第13話
初めてみたルイーズ・ケルアイユ公爵夫人は、黒い巻毛をフランス風に束ねオレンジとブルーの美しい衣装を身にまとったアフロディーテのような女性だった。
フランス的な美人で三十前後の女の分別を身につけた上品な人物に見えた。
「ノアはレノックスより1つ年下です。ケルアイユ公爵夫人、妻のエマです。エマ! ルイーズ・ケルアイユ公爵夫人だ。この宮殿の女主人だ」
「エマ……リードです。はじめまして。お世話になります」
いそいでオリバーの傍らに駆けつけて正式なあいさつをした。
手袋もしていない荒れた手と乱れた髪、貧しい身なりが恥ずかしかった。
チラリとオリバーを見ると、彼はすでにデイジーの花の中に座りノアと花冠の続きをつくりはじめていた。
「まあ、若くて美しい奥さま! よろしくね。オリバーにはいろいろとお世話になっておりますのよ」
ケルアイユ公爵夫人はやぶにらみの目でこちらを見つめながら気さくに話しかけてきた。
王党派が台頭していた頃は国事も任されるほど教養のある女性だと評判だった。
フランス出身というだけで密偵ではないかと疑われていて、イングランドの国民からはいみ嫌われているが本人はいたって女らしく感じの良い女性だった。
「オリバー! その小花でそんな素晴らしい王冠ができるの? すてきだわ!」
「花冠をお届けしましょうか?」
「まあ、では、侍女に取りにいかせるわ! ちょっと待っていらして」
しばらくするとかわいらしい黒人の侍女がやってきて、オリバーの手からデイジーの花冠を持っていった。
ケルアイユ公爵夫人はそれを受け取り、大喜びで息子の名を呼びながら去っていった。
「彼女は身分が低かったぶん権勢欲が強い。常に公爵夫人とつけて呼んでやってくれ。まったく、結婚もしないのに夫人だなんて……そんなにうれしいのかね? 公爵の身分が! かくいうおれも、半年前に国王から叙勲され伯爵のなかでも上級貴族になったんだがな……」
「まあ……オリバー……そうだったの」
わたしが島にいる間にオリバーはすっかり出世して立派な青年貴族の仲間入りをしていた。
農作業をしている孤島の男爵の娘が妻ではかっこつかないだろう。
なんだかオリバーに対して申し訳ない気持ちになった。
わたしはケルアイユ公爵夫人のような気品も知性も持ち合わせてはいない。
「さあ、エマ、これを君に……」
「うれしいわ……どうもありがとう!」
オリバーが被せてくれたデイジーの花冠に、厭な胸騒ぎはしばし忘れた。
「ママ! ちれい! ノアもちゅくるー!」
「その赤ちゃん言葉をなおしてからだぞ、ノア。貞節の証デイジーの花は、昼だけ咲くから昼の目、太陽の瞳という語源からデイズ・アイ、デイジーだ。聖母の涙から生まれてきたマリアの花とも呼ばれているんだよ。根が四方八方にすぐ広がって根絶しがたいから不思議な力があると古来より信じられているんだ。根っこを魔よけにしたり、愛する人が死んだときにはそのお墓の回りには咲くと言われている。ノア、おまえのような子供が最初に手にする花がデイジーだ。それほど、どこにでもある一般的な花なんだよ。花冠を枕の下に入れて寝ると恋人と一緒の夢が見られると言いつたえがあるんだ……」
そう言いながらオリバーが物言いたげな目でこちらを見た。
濃いブルーの瞳が太陽の光を受けて輝きはじめる。
「そうだ! 2人に見せたいものがあるんだ。今日は船旅で疲れたろうから、明日の朝1番に馬に乗って出掛けよう」
「おうまさーん! パカパカ!」
「そうだ、たのしいぞー!」
「わーい!」
「オリバー……クロエのことは……」
「まだいい。さっきのが4年ぶりの接触だ。何をしてくるかわからないから、ノアには常に人をつけよう。罪があるのはあっちだ。エマは何も悪くはないのだから堂々としていればいい。ダニエルも行方不明のようだし……」
「わかりました」
これ以上クロエの話をしてもお互いにイヤな想いをするだけだ。
オリバーとノアと3人で部屋に戻り食事を取ることにした。
「ぼくもやるー!」
「どうしましょう……ノア、いつもみたいにお手伝いはしなくていいのよ」
ノアがお皿やグラスを並べようとメイドたちのまわりを走りまわっている。
「ハハハハ! ノア! 退屈なのか? 他の部屋を見てまわろうぜ!」
「うん!」
3人で大きな宮殿のあちこちを見てまわった。
さすがフランスから来た貴婦人だけのことはある。
どの部屋も目を瞠るような高価な美術品があり、見事なバランス感覚で飾られていた。
「まるで4年前に連れていってもらった美術館みたい! とても素晴らしいわ!」
「あのころは楽しかったな……くじらの骨を見たよな!」
「フフフフ……大きかったわね……!」
「くじら?」
「そうだぞ、ノア! あの天井よりもでっかい魚が海には、いるんだぞ!」
「おうまさんよりもー?」
「馬ー? 馬なんか比べもんにならないぐらい、大きいんだ。おれがそれをエマに教えてやったんだぞ」
「なんで?」
「なんでか? おれはエマの先生だったからだ!」
「せんせー?」
「人にものを教える人間だ。いまのおれみたいにな! ノア!」
「ノアのせんせー!」
「そうだ!」
「フフ……ノアったら!」
「ママがわらったー!」
「ノア……そんなにエマが笑うのが珍しいのか?」
「うん!」
「そうか……エマ、すまなかった……。これからは、3人でいっぱい笑おうな……」
「オリバー……」
こんな日がやってくるなんて。
うれしくて涙があふれそうだ。
がんばってノアと生きてきて本当によかった。
努力が報われた。
このときのわたしはなにもかも忘れ幸せに浸っていた。
人生がそんなに甘くないことを、イヤというほど知っていたはずのわたしなのに。
◇ ◇ ◇ ◇
その後3人で食事をした。
オリバーとは実に3年ぶりの、ノアは父親と初めての晩餐だ。
胸がいっぱいで食べ物が喉を通っていかなかった。
「ノア! おねがいだから、オリバーの膝から降りてちょうだいな」
「ヤダ! ノアのひざ! ここで食べる! オリバー! 肉たべゆー!」
「エマ、このままでいいよ。ノア、ステーキはまだおまえには早いよ。温野菜を食べろ。からだにいいぞ!」
「やだー! にんじんヤダ! オリバーとおんなじ肉!」
「このにんじんは砂糖で甘くしてあるんだぞ? ほら! たべてみろよ!」
「むぎゅっ……くちゅくちゅう……あまいー! おいちー! オリバー! もっとー!」
「だろ? ほら、もっと食べろ!」
「ノアったら……」
ノアにたのしそうに人参のグラッセを食べさせるオリバー。
見ているだけで胸がいっぱいになった。
「エマ、食べないのか?」
「胸がいっぱいなの……」
「エマ……たくさん食べて……もっと太ろう……」
「はい……」
オリバーも涙ぐんでいた。
3年前の彼の泣き顔を思い出していた。
もう、彼に悲しみの涙を流して欲しくない。
だが、それは叶わぬ夢だった。
どうしてもわたしは、彼を悲しませるサダメにあるらしい。
のちにわたしは、自分の運命をイヤというほど思い知るはめになるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
ノアを寝かしつけたあとでロウソクの灯かりの下、羊毛で繊細なレースを編んでいた。
普段から働き続けているせいで、なにかしていないと落ち着かないのだ。
――トントン!
編み棒から顔をあげると、寝室のドアの前にオリバーが立っていた。
「ノアはもう寝たのか……よく眠っている。かわいいな……寝顔は天使だ」
「今日は一日中こうふんしてたから……」
「エマ……あした出かけたら、そのまま街へ出て服や身の回りの品を買おう。ノアのおもちゃもだ」
「オリバー……うれしいわ。なんとお礼を言っていいのか……」
「お礼なんて……。許されたことがとてもうれしいんだ。エマは怒ってしまって、一生許してもらえないかと思っていたから……」
「オリバー……どうもありがとう……」
「実は……人に呼ばれて今から出かけなければいけないんだ。朝までには帰るから……すまない……」
オリバーはなぜかうしろめたそうな顔をした。
なにがそんなに彼を困らせているのだろうか。
「オリバー……お仕事なのでしょう? 構わないわ。行ってきて! 闇夜だから気をつけてね」
「エマ……」
――コツコツコツコツ。
突然オリバーが目の前まで歩いてきた。
高い背を折り曲げかがみこむと、首を横に向けてわたしにキスをした。
「…………!」
「……行ってくる」
――コツコツ、パタンッ!
クルリと背を向けると足早に部屋を立ち去っていった。
急な展開にわたしの心は追いついていかない。
身体は硬直したまま心臓だけをドキンドキンさせながら、閉まったままのドアをいつまでも見つめていた。
4年前の舞踏会でのキスを思い出していた。
あのときと同じぐらい胸がドキドキした。
◇ ◇ ◇ ◇
――キイッ……パタン、コツコツコツコツ。
「だれ? オリバー……?」
――ギシッ……トサッ……。
編み棒を持ったまま寝込んでいたらしい。
誰かに寝台へ抱き上げられた。
かすかに香のにおいがする。
となりからはノアの規則正しい息遣いが聞こえてくる。
それを子守唄にして、わたしは深い眠りについた。
◇ ◇ ◇ ◇
――ピピピピピピッ! チュピッ、ピピーッ!
「鳥さーん!」
「ふふ……ノアったら……」
いつものクセでノアと早起きしてしまった。
中庭に散歩に出た。
蓮の花が水面からポッカリと顔を出している。
この世のものとは思えないほど幻想的で美しかった。
まるで別世界にいるようだ。
今朝はノアと寝台の上で目が覚めた。
オリバーが運んでくれたのだろう。
まだわたしたちとは寝屋を共にする気はないらしい。
「エマ! ノア!」
「オリバー!」
「オリバー……」
いかにも寝不足といったかんじのオリバーが母屋からやってきた。
ゆうべはどこで寝たのだろう。
厭な予感しかしない。
朝食のあとオリバーが隣りの馬術場から馬を2頭、借りてきた。
「ノアはおれとだ。エマは久しぶりだが乗れるか?」
「大丈夫だと思うわ。やってみる」
「では、行こう! さあ、ノア!」
「わーい!」
オリバーに馬の背まで持ち上げてもらったノアは大はしゃぎだ。
たかいたかいを連発しながら大騒ぎをして、例のごとくオリバーに押さえ込まれていた。
転げ落ちなければいいが。
馬で20分ほど行ったところに大きな植物園があった。
まだ作る途中の行程で、ところどころに剥き出しの土が見えていた。
その周りにある芝生に馬をとめ3人で歩きはじめた。
ノアはたちまち広い芝生中を駆けめぐりはじめた。
「オリバー、ここはなに? 前はこんなところはなかったわよね? ただの公園だったわ」
「王立の植物園を作っている。世界中の花や木を集めてきて育てるんだよ。すてきだろう?」
「世界中? アフリカや中南米、東洋もすべてってことなの?」
「そうさ! おれはその種子や苗を求めて世界中を旅する予定さ! プラントハンターとしてね!」
「プラントハンター? そんな仕事があるの? 植物好きなあなたにはぴったりの職業だけれど……」
「エマ! 3人で世界中を旅してみないか? 珍しい植物を求めて!」
「オリバー……とてもすてきね! わたしもできたら行ってみたいけど……」
オリバーの魅力的な提案には心躍るが、わたしには島の当主としての責任がある。
貧しい島民を置いて自分だけ冒険に出るわけにはいかない。
「まだ先の話さ。今や王室は風前の灯だ。王家がいつまでもイングランドにいられるとは限らない。彼らが国外へ脱出したら、おれたちも一緒に逃亡しなくてはならない」
「そんなに切羽詰った状況なの? でも、オリバーは議会派でしょ? リード家は免れることができるのでは?」
「エマ……このさき革命が起きる可能性は高い。そうなったらおれたちにも予測不可能な事態が起きるだろう。早めに逃げる算段はしておいたほうがいいんだ」
「…………」
いつになく深刻なオリバーの様子にことの重大さが伺えた。
この先なにが起きるかわからない。
わたしも、いつでもノアと島に逃げられる覚悟はしておいたほうがよさそうだ。
「ママー! デイジー!」
「まあ! 本当だわ!」
ノアがデイジーを片手に走ってきた。
おぼつかない足取りが妙にかわいらしい。
近くを散歩していた紳士がそれを見て笑っている。
「エマ、この植物園に最初にデイジーを植えた。子供たちが最初に手にする花だからな。おれにとっても深い思い入れがある花だ。元々はこどもの頃に君の島から持ってきたものだよ。リード家の庭で増え、宮殿やこの植物園でも根をはっている」
「かんむり! つくって!」
「ノア、それはあとだ。まずは植物園の中を案内するよ。さあ、エマ」
「オリバー……」
「ぼくもー!」
「じゃあ、ノアは左手につかまれ!」
「うん!」
オリバーに手を取られ植物園の中を散策した。
色とりどりの花々やさまざまな木や草が生い茂っていた。
美しい夢のような世界が広がっていた。
ノアも黙ってオリバーの説明を聴いている。
まるで4年前の独身時代に戻ったような錯覚をおこし、しばし幸福な想いに浸っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
その後、街に出て昼食を取り買い物をした。
どこに行ってもノアは大はしゃぎだった。
だからカフェでコーヒーを飲むころには疲れきり、オリバーの膝の上で眠っていた。
「寝ると余計に重いでしょう? ノアを椅子に降ろしてちょうだい」
「こんな痩せっぽち、どうってことないよ? エマと2人だって乗せられるぜ?」
「まあ! ウフフフ……! そんなの無理だわ!」
「やっと笑った。エマは結婚してからあまり笑わなくなったからな……まあ、おれのせいだけど」
「オリバー……」
「これからは3人でいっぱい笑おうな! 今の時代、淑女もフランス女並みによく笑うんだぜ? 観劇に来た女性たちなんか……いや、なんでもない」
「どうかしたの?」
「エマは無理して下品な女どもみたいに笑う必要はないよ! いつも自然体でいてくれ。それが君の魅力だから」
「オリバー……どうもありがとう」
オリバーがわたしの手を握りまっすぐに瞳を見つめそう囁く。
わたしは目に涙を浮かべながらそっとうなずく。
心が震える。
3年前に彼の心を深く傷つけてしまったわたしが、こんなに幸せになってもよいのだろうか。
罪悪感に苦しむわたしの心にオリバーの手からあたたかなぬくもりが伝わってくる。
許されてもいいのだろうか。
偽りの花嫁を演じたわたしの小さな罪が。
◇ ◇ ◇ ◇
宮殿へ戻り食事をしたノアは、すぐにまた眠ってしまった。
ノアの寝顔を見ながら編み物をしていると、突然オリバーが寝室に入ってきた。
「エマ、すまない。これから一緒に舞踏会へ行ってくれ!」
「舞踏会へ? これから? でも……着ていくドレスがないわ」
「ケルアイユ公爵夫人に借りてくる。湯浴みして支度をはじめてくれ。頼む」
「どうされたの?」
「クロエが娘を連れて今夜、社交界に4年ぶりの復帰を果たすそうだ。その前に君とノアの存在をアピールしておきたい」
「ノアはもう、寝てしまったわ」
「夜だからノアは連れていかないよ。ノアがいることを社交界に宣伝できればそれでいいんだ」
「わかったわ。すぐに準備いたします」
わたしは編み物をテーブルに置きすぐに立ち上がった。
いまこそオリバーを助けるときだ。
メイドの手を借り湯浴みを終えるとすばやく身支度を整えた。
荒れた手は手袋で、すさんだ肌はおしろいで念入りに隠し、ブラッシングしてもらった髪を高く結い上げた。
ケルアイユ公爵夫人のメイドが持ってきたドレスはひどく立派なものだった。
全体に真珠が散りばめられた真っ白なイブニングドレスで、長くゆったりとした袖が美しいドレープを形成していた。
まるでウェディングドレスのようなその衣装はきっと人目を引くだろう。
戦々恐々としながら袖を通した。
鏡の前で不具合はないかと念入りにチェックしているとオリバーがやってきた。
「……エマ……とてもきれいだよ……」
「ケルアイユ公爵夫人の衣装が素晴らしいだけよ。完全にドレスに負けてるわ」
言葉を失ったかのように見とれるオリバーに照れてしまい、ぞんざいな言い方で返してしまった。
「そんなこと決してないよ! 身に着ける人が素晴らしいからドレスも栄えるんだ! 見劣りなんて絶対にしない!」
「オリバーったら、恥ずかしいわ……」
「エマ……ぼくのデイジー、いざ」
「はい、あなた」
オリバーの差し出す手を取りわたしは出かけた。
嵐の吹き荒れる舞踏会へと。