第15話
翌日ノアと朝食を食べていると母屋からオリバーが出てくるのが窓から見えた。
ゆうべはケルアイユ公爵夫人のところに泊まったのだろうか。
オリバーが商売のために女たちと。
クロエの言葉が甦ってくる。
彼がそんな人間だとは考えたくもないことだ。
「ママー! オリバー! お外にいる!」
「そうね……」
オリバーはしばらくするとわたしたちの部屋までやってきた。
「エマ、もう起きていたのか? ゆうべはすまなかった……疲れたろう? よく眠れたかい?」
オリバーの片手にはデイジーの花冠があった。
それをわたしの頭に載せながら気づかいをしめしてくれた。
「オリバー、どうもありがとう。ゆうべは踊り疲れてぐっすりと眠ることができたわ。ケルアイユ公爵夫人の侍女が夜のうちにドレスを取りに見えたわよ。よっぽど大事なものなのね」
「あのあと、あらためて王からドレスの礼を言われたよ。間接的にでもケルアイユ公爵夫人に会えてうれしかったそうだ」
「そう……」
なんだか国王とケルアイユ公爵夫人、そしてオリバーに利用されたようで面白くなかった。
わたしはあなたたちの都合のいい操り人形じゃないわ。
なんだか無性に島に帰りたくなった。
羊の世話でもしていたほうがましな気分だ。
「ママ! 卵! おさとう!」
「ノア……なんでもおさとうはダメよ」
「でも、ママー!」
「ノア! 物には食べ方ってものがあるんだぞ。マナーは大事だ。特に食事はな! どれ、おれが食べさせてやろう」
そういうとオリバーはノアを膝に乗せ、ゆで卵を起用にスプーンですくって食べさせはじめた。
「おいちい! おいちいね!」
「ノア、おいしいだろ? みんなで食べるとおいしいな……。おれもゆうべから何も食べてないんだ。すまないが、おれの分もたのむ」
「はい、かしこまりました」
「オリバー……?」
オリバーはしばらくの間ノアを強く抱きしめ、のぞきこむようにしていつまでもわが子の顔を見続けていた。
自分とそっくりのノアを息子として認め、愛おしく感じてくれているのだろうか。
それとも、他になにか思うところでもあるのだろうか。
そのあと、向かいに座るわたしを複雑な表情でしばらく見ていた。
あきらかにオリバーは何かを悩んでいた。
わたしに対してすまなそうなバツの悪そうな。
それでいて瞳は妙に澄んで使命感に燃えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
わたしたちと食事をすませたオリバーは、しばらく仕事が忙しくなると言い残し去っていった。
そのまま西側に建つ別棟に行き、従業員たちとなかを見てまわっていた。
誰かお客さまでもいらっしゃるのだろうか。
それからの日々は、ノアと庭を散歩したり本を読んだりレースを編んだりして過ごした。
ときどきケルアイユ公爵夫人がノアと一緒にお茶会に招いてくれた。
彼女の息子のレノックスは今年4歳のやんちゃ盛りの男の子だ。
行くたびに、ノアと一緒に飛びまわって遊んでいた。
ケルアイユ公爵夫人は評判以上に博学で頭の良い女性だった。
ヨーロッパの文学や芸術、政治や哲学、おしゃれについてまでいろいろと教えてくれた。
フランス語も習い、ノアとあいさつ程度までは出来るようにしてくれた。
イングランドに来てからあっという間に1ヶ月が過ぎた。
オリバーはまいにち帰ってくるがいつも深夜か朝方で、昼間は眠っていることが多かった。
だが、必ず1日1度はわたしたちと食事を共にした。
ときどき西側の棟へ行って何かしていた。
やはり誰か住むのかもしれない。
「エマ! ノア!」
「わああー!」
「オリバー……まあ!」
オリバーがノアの乗れそうな小さな小さなポニーを連れてきた。
「ノアに馬はまだ無理だから、となりの馬術場から借りてきたんだ! ノア、これに乗って練習しよう!」
「うん! わーい!」
ノアはたちまちポニーに夢中になった。
オリバーはクロエを警戒して常に警備隊員を1名つけてくれるようになった。
どうやら王城の衛兵らしい。
改めてオリバーの立場の重要性を思い知らされた。
オリバーはいったい、国王にとってどういう立場の人間なのだろう。
議会派なので、表面上は王家の人々とは親しくしていない。
だが、陰で王党派と繋がっているような気がする。
それも女たちを通じて。
噂は本当なのかもしれない。
ふと気がつくと、オリバーがまた複雑な表情でわたしたち親子を見つめていた。
気がかりなことでも出来たのだろうか。
ひどく難しい顔をしている。
彼がこんなにすまなそうな目つきをするなんて。
困ったことがあるならなんでも相談して欲しかった。
だけどそれを、口に出しては言えなかった。
事実を聞く勇気が持てなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日ケルアイユ公爵夫人のお茶会に王城に勤める侍女がやってきた。
とてもおしゃべりな女で、イングランド中のうわさ話をはじめた。
クロエの口端にあがっていたバーバラ・パーマーとネル・グウィンいう2人の女性の名が出てきた。
ケルアイユ公爵夫人はどういうわけか、その2人について詳しく近況を聞きたがった。
バーバラ・パーマーは27歳。
子爵の娘で下級外交官と結婚している。
とても色っぽく淫らで節操がなさすぎることで有名らしい。
王の子かどうかわからない7歳のアンという女の子と6歳のヘンリーという男の子がいるそうだ。
話を聞いているうちに思い出した。
バーバラ・パーマーはリチャード王にもっとも愛されている寵姫で、非常にわがままで嫉妬深く傲慢、異常な欲張りとして有名で市民からひどく嫌われている女性の名だ!
容貌はたいへん美しいそうだが、派手な服装と大胆な行動をする女性で年齢や関係性を問わずあちこちの男と浮名を流していると評判だった。
クロエはそんな女の侍女になったのか。
オリバーではないが、本当にどうやって取り入ったのだろう。
もう1人も有名人だった。
ネル・グウィンという喜劇女優で、異常な貧しさの中から努力して這い上がった苦労人だ。
巧みな話術とユーモアのセンスでリチャード王に気に入られていた。
王との間にジェームズという5歳の息子をもうけているらしい。
田舎好きで庶民的な人気者だ。
欲がなく病院をつくり貧しい人々に施しをしている。
オリバーと出席した王城の舞踏会で、喜劇を演じて皆をたのしませていた女優こそネル・グウィンその人だった。
あのときクロエは、オリバーがネル・グウィンという喜劇女優を見送りに行ったと言っていた。
オリバーは前に、劇場の話を始めようとして急に口ごもったことがある。
ネル・グウィンの話題が出そうになったからだ。
クロエはオリバーが劇場に足繁く通っているとも言っていた。
以前は観劇など興味のない人だったのに。
そういえばクロエとの言い合いのなかで、オリバーはやけにネル・グウィンを庇っていた。
だとしたら――考えるのもおぞましいが、オリバーはネル・グウィン絡みでわたしに後ろめたいことがあるのだ。
胸の奥が小さく痛んだ。
そこはこの前、オリバーの手のぬくもりが修復してくれた箇所だ。
その古傷がまた痛みはじめた。
傷がこれ以上大きくなる前に手を打たなければ、たいへんなことになる。
そのことは考えないようにしよう。
もしくはここから逃げ出すか。
失礼を承知で、ノアを口実にケルアイユ公爵夫人のお茶会を早めに辞した。
廊下をノアと歩いていると、さきほどの侍女がうしろから追いかけてきた。
お茶会の間中、ケルアイユ公爵夫人に気づかれないようにちらちらとこちらを見ていたから、何か言いたいことがあるのだろう。
ノアを庭に追いやってから、廊下の隅で話を聞いた。
「リードさまの奥方さまに、ぜひ耳に入れておきたいことがありまして」
「……なにかしら?」
「申し上げにくいのですが……でも、奥方さまはいままでイングランドを離れていらしたと聞き、ご不憫で……」
侍女は眉間にシワを寄せながら上目遣いをして、いかにも気の毒だという表情を装っていた。
不憫だなどとはこれっぽっちも思っていないくせに。
次の噂話の種を探したくて、ウズウズしているだけだ。
オリバーに噂話はウソだから聞くな言われていたが、本音を言えば、たとえウソでもすべて知っておきたい。
偶然わたしの耳まで届いてしまう前に、自分自身の中で消化しておきたいという気持ちのほうが強かった。
「……どのようなことかしら」
「まずはケルアイユ公爵夫人のことです。王から捨てられそうなんです。その前にご長男のレノックスさまの認知を強くご希望でして……。リチャード王はなかなか首を縦におふりになりませんの。ケルアイユ公爵夫人はとにかく肩書きが欲しいお方でございますからね。オリバー・リードさまはこの3年こちらにお住まいのようですが、殿方が王の愛妾の家に居るなんて聞いたことがございません。3年前から社交界の噂になってることをご存知ですか? 特にこの半年は、お2人は連れ立ってよく舞踏会にいらっしゃってましたよ」
「だけど……レオ・ウィンター公爵もこちらにお住まいだったとお聞きしたけど……」
「ウィンター公爵はずっと外国をまわっていらっしゃるので、こちらにはほとんど帰ってこられません。リードさまは十代のころから女性たちの憧れの存在で、結婚していらっしゃるご夫人方でも狙っている方が大勢お有りでした。いくらリード家が貞節で有名でも、あの美しいケルアイユ公爵夫人と2人だけで宮殿にお住まいなんて……噂にならないほうがおかしいですわ」
「……そう」
「それとバーバラ・パーマーです!」
「彼女がなにか? 有名な王の寵姫でしょう?」
「彼女ほどの節操なしはこの世にいません! 歴史に残る悪女です!」
「そのようなことを……子爵のご令嬢だったお方でしょう?」
「娼婦よりひどい男性関係をお持ちなんですよ! 自身の愛人の甥やその息子まで! 目につく男は全員、彼女のとりこです!」
「それだけ魅力的なんでしょう……」
「彼女もまた、度重なる金品の要求と年齢による容貌の衰えでリチャード王から捨てられそうな1人です」
「そう……」
「そこでまた、リードさまの登場です!」
「オリバーが……? 彼女となんの関係があるの?」
「表向きは関係ありません。舞踏会や催しモノのパートナーになられたことは1度もございません」
「そうなの……では……」
「バーバラ・パーマーのところの侍女が、リードさまが何度かお忍びで西の宮殿にいらしたことがあると、あちこちで触れ回っているんです!」
「オリバーが? 王の寵姫のもとに?」
「はい。必ず人払いをして裏から通すらしいのですが、やってくる男は絶対にオリバー・リードさまだと言うんです。リードさまほどかっこいい殿方はいらっしゃらないので、見間ちがうはずがないって」
「そう……なにか事情があるのかしら」
「奥方さま……バーバラ・パーマーはたしかに国王の寵姫で取り入れば特なこともございましょうが、そのウワサが出た頃はすでにリードさまは上級貴族になられていました。バーバラ・パーマーと親しくする理由がございません」
「……ケルアイユ公爵夫人と同様、商売に有利なのでは?」
「バーバラ・パーマーに関しては貿易とはまったく関係がございません。彼女に聞ける事といえば、散財のやり方と性の手ほどきぐらいです」
「性の……」
「はい。それはそれは、有名な方ですから!」
「…………」
「最後に、これがいちばんやっかいです。女優のネル・グウィン!」
「やっかい……というと?」
「この半年、あからさまにリードさまと付き合っております。あちらこちらの公の場所に正式なパートナーとして2人で参加しております。ネル・グウィンは面白い女性ではありますが、品や美しさでは他の愛妾たちに劣ります。年を取ったことで、だんだんと王にあきられはじめています。その王ですが、半年ほど前から新しく若い女が出来たともっぱらの噂です。つまりこれらの事実がガッチリと附合して、大きな噂が出来上がっているのです」
「附合? 大きな噂?」
「そうです。オリバー・リードさまはその容姿と人気を王室から見込まれ、国王の女を身請けして面倒をみることを条件に上級貴族に出世した! そのような噂がまことしやかに流れているのです」
「でも! オリバーはいま議会派よ! 王家と親しくするはずがないわ!」
「ですが奥方さま……王家から獲得した貿易商としてのルートで儲けた金を、オリバー・リードさまは多額の寄付という形で議会派に流しております。いまやリード家は議会派の資金源のトップに躍り出ているのでございますよ」
「…………」
侍女の得意げな顔と衝撃的な話の内容に言葉を失った。
信じたくはないが、そのようなことがないとは言えない。
リード家の財産はいま、すべて差し押さえられている。
一文無しのオリバーは、ウィンター公爵に国王との架け橋になってもらったのだろう。
貿易商の道を敷いてもらい商売をはじめた。
オリバーは若く美しい騎士であると同時に物腰の柔らかな紳士だ。
半年前に古い愛妾たちを捨て新しい若い恋人を持ちたくなった国王に、上級貴族と引き替えに過去の愛人たちの面倒を頼まれたのだろう。
恩もあり断れなかったにちがいない。
わたしという正室は島へ帰り別居状態だった。
オリバーも男だ。
それも、若くて美しい貴族の男。
仕方のないことだ。
だから、オリバーはバツの悪そうなすまなそうな複雑な表情で何度もわたしを見たのだ。
わかってみると納得できることばかりだった。
侍女とはそこで別れた。
ノアを警備兵に任せるとフラフラと部屋に戻り、昼間から寝台に横になった。
辛くてあとからあとから涙が出てくる。
ノアのてまえ泣きやまなくてはとか、オリバーが帰ってくる前に目の腫れをどうにかしなくちゃとか、いろいろ考えているうちに寝てしまった。
涙の筋を顔に残したまま目覚めると、あたりはすっかり真夜中だった。
誰かに手を握られている。
だんだんと暗闇に目が慣れてくる。
腰のあたりにフサフサとした金色の髪がある。
オリバーだ!
椅子に座り寝台に突っ伏しているようだ。
規則正しい寝息が聞こえてくる。
寝息までノアにそっくりだ。
疲れているのか、よく眠っている。
豊かな金髪に指を這わせる。
3年前を思い出していた。
彼の髪をこんな風に撫でながら慰め、愛し合い、そして別れた。
あのときもいまも同じ選択を迫られているような気がする。
だが、今度だけは道を間違えたくない!
あふれる涙で視界を滲ませながら金色の巻毛にむかい、そう誓った。