第14話
――ドッ!
――キャアハハーッ! アハハハハハーッ!
大勢の笑い声が聞こえてきた。
余興に喜劇女優でもきているのだろうか。
オリバーと馬車を降りながら人々の喧騒が聞こえてくる美しい宮殿を見上げた。
ここはイングランドの王城。
まさか国王の宮殿で舞踏会とは思ってもみなかった。
クロエはどうしてこのように立派な場に呼んでもらえたのだろうか。
困窮しているように見えたのだが。
「エマ、いま国王は権威を失いかけている。王の威厳が通じないものだから口さがない連中が言いたい放題だ。言ってる内容は嘘ばかりだから、ぜんぶ無視しろ。ちなみにボバリー夫人は贅沢がもとで破産した。没落して社交界から姿を消したから安心してくれ。だが、第2第3のボバリー夫人が大勢いる。覚悟していてくれ。そして、決して相手にするな」
「わかったわ、オリバー。何があってもあなたを信じます」
「エマ……」
どうしたのだろう。
力強い言葉とは裏腹に、オリバーが不安そうな目でわたしを見た。
視点が定まらない。
まっすぐこちらを見ようとしない。
なにかうしろめたいことでもあるのだろうか。
わたしは3年も家庭を留守にしてしまった。
ある程度の覚悟はできている。
ケルアイユ公爵夫人のことも考えないようにはしているが不安だ。
本当は彼女のドレスなんか借りたくなかった。
ゆうべもオリバーはどこに行っていたのか。
寝台へ抱き上げられたとき、ほのかにお香の匂いがした。
だからおやすみのキスをくれなかったのか。
また胸の奥が痛みはじめた。
この傷口をひろげてはいけない。
じわじわと大きくなり顔の表情まで曇らせるようになってはおしまいだ。
他人に悟られないようにしなければ。
「エマ……おれを信じて欲しい。君を裏切るようなことは絶対にしていない。けれど、いまのおれにはこれしか言えない。国を裏切ることは神を裏切ること。神を裏切ることは己を否定することだ。あとは死しかない。ああ、だけど……死より辛いのは君に軽蔑されることだ……」
「オリバー……」
オリバーは謎の言葉を発すると決心したようにまっすぐ前を向き真剣な表情をした。
彼に腕を取られたままわたしも同じ方向を見た。
目の前に豪華な宮殿がそびえている。
この美しい建物のなかに今夜も、たくさんの欲望と陰謀が渦巻いている。
◇ ◇ ◇ ◇
宮殿内の壮麗さは言葉ではあらわせないほどだった。
その圧倒的な美しさにめまいがして何度もよろけそうになった。
「オリバー……なんて素晴らしいの……表現のしようがないわ」
「おれにしてみれば、エマの美しさのほうがクラクラするね。この建物はいわば過去の遺物だ。人の手が施した最高傑作ではあるけどね」
「だけど、未来永劫わたしたちが死んでも残り続けるのよ。この荘厳さと一緒に……すばらしいわ!」
「たしかにそうだね。イングランドのなかでここほど美しい場所はない。同時にこれほど醜い場所も。さあ、着いた! 美しく着飾った老若男女の胸の内なんてタカが知れている。イヤなことは忘れて踊ろう!」
わたしとオリバーは3年ぶりのステップを踏んだ。
オリバーは場数を踏んでいるのか、ダンスがとても上手になっていた。
最新のステップをたくさん知っている。
これではとんだ遊び人だ。
わたしはびっくりしていた。
「オリバー……すごい技術ね。ダンスの腕をあげたのね」
「ウィンター公爵に特訓されたんだ。これも商売のうちだとさ。社交的にならないと貿易商にはなれないらしい。自分の呼び方もぼくではお坊ちゃんぽくて足下を見られるからと、おれに訂正させられたよ。服装や髪型だってそうだ。少し着乱れていたほうが親しみやすいんだとさ!」
「そうだったの……」
そんな物の言い方をするオリバーは別人のようで、なんだか寂しくなった。
ウィンター公爵も余計なことをしてくれたものだ。
彼をとつぜん恨みたくなった。
ひとしきり踊り終わるとあいさつ回りをした。
以前の王党派の人々は鳴りをひそめ、議会派のよく知らない人々とあいさつを交わした。
みなが一様にわたしの存在に驚いていた。
オリバーのことを独身、もしくは離婚していると思い込んでいたらしい。
なかにはわたしのことを横目で見てほくそ笑む夫人もいたが、さきほどのオリバーの忠告どおり無視した。
オリバーとの空白の3年間について、いまさら考えても仕方のないことだ。
堂々としていよう。
いまのわたしにできる精一杯のオリバーへの手助けだ。
ノアのためにも立派な奥方でありたいと決心していた。
――ザワッ……!
リチャード国王の登場だ。
わたしは絵でしか見たことがなかったが、堂々とした体躯の立派な王だった。
ふさふさとしたこげ茶色の髪に理知的な瞳が輝く美男子だ。
十代の頃からたいそうな艶福家だと聞いている。
愛妾が数限りなくいると言われている。
今現在、王は議会派から退任を迫られていて宮殿から出ることが叶わない。
王が退任させられたら大勢の愛人たちはどうなるのか。
今夜の舞踏会での最大の関心ごとがそれであることはあきらかだった。
「王さま……妻のエマです」
「はじめまして、エマと申します」
わたしとオリバーは膝を折り、王に正式な挨拶をした。
「これはこれは……オリバーが妻帯していたとは。美しく慎ましやかな女性ではないか。オリバーは幸せものだな」
「妻だけでなく子もおります。今年3歳になるノアという男の子です。以後お見知りおきを」
「なんと3歳とは! これは驚いた。大事にいたせよ!」
「はい」
「ところでエマ殿……その白いドレスはもしや……。いまわれは宮殿から出られぬ身。知性の女神によろしく伝えてくだされ」
「はい、かしこまりました」
王とオリバーが親しい間柄であることにとても驚いた。
そういえばオリバーは、王自ら叙勲されたと言っていた。
どうやってイングランドの最高権力者とお近づきになれたのだろう。
今夜も招待状もないのに、案内係は快くわたしたちを舞踏会場へと通してくれた。
オリバーとは顔見知りのようだった。
そんなにたびたび城にあがることあるのだろうか。
これもすべてウィンター公爵のツテなのか。
彼はオリバーに何をさせようとしているのか。
王の御前から退くと外国の要人たちに紹介された。
みな高貴な貴族たちばかりで、オリバーと親しいようだった。
ここにも、わたしの知らない彼の姿があった。
隣りにいるはずのオリバーが、どんどんと遠ざかっていくような気がした。
その後も踊ったり何かつまみながら酒を飲んだりおしゃべりに興じたりした。
一通りのあいさつを終え、オリバーが用事ができたとわたしのそばを離れていった。
そのときひとつの影がスッとちかづいてきた。
クロエだ。
派手な真っ赤なドレスを着ている。
小さな女の子と一緒だった。
「クロエ……」
「先を越されたようね」
「その子があなたの?」
「そうよ。名前はキャロル」
3歳ぐらいのその女の子はあきらかに不安そうな目でキョトキョトしながら怯えていた。
金髪に碧い目をしているがダニエルにもクロエにも似ていなかった。
「クロエ……こんな時間に小さな子供を夜会になんて連れてきてはいけないわ」
「エマ! ねえさんぶるのはやめてよ!」
「だけど……」
「ねえ、慰謝料だけど、早く払ってもらえる?」
「慰謝料? なんの?」
「昨日、言ったでしょ! ダニエルの借金よ! それと子供の養育費に決まってるでしょう! 私生児を産ませたことによるわたしの精神的苦痛も合わせてよ!」
「クロエ! 子供の前でなんてことを……!」
「かまやしないわよ!」
「だったらクロエ、昨日も言ったとおり、あなたはダニエルと共謀してリード家の財産を持ち逃げしてるのよ。あなたは罪人なのよ」
「リード家は結局、取り潰されたんでしょ? だったら、その前にわたしとダニエルが財産を使ってあげたんだからいいじゃない。リード家に嫁がなくて本当によかったわ。ああ、そうだ! あんたの母親の宝石も売ってやったわよ。エマが持っていたって、それこそ宝の持ちぐされだったものね?」
「なんてことを……」
「いいじゃないの! もとはといえばお父さまが買って与えたものなのよ! お父さまの先祖の物もあった。エマの父親はわたしにとっても実の父親なのよ! なのに、どうしてあんたたち親子だけが恩恵を被るのよ! お父さまは何かというとエマ、エマと、わたしとお母さまはいないも同然の扱いだった! あんたに虐げられたそのくやしい想いがわかる? エマには許婚のステキな王子様までいて! 同じ家に生まれたのに差別を受けて、不公平だわ!」
「クロエ……わたしにそのことを言われても……」
「そういえば……そうだったわ! エマ、あんたも今はわたしのお母さまと同じ立場だったわよね? あんたも慰謝料もらったら? ずっと島にいたそうじゃない。オリバーさまの噂を知らないみたいだわね」
「クロエ……聞きたくないわ」
「知っておいたほうがよくってよ。ケルアイユ公爵夫人はもとより、喜劇女優とも浮名を流しているわ。この半年オリバーさまの舞踏会のパートナーは、その2人の妙齢の美女が代わる代わるで務めているそうじゃないの。オリバーさまは今、貿易商として名を馳せているんですってね? 金のためにイングランド国王の有名な愛妾たちと関係してるって噂よ」
「何をしている!」
突然オリバーが現れた。
息が乱れている。
クロエを見とがめ大いそぎでやってきたようだ。
「オリバーさま! さっきの喜劇女優を送っていらしたのね? 劇場にも足繁く通っていらっしゃるそうではありませんか」
「黙れ! エマ、この女の話に耳を傾けるな!」
「この女とはなに? かつてのフィアンセよ? しかも、子供の頃からの!」
「ネル・グウィンに聞いたぞ! バーバラ・パーマーに取り入って今夜の舞踏会に参加させてもらったそうだな。いまさらどうした? そこまでせっぱ詰まった事情があるのか?」
「……ネル・グウィン? さっきの喜劇女優ね? リチャード王の大のお気に入りだった。バーバラさまと寵姫の1、2を争っていらっしゃったそうじゃないですか。いまその2人の美女は……落ちぶれた王ではなくて、若くて美しい飛ぶ鳥を落とす勢いの貿易商オリバーさまをかしら?」
「だまれ! ネル・グウィンは大衆に好かれている。バーバラ・パーマーのように貪欲ではない!」
「バーバラさまは、ケルアイユ公爵夫人ほど嫌われておりませんわ」
「離れていたわりには、社交界に詳しいようだな。黒幕は誰だ? 言ってみろ!」
「なんですって! よけいなお世話よ! 元はと言えば、わたしはダニエル・リードのせいで……」
「あーんっ! マミー! ああーん……!」
クロエのけんまくに驚いたキャロルが、大声で泣き叫びはじめた。
「ちょっと! 静かにしてよ! ナニー! ナニーはどこ?」
「クロエ……小さい子にそんな……」
「エマ! 放っておいてよ! あんたよ! あんたのせいでなにもかも!」
「クロエ、よせ。もう帰れ! 衛兵! このご婦人を!」
「はいっ!」
「ちょっと! やめてよ! オリバーさま!」
「いいから連れていけ!」
「はい!」
「オリバーさま……今夜は大人しく引き下がるけど、次はそうはいかなくてよ? エマ、おぼえてらっしゃい! 衛兵、放しなさい! キャロル! 行くわよ!」
「ああーん……ひっく……はい……」
キャロルは泣きながらクロエのあとをついていった。
あれで本当に母親なの?
あきれてモノがいえなかった。
「エマ……クロエの言う事をいちいち気にするな。娼婦まがいのことをして生きてきたに決まっている。エマの義理の妹に対して失礼かもしれないが、あれが元許婚かと思うとぞっとするよ。おれの人生の最大の過ちだ」
「オリバー……気を悪くされたでしょう。ごめんなさい……」
「いいんだ。君が謝ることはないよ。さあ、帰ろう」
「はい……」
オリバーとエントランスに向かっていると、横からスッとどこかの令嬢が現れた。
茶色い髪に茶色い瞳の愛くるしい美人でしとやかな印象を受けた。
「ルーシーか? いったい、どうした?」
「オリバー……実は折り入ってお話が……。あら? 奥さまですか? これは失礼……」
オリバーの知り合いのようだった。
親しい様子だ。
「三ヶ月ぶりか? なんの相談だ? まさか……! 庭へ行こう。エマ、ルーシーは幼馴染の伯爵令嬢だ。すまないが先に行ってくれ」
「……わかりました」
「奥さま、もうしわけありません」
令嬢は会釈してオリバーと暗い中庭へと消えていった。
不安な思いでひとり馬車へ戻った。
しばらくするとオリバーが深刻そうな様子でやってきた。
眉間にシワが刻まれている。
さきほどのルーシーという令嬢となんの話をしていたのだろう。
「エマ、すまない……残ってやらなければならないことができた。申し訳ないが宮殿へはひとりで帰って欲しい。本当にすまない。ケルアイユ公爵夫人のドレスはメイドが取りにくるから気にするな。あのドレスはかつて、リチャード王がウィディングドレス代わりにケルアイユ公爵夫人へ贈られたものだ。王は今晩たいへん感動していた。エマ、本当にどうもありがとう」
「オリバー……気をつけてね」
「エマ……」
オリバーはわたしにキスをすると馬車を降り立ち去った。
その夜、彼は城から戻らなかった。