体中が麻痺している。
ひとりで満月を眺めながら不可思議な気分にとらわれていた。
これは本当に現実の世界の出来事なのだろうか。
まだ夢の中にいるんじゃないのかしら。
月が仕掛けた不思議なマジックドリーム。
明日の朝めざめたらすべてが幻となって消えているかもしれない――だが、悪夢は1日で消え去りはしなかった。
次の日の早朝、オリバーが西の棟からやってくるのが見えた。