第16話
「ノア、そんなに走ったら危ないわ……コホン、コホン……」
「ママー! お風邪ー?」
「ハアハア……いいえ。大丈夫よ……」
庭を散策していると急に苦しくなった。
胸を押さえながら木陰に座り込み少し休んだ。
宮殿の庭は緑がいっぱいで市街地と比べてこんなに空気が澄んでいるのに、最近ぜんそくがぶりかえしている。
島ではあんなに過酷な労働をしても平気だったのに。
「ママ! なんか運んでるよ!」
「えっ?」
ノアの指差す方向を振り返ってみると、西の建物に女性物の家具や調度品を運び込んでいるところだった。
胸が痛んだ。
咳によるものではない。
あの古傷から滲み出てくるものだ。
絶対に人に悟られてはいけない痛みだ。
――キイーッ!
「オリバーの奥さま! ちょっといらして」
「ケルアイユ公爵夫人……」
バルコニーからケルアイユ公爵夫人に呼ばれた。
ノアを連れて彼女の部屋へむかった。
――コンコンッ、カチャッ。
侍女がドアを開けてくれた。
「どうぞ! ノアも一緒ね? 隣りの部屋でレノックスと遊んでらっしゃいな」
「はーい!」
ノアは隣りの子供部屋へ行ってしまった。
きゃっきゃと子供たちの楽しげな声が聞こえてくる。
「奥さまはどうぞ、こちらへ……」
「はい……」
ケルアイユ公爵夫人に窓の近くの席をすすめられた。
椅子に座るとすぐにお茶が運ばれてきた。
「どうぞ」
「いただきます」
しばらく2人でお茶を飲んでいるとおもむろにケルアイユ公爵夫人が口を開いてきた。
「実は……オリバーには黙っておいてくれと言われていたのだけれど……。西の棟に明日の夜、若い女性がやってくるそうよ」
「ケルアイユ公爵夫人……」
やはりそうだったか。
オリバーの女がやってくる。
覚悟はできていた。
バーバラ・パーマーだろうか。
それともネル・グウィン?
いずれにしても、わたしの肩身は相当せまくなるだろう。
ノアと自由に庭の散歩も出来なくなるかもしれない。
辛い日々がはじまるのだ。
「オリバーの……幼馴染らしいわね」
「おさな……なじみですか……」
「ショックよね……。わたくしもオリバーに、なにもここに連れてこなくてもと説得したのだけれど……。妊娠4ヶ月で実家にいられなくなったらしいわ」
「に、にんしん……そんな……」
「わたくしもこんな衝撃的なことをあなたの耳に入れたくはなかったのだけれど……。明日、彼女の姿を目の当たりにする前に、心の準備をしておいたほうがいいと思って……。わたくしも同じ想いをしてきたから、あなたの気持ちがほんとうによくわかるわ。だけど男とはそういうものなのよ。心のなかで割り切るしかないの。それが大人の関係というものよ。乗り越えてしまえばなんてことないわ。わたしはね、エマ、いつまでもあなたの味方よ。あなたは何も悪くない。堂々としていなさい。そうすれば、むこうは大人しく黙っているでしょうから。なんといっても、あなたにはノアというリード家の立派な跡取り息子がいるんですからね!」
ケルアイユ公爵夫人はわたしの両手を握りしめ、心配そうに顔をのぞき込んできた。
わたしはそのときどういう表情をしていたのだろう。
まったく憶えていない。
◇ ◇ ◇ ◇
気がつくとノアと一緒に長椅子に編み棒を動かしていた。
手が無意識にレースを編んでいく。
頭の中は霞がかかったようにボウッとしたままだ。
なにかを察したのか、ノアはさっきから黙りこくったまま絵本を読み続けている。
◇ ◇ ◇ ◇
しばらく経つとノアは警備兵と乗馬の訓練に出掛け、ポニーに乗ったまま窓の下から小さな手を振ってきた。
「ママー!」
「…………」
窓辺に立ちあがり、ポニーに乗るノアに無言で手を振りかえした。
なにもかもが絵のようにとまって見えた。
音も消え風も止む。
「…………!」
突然、涙があふれる!
足下の絨毯にポツポツとシミができはじめる。
そのシミが大きく広がるころ、わたしはぜんそくの発作に見舞われていた。
「コホッコホッ……ゴホッ……ハアハア……」
4年前のことを思い出していた。
見知らぬ宿屋の2階でボバリー夫人に背中を蹴られ床に倒れた。
そのときの光景が、背中の痛みと共に目の前に鮮やかに甦ってきた。
これは何かの啓示だろうか。
あれがすべての不幸の源だった。
痛む胸を押さえながらソファに横になった。
もはや痛みの出所が特定できないほど傷口は広がってしまった。
あとはそこから全身がグチグチと腐っていくさまを傍観するより他に手立てはないのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
午後になり、オリバーがどこからともなく帰ってきた。
わたしとノアにお茶をふるまってくれた。
「わあーっ! 茶色だー! おいちいー!」
「そうだぞ、ノア。これが本物の紅茶だ。これからインドのプランテーションで栽培がはじまる。庶民の口に上るのはまだ先だが、貴族たちはもう飲みはじめている。エマ? 苦しそうだがどうした? ケルアイユ公爵夫人の侍医を呼んでもらおうか?」
「コホン、コホン……オリバー……それには及ばないわ。午前中、少し無理をしたから……それで……」
「エマ……」
オリバーがわたしの座る長椅子まで歩いてきてひざまずいた。
わたしの両手を握り目の高さを合わせてくる。
「エマ、どうしたんだい……? 悲しそうな瞳をしている。約束していた紅茶をふるまうのが一ヶ月以上も遅れてしまったせいかい? 許してくれ。嵐で荷の到着が遅れてしまったんだ」
「オリバー……そんなことは気にしていないわ……。ただ、ちょっと……疲れただけで……ゴホッ……」
「エマ……」
オリバーがやさしくわたしを抱きしめる。
わたしはオリバーの胸の中で彼の鼓動を聞いていた。
それはノアのようにとても規則正しいリズムを刻んでいた。
彼の心臓を取り出してわたしだけのモノにしてしまいたい!
そんな恐ろしい欲望がふいに湧きあがり、自分のなかにあるはげしい衝動に心底ふるえあがった。
本当に鳥肌が立ちはじめ、恐くなってオリバーから離れた。
そんな様子をノアがキョトンとした様子で見つめていた。
こんなあからさまな夫婦の行動をしたのは、ノアの前では初めてかもしれない。
「ノア……びっくりしたかい? おれとママは、実は結婚してるんだ! 夫婦なんだよ」
「けっこん……ふうふ……?」
「ああ、おれはノアの本当の父親だ。ダディ、パパだよ!」
「ダディ? パパ! ノアのパパー!」
「ああ、そうだ!」
ノアがパパ、パパと叫びながらオリバーに抱きついていった!
うれしそうにノアを抱き上げ、頬ずりをするオリバー。
待ちに待った親子の対面が目の前でくりひろげられているのに、わたしの胸を猜疑心が横切る。
どうしていまさら、親子の名乗りなど?
オリバーの子を身籠った女がやってこようという今になって、どうしてなの!
答えは明白だ。
わたしへの配慮だろう。
たとえこの子がダニエルの子であっても、ノアは長男で跡取りだ。
書類上の認知はこのまえ済ませた。
それは未来永劫、変わらない。
だが、次に幼馴染との間に生まれてくる子供は正真正銘オリバーの子だ。
父親だと呼ばせるつもりだろう。
その前にノアにも父親を与えてやったのだ。
生まれてくる子供のために。
猛烈に惨めだった。
クロエ母娘がわたしとお母さまをうらやんでよく嫌がらせをしてきたが、彼女たちの気持ちが初めてわかったような気がする。
2番手になるとはこういうことなのだ。
正妻のわたしが、なぜこんな想いをしなくてはならないのだろう。
オリバーに対する不満が、初めて自分の中にフツフツと芽生えはじめた瞬間だった。
◇ ◇ ◇ ◇
はしゃぎ過ぎたノアはいつの間にかオリバーの腕のなかでスヤスヤと眠ってしまった。
「おやおや……こいつはまったく! ノアを見ていると嫌なことが全部吹っ飛ぶな! 3歳の誕生会は盛大に祝おう! たしか、まだ先だよな。夏の終わりだっけ?」
「いえ……真夏よ。再来月にあたるわ……ゴホッ」
「そうだったか? エマ……顔色が悪いぞ、本当に大丈夫なのか? 息も苦しそうだし」
「本当に大丈夫よ……お医者様なんて大袈裟なことは言わないで、ね?」
「エマ……愛してるよ。一緒にノアを大切に育てていこうな……」
「オリバー……」
オリバーからのキスを受けながら、冷めた視線で彼の瞳の奥を見つめていた。
よその女と浮名を流しましてや妊娠までさせておきながら、彼のブルーの瞳はなぜにいつもこんなにも澄んで美しいのか。
いつかオリバーが作りかけてやめた花冠のデイジーのように、そのことがいつまでも心の奥に引っ掛かって取れなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日の夜、ケルアイユ公爵夫人の言葉どおり若い女が西の棟にやってきた。
回廊を歩く様子を見掛けて衝撃を受けた。
どうして気づかなかったのだろう。
その女性はオリバーの幼馴染ルーシー・ウォルターだった!
このまえ見た頃よりも多少ふっくらしていた。
本当に微妙な差だがわたしにはわかった。
彼女は妊娠している!
おなかを庇うような歩き方とゆったりとして服装でそれを確信できた。
誰かが庭を横切り彼女のもとに駆け寄った。
オリバーだ!
2人は親しげに会話をしながら建物の中へと消えていった。
それらを寝室の窓から見送ったままわたしは涙を流していた。
くやしい!
島で大きなおなかを抱え労働していたわたしの隣りにオリバーの姿はなかった。
自分が撒いた種とはいえ、ルーシーと自分とのあまりのギャップに深い苦しみを覚えた。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、いつものように母屋からオリバーが出てきた。
「パパー!」
ノアがオリバーに向かって窓から手を振っている。
こどもの順応力はすごい。
あっという間にオリバーを父親と認定してしまった。
血のなせる技なのだろうか。
「ノア! いまいく!」
堂々と朝帰りしたオリバーはわたしたちの部屋にも悠然と入ってきた。
「おはよう、奥さん。ぜんそくはどう?」
キスをしようとしたオリバーを無意識に避けてしまった。
オリバーは怪訝な顔をして席についた。
「おはよう、オリバー……。ぜんそくは大丈夫よ。あの……西の棟にどなたか見えたのかしら?」
「なぜ、それを……?」
「昨日……ノアと家具を運び込んでいるのを見て……それで……」
しどろもどろになりながらも聞いてみた。
「……ケルアイユ公爵夫人の知り合いがしばらく滞在するそうだ」
「そうなの……」
それきりオリバーは黙りこんでしまった。
しばらくカチャカチャと食事をする音だけが響いていた。
今日はノアも静かに食べている。
いつもとちがう両親の雰囲気を察したのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
オリバーは朝食後、王城に用事があるからとすぐに出掛けていった。
西の棟はまだカーテンが引かれたままだ。
ルーシー・ウォルターに会いたくないので、オリバーをポニーに乗せ東にある馬術場へ向かった。
――パカッパカッパカッパカッ!
2人で馬場を眺めていると、遠くからから馬に乗ったクロエがやってきた。
「クロエ……」
「おはよう、おねえさま! 良い知らせがあるわよ!」
「あなたから良い知らせなんて受けたタメシがないわ」
「言うようになったわね? 都会に出てきて鍛えられた? オリバーさまの愛人たちに!」
「ノア、警備の方と庭にもどってらっしゃい」
「うん」
ノアは大人しく警備兵と宮殿の敷地内にもどっていった。
「オリバーさまによく似ているわ。わたしの義理の甥っ子よね……かわいいわ。オリバーさまは?」
「あなたに関係ないわ」
「じゃあ、これは? ルーシー・ウォルターが東の離宮に来たでしょう?」
「…………!」
「図星みたいね? なんで知ってるかって? わたしはバーバラ・パーマーの侍女なのよ」
「クロエ……どうやってバーバラ・パーマーとお近づきになれたの?」
「わたしじゃないわよ! ダニエルよ! ダニエルがむかし付き合っていた人なの、バーバラ・パーマーって女は。わたしはそのツテで彼女の侍女になったのよ」
「ダニエルがバーバラ・パーマーと接触するのを待っているの? あなたはそんなにダニエルのことを……騙されてお金を取られたのでしょう?」
「そんなのどうだっていいでしょ! それよりも……ルーシー・ウォルターはなんのために離宮に住み着いたの?」
「……知らないわ。それにクロエ、あなたに関係ないことでしょう?」
「エマ! わたしにそんな口はきかないことね! 知ってる? オリバーさまはこれからバーバラ・パーマーと密会されるわ。わたしはそれを、あんたに知らせにきてあげたのよ?」
「そんなの、嘘よ! そんなわけないわ……ゴホッゴホッ!」
「嘘なんかつくわけないでしょう? 嘘だと思うなら一緒にいらっしゃいよ? 馬術場の向こうに馬車が用意してあるから」
「ハアハア……あなたと同じ馬車になど……2度と乗らない!」
「そう……だったら、馬で行きましょう! もう1頭、借りてくるわ!」
「あっ! クロエ……コホン、ケホッ……」
――パカッパカッパカッパカッ!
クロエは行ってしまった。
わたしはすぐに宮殿へもどり、ノアや侍女たちに馬でむかしの知り合いのところへ行くと嘘をつき、再び馬術場へ向かった。
クロエがもう1頭の馬を従え待っていた。
すぐにそれに飛び乗り、クロエのあとを追った。
◇ ◇ ◇ ◇
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
あんなにオリバーにクロエの話に耳を傾けるなと言われていたのに。
だが、部屋でじっとなんてしていられない。
オリバーとルーシー・ウォルターのことを考えると気が狂いそうになってしまうのだ。
そのうえバーバラ・パーマーとも関係があるとわかったら、わたしは――それでも、この目で確かめずにはいられなかった。
精神状態が少しおかしくなっていたのだろう。
島の生活しか知らないわたしにとって都会は孤独すぎる。
わたしを破滅に追い込もうとしているこの半分血の繋がった妹に頼りたくなってしまうほど、身も心も疲弊しきっていたのかもしれない。