第11話
ウィンター公爵は執事と共に宿に帰った。
明日の朝わたしとノアを迎えにくる。
オリバーはノアのことをまったく知らないらしい。
わたしに子供がいることも耳に入っていないそうだ。
イングランドに着いたらまたひと悶着ありそうだ。
「ママー! ワンちゃん! お絵かき!」
「そうね……それも入れていいわよ。それと……スプーンも自分で持っていきなさい。もしも本当の持ち主が見つかったら、ちゃんとお返しするのよ?」
「はーい!」
ノアとカバンに荷物を詰めながら4年前を思い出していた。
あのときは、まさかこの屋根裏部屋にまた住むことになるとは思ってもみなかった。
屋敷に部屋はたくさんあるが使っていない。
お給金も満足に払ってあげられない従業員たちの手前もあるし、だいいち広すぎてノアと2人で住むにに不便だ。
「ママー! ジャックにい! メアリーねえ!」
「そうね……あいさつに行かないと……今度もまた、急な旅立ちとなってしまったわ……」
◇ ◇ ◇ ◇
すぐにノアを連れてジャックとメアリーの家に行き別れのあいさつをした。
2人ともとても心配してくれた。
オリバーやクロエ母娘に会うのはとても不安だが、今度はノアがいてくれる。
この子を父親に会わせてあげることは母親としての務めだ。
ジャック夫婦にはそう説明した。
丘を経由して屋敷に戻ることにした。
◇ ◇ ◇ ◇
ゾーイのお墓はあいかわらず寂しげに風に吹かれていた。
デイジーの花が揺れている。
「ママー! おっきい! お船! ある!」
「そうね……あの大きなお船に乗ってノア、あなたはあした父親に会いに行くのよ……」
誰ともなくそうつぶやいたわたしは突然ひどい胸騒ぎに襲われた。
オリバーに会い、ノアをなんと紹介すればいいのだろう。
継母やクロエに会ったらどうしたらいいのか。
彼女たちは、なぜいまさらオリバーの元婚約者だったことを主張してきたのだろうか。
こんな弱虫で自信のないわたしが、彼らと面と向かって対峙できるのか。
偽りの花嫁のこのわたしが。
「ママー! お花! やって!」
「ノア……」
そうだ、わたしにはこの子がいる!
たったひとりで産み育ててきた歴史がある。
気弱なエマはもういない。
デイジーの花冠を編みながら、心の中にもあらたな決意を結びなおしていた。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、4年前のように枕の下にデイジーの花冠を納めノアの手を引き屋根裏部屋をあとにした。
ゆうべは従業員たちと簡単な晩餐をして別れを惜しんだ。
今日も彼らはウィンター公爵の馬車に乗るわたしとノアに、いつまでも手を振り続けてくれた。
悲しい別れに自然と涙が流れる。
ノアもわたしの膝の上で泣いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
適度に風があり快晴で快適な船旅だった。
ノアは初めての船に大はしゃぎで、ずっと走り回っていた。
こんなにも野放図な性格で果たして都会でやっていけるのだろうか。
ノアをわがままに育ててしまったことをいまさらながらに後悔していた。
「ウィンター公爵、申し訳ありません。ノアは落ち着きがなくて……」
「まだ3歳なのだから仕方がありませんよ。なに、父親が厳しくしつけてくれますよ」
「オリバーが……」
「ええ。本当にノアはオリバーにうりふたつだ! 生き写しですな!」
誰もがオリバーをノアの父親だと信じて疑わない。
それもそうだ。
ノアはオリバーに本当にそっくりだからだ。
ましてわたしは正式なリード夫人。
ノアの父親が自分ではないと思うのは、オリバーぐらいだろう。
――ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ! ジャンッ!
「わああーっ! ママー! おっきい!」
「そうよ。イングランドでいちばん大きな港なのよ……」
4年前、わたしも港の大きさに息を呑んだ。
あのころのわたしは、今のノアのように何もかもが驚きの連続だった。
くったくのない子供の心に、出来ればわたしも戻りたい。
純粋な目で物事を見渡し素直に感動できたらいいのに。
オリバーの信頼を失くしたあの日から、わたしの瞳に映る風景はどれもこれも色あせてしまった。
「ワンワンだー!」
舷梯を下りたノアが、犬を見つけていきなり走りはじめた!
「ノア! だめよ!」
「ワンワン! ワンワン!」
「まあ! なあに? この子?」
どこかの御婦人にぶつかり怒られた。
「申し訳ありません!」
わたしは人々にぶつかりながら走りまわるノアを追いかけまわしながらとても恥ずかしい思いをした。
上陸したとたんにこれでは先が思いやられる。
「ぎゃあっ!」
「しつけのなってないガキだな! 誰に似た! 親はどこだ?」
突然やってきた背の高い男が、ノアをとらえて担ぎ上げた!
あのうしろ姿は!
「わあーんっ! ワンちゃん!」
「オリバー、おまえに似たのだろう? そっくりじゃないか、聞きわけのないところが!」
「なんだと? レオ! あんたか!」
オリバーだった。
ノアを担いだまま振り向き驚いている。
「あなた……」
「エマ……」
3年ぶりの彼はひどく様子が変わっていた。
巻毛は長く乱れ肌は荒れ寝不足なのだろう、瞳の色はどんよりとくすんでいる。
服装もシャツのボタンが3つほど開いていて上着の前がはだけている。
4年前に初めて会ったときのダニエルのようだった。
だが、わたしも人のことをどうこう言える立場ではない。
いま着ている服は4年前に身につけていた母の形見の茶色のワンピースドレスだし、化粧もしていない顔は日に焼けて真っ黒だ。
満足にブラッシングもしていない金髪は茶色くすすけ、労働者の手に戻った指は節くれだって荒れている。
ノアだってまるで農夫の子供だ。
子供用の服がないので、いらなくなった島民の服を直して着せている。
「オリバー! 奥方と息子さんを無事に送り届けたよ。あとは君次第だ。わたしはこれで!」
「ウィンター公爵は帰られてしまわれるのですか?」
「リード夫人。これからオリバーの代わりに外国で商談があるのです。彼はいまや、立派な貿易商だ! コショウや砂糖、紅茶の輸入業をしているのですよ」
「まあ、それは……失礼いたしました。行ってらっしゃいませ」
「またすぐに戻ってきますよ。島のニットも必ずまた買い取りに行きますから、どうぞご安心ください」
「はい。どうもありがとうございます。たいへんお世話になりました」
「おい、レオ! エマに子供がいたなんて聞いてないぞ! ニットの話もだ!」
「わたしは聞かれたことしか答えない。聞かないほうが悪いんだよ! その子はノア。この夏で3歳になる。元気がいい子だぞー。オリバーの手に負えるかな? ノア、またな! 良い子でいるんだぞ!」
「うん! おじちゃん! ばいばーい!」
ノアがオリバーの肩の上でウィンター公爵に手を振っている。
「ノア……そんな大声で……」
「オリバーもがんばれよー!」
「あっ! レオ! 待てよ!」
ウィンター公爵はわたしたちに手を振ると、サッサと船に乗り港を出ていった。
あとに残されたのはオリバーが肩車するノアとその隣りに立つわたしだけだ。
彼の船が見えなくなるまで、3人で黙って見送った。
「たかい! たかーい!」
「おい! いい加減に降りろ!」
「あの……お付きの方は?」
「いるわけないだろ? 今のイングランドでそんな贅沢してる奴などいやしない。馬車は乗り合いで……」
「わああーっ! ワンワンだ! ワンワンだー!」
「おいっ!」
足下に子犬を見つけたノアが、オリバーの背中で逆さまにのけ反り仰向けになった。
犬にさわろうと必死に手を伸ばしている。
そうとうな、はしゃぎようだ。
オリバーがあわててノアの足を押さえる。
「この猿はなんだ!」
「ごめんなさい……犬を飼いたくても、うちの島にはそんな余裕がなくて……」
「そういう問題じゃないだろ! こいつめっ!」
「ぎゃあっ!」
ノアが身動き取れないように、オリバーがっちりと前に抱えなおした。
「はなせ! はなせーっ!」
「ははははっ! 動けないだろ! ざまあみろー!」
ノアが手足をバタバタと動かして力いっぱい抵抗している。
この大騒ぎに港の人たちが眉をひそめている。
なかには楽しそうに笑っている者もいるが、とても恥ずかしい。
穴があったら入りたいぐらいだ。
◇ ◇ ◇ ◇
オリバーはノアには乗り合い馬車は無理だと判断し、貸切の2頭立ての馬車を頼んでくれた。
わたしたちの荷物とノアを馬車に積み込むと、自分も一緒に乗り込んできた。
3年ぶりに見るオリバーはあいかわらずハンサムでスタイルもよく魅力的だった。
青年らしさに大人の色気が加わり一緒にいるだけでドキドキするほど素敵な男性に成長を遂げていた。
一人称がおれに変わった事と話し方や仕草が世慣れた風になってしまった点が気になったが、仕方あるまい。
オリバーは妻帯者とはいえイングランドの22歳の貴族の若者だ。
自由を謳歌しているのだろう。
「パカパカだー! パカパカー!」
「おい! どうしてこいつはおれの上に乗ってるんだ!」
「ごめんなさい……いつも誰かの膝に座っているから……」
「子供がいたとはな……おれとダニエルの小さい頃にそっくりだ。おっ……ツムジが2つある。その点はおれと一緒か……」
「こいつじゃない! ノア!」
「なんだとー!」
「ノア……そんな口をきくもんじゃないわ」
「ママ! パカパカ! のりたい!」
「おい! こいつ……ノアは単語しかしゃべれないのか? なぜだ?」
「申し訳ありません。きちんとした話し方を教えていないので……」
「ふーん。おいノア! 大人みたいにちゃんとしゃべれるようになったら、馬に乗せてやろう。犬も飼ってやってもいいぞ?」
「ほんとー! うれちー!」
「そんなぜいたくはノアには……」
「リード家の人間だろ? 乗馬はたしなみのうちだぞ」
「ですが……」
「エマ……昔のように名前で呼んでくれないか? 3年前のことはお互い水に流そう」
「……よろしいのですか? わたくしのことを許してくださるのですね。どうもありがとうございます……。ひろいお心に感謝いたします」
「いいんだ。こちらこそ悪いことをした。あとからよく考えてみたんだ。あのころのおれには子供の頃からの許婚がいた。反対にエマはフリーだった。君の過去についてとやかく言える立場ではなかったんだ。あのころのおれはひどくわがままな子供だったと反省したよ。神にも懺悔した。君を出て行かせてしまったことをひどく後悔している。エマ、もういちどやりなおしたい」
「……謝るのはわたくしのほうです。勝手に逃げ出したのはわたくしです。申しわけありませんでした……。リード家がたいへんなときに……」
「エマ……両親もセバスチャンもみな元気だ。エマに会いたがっている。君がイングランドを出ていったあと、すぐに両親とセバスチャンが領地へ視察に行った。ところが議会派の連中にあらぬ嫌疑をかけられ当地で拘束されてしまったんだ。ウィンター公爵に交渉してもらったがフランスに逃げるしかなかった」
「そんなことが……わたくし何も知らなくて……」
「エマのせいじゃない。君はあのとき出ていってある意味、正解だよ。両親が拘束されすぐに財産も屋敷も差し押さえになった。おれだけ残って議会派に寝返ったんだ。すべてウィンター公爵の発案だよ。これからの時代は騎士だけではやっていけない。公爵から貿易について学び販売ルートを確立してもらった。徐々に財産を増やしているところだ」
「そういう事情があったのですね……。それは大変なご苦労を……」
「仕方のないことだ。時代の流れだよ……」
「オリバー……」
わたしの両手を握りしめるオリバーの目をまともに見られない。
きっとやさしいまなざしを送ってくれているにちがいないのに。
ノアはめずらしく黙り込んでいた。
こんな展開が待っていようとは思ってもみなかった。
勝手に出ていくという不義理をしたのはわたしだ。
3年前のように怒鳴りつけられることを覚悟していた。
それが当然だ。
クロエの件が片付いたら、離縁してすぐに出ていくつもりでいた。
なのにオリバーはわたしを許す努力をしてくれていたなんて。
自分がひどく恥ずかしかった。
美しい彼の手に取られたあかぎれだらけのこの両手のように情けない。
生活に追われることを言い訳に己の身を省みず、オリバーのことは極力思い出さないようにしていた。
そのあいだ彼は家の再興のために奔走しながら、わたしのことまで考えてくれていた。
自身の非情さに涙が出るひまもないほどあきれてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
美しい東の離宮に到着したとき、ノアはオリバーに抱かれたまま寝込んでいた。
「ノアはわたしが……」
「おれが抱いていく。荷物はメイドが運ぶから置いたままでいいよ」
「はい……」
いよいよ継母とクロエと4年ぶりの対面だろうか。
メイドたちは見知らぬ顔ばかりだ。
王家の離宮だっただけのことはあり、調度品や建物の装飾は素晴らしく従業員たちの躾もゆき届いていた。
オリバーのうしろをついて歩きながらキョロキョロと周りばかり見ていた。
美しい庭園には噴水が湧き、睡蓮の葉の上には美しい蝶々が舞い踊っている。
色とりどりの花が咲き乱れ木漏れ日があちこちに居心地のよさそうな日だまりをつくっていた。
外廊下を抜け建物の裏手に回るとウィンター公爵が教えてくれたデイジーの花畑が目の前に広がっていた。
そこだけまるで別世界のような空間が形成されていた。
「母屋の真正面の建物にノアと住むといい。おれもリード家が差し押さえになってからレオの居たこの一角に住まわせてもらっている。どの部屋を使ってもいいぞ。普通は2階のど真ん中の部屋に住むものらしい。おれはいつもここに居るとは限らない。必要があれば戻ってくる」
「あの……クロエたちは……」
「ここにはいない。イングランド内にはいるみたいだが……。一ヶ月前からずっと打診がきているが、返事はまだしていない。子供も一緒らしい……女の子みたいだ……」
クロエに女の子が!
ダニエルの子供だろう。
連れてきているのか。
だとしたらダニエルもいるのだろうか。
彼はとてもやっかいだ。
どう切り抜けたらいいのだろう。
オリバーの説明を聞きながら当初の目的を思い出し、だんだんと気が重くなってきた。
◇ ◇ ◇ ◇
2階に荷物を運び込みノアと2人で出されたハーブティを飲んでいた。
ノアには甘い砂糖をたっぷりと入れてあげた。
貴重な砂糖はめったに口にできない。
ノアがもっともっととおかわりをせがんだ。
――トントン!
顔をあげるとドアのところにオリバーが立っていた。
上着を脱いでシャツ1枚だ。
あけ放した胸元がまぶしい。
3年前よりたくましくなっている。
ずいぶんと解放的な様子だ。
「坊主、ハーブティは気に入ったか?」
「ノアだ!」
「……ノア、そんなに飲むと夜がたいへんだからその辺でやめておけ! エマはぜんそくのために飲んでいるんだからな」
「オリバー、あの……わたしぜんそくは、お蔭さまですっかり治りました」
「そうなのか? それにしては痩せているじゃないか?」
「これは単に、やつれているだけで……」
「だったらあとで本物の紅茶をいれてやろう!」
「本物の? 紅茶というのは貴族たちに流行している飲み物のことですか?」
「ああ、だが、あれらは実はウーロン茶という中国茶だ。おれがインドから直輸入しているのは本当の紅茶だ。街のコーヒー・ハウスで出すコーヒーよりずっとイングランド人の舌に合う飲み物だぞ。これからは皆が本物の紅茶を飲む時代が必ずやってくる! 砂糖をたっぷり入れて甘くして飲むんだ。砂糖は南米の植民地からたくさん輸入している。ノア、だから砂糖はいっぱい使っていいんだぞ!」
「うん! ありがと、オリバー!」
「オリバーか……はは……」
「オリバー……ノアを甘やかさないで。砂糖は虫歯の元だと聞くわ」
「たまにはいいだろ? ノアもエマもやせっぽちなんだから! ここにはおいしい料理がたくさんあるぞ! いっぱい食べて太ろうぜ!」
「うん!」
「ノア、こっちにこい! 馬を見せてやる!」
「パカパカ! ワーイ!」
「馬を? 馬がいるんですか?」
「隣りに馬術場がある。行ってみるか?」
「うん!」
「……ノア、連れていってもらいなさい」
「エマも来いよ! 乗馬が好きだったろう?」
「えっ……?」
オリバーはいきなり近づくとわたしの手を取り、部屋の外へと連れ出した。
ノアが変な顔をしながらわたしとオリバーを見ている。
母親の手をとる男性なんていままでいなかったから、いぶかしんでいるのだろう。
わたしも3年ぶりのオリバーとの接触に驚いていた。
胸の動悸がおさまらない。
またぜんそくがぶり返しそうだ。
彼を信じていいのだろうか。
わたしのしたことを許してもらえるのならば、今後オリバーには絶対に迷惑をかけないように生きていかなければならない。
それが偽りの花嫁を演じたわたしの、彼への償いだ。
◇ ◇ ◇ ◇
――パカッパカッパカッパカッ! パカッパカッパカッパカッ!
「わあー! パカパカー!」
「あれは馬だ、ノア! 言ってみろ」
「おうまー!」
「そうだ、わかってんじゃないか!」
オリバーに肩車をしてもらいながら、首をまわして馬術場のあちこちを見まわすノア。
はたから見ると、まるで普通の親子だ。
2人の姿を見つめながら、あふれる涙をとめられなかった。
下を向きハンカチで目尻を押さえていると、目の前に影が差した。
首を上げ、思わず悲鳴が漏れそうになった。
「クロエ……!」
クロエが馬に乗りこちらを見下ろしていた。