激動の始まり
俺が生まれ育った村には、いくつか変わった決まり事があった。
その一つが成人になると警笛を持ち歩くことだ。
成人を迎えると親から子へ、手作りの笛が与えられる。
笛の大きさは小指くらいなので、首からさげて肌身離さず持ち歩くのが一般的だ。
警笛を鳴らすのは余程のことで、生涯で一度も笛を吹かないことは当たり前。その音色を参考時以外で、本当の意味で聞かずに一生を終えることだってよくあることだ。
その笛の音が今、村中に響き渡った。
時刻は夕方。
冬が近い最近では既に日は暮れかけており、子供達は帰宅済みの時間帯だ。
自室で勉強をしていた俺は慌てて窓辺に走り寄った。
我が家は村の北東に位置しており、自室の窓は南を向いている。
村全体とはいえないが、ある程度は見渡すことが可能だった。
数件の家々から男たちが南へと走っていく姿が見えた。
ここからでは事件らしきものは何も見えないし、何かが起きたのは村の南側ってことか。
警笛が鳴らされるほどのことなんて、いったい何があったんだ。
考えている間にも、警笛音は更に二度三度と聞こえてくる。
俺は愛剣を引っ掴むと階下にいる母さんのもとへと走った。
父さんはまだ帰ってこない。もしかしたら警笛を鳴らすことになった原因の所に向かってる可能性もある。俺が母さんを守らないと。
鼓動が早まり、権を握る手に不必要なくらいの力がこもる。
守れるだろうか。俺が。たった一人で。
狩りには何度も行っているが、それとこれとは別物だろう。
剣術の腕はまだまだ未熟だ。稽古以外で剣を振るったこともない。
クソが。考えれば考えるほど不安要素しか浮かんでこないじゃないか。
俺はもつれそうになる足を叱咤しつつ母さんの姿を探した。
「母さん!」
台所から出てきた母さんを見つけた。
「クルルガ! 良かった。今、迎えに行こうとしてたのよ。ああ、剣を持ってきたのね。偉いわ。でも手に持ったままではいけないわね。剣帯は……あるわね。急いで付けなさい」
口を挟む間も無かった。
母さんに言われるままに剣を腰に下げていると、何やら左肩から右腰にかけて布を括り付けられた。
「これは?」
「非常食とか色々ね。さぁ、出来たわ。動き辛くはない? 剣は抜ける?」
体をひねったり、剣を少し引き抜いてみる。何の問題もなさそうだ。
「うん。大丈夫」
母さんは一瞬だけ微笑んだが、すぐに真剣な表情になって俺の背中を玄関へと押していった。
「母さん?」
「よーく聞いて。裏口を出たら花畑を抜けて岩山まで向かい、そこで身を隠しておくこと。明日の正午を過ぎても迎えが来ない場合のみ……そこからは自分で考えて動きなさい。くれぐれも慎重に、よ。出来るわね?」
「え? いや、でも、それだと母さんは?」
俺は足を止めて振り返った。
花畑は我が家より更に北にあり、岩山は花畑を抜けた先にある。
岩山には細道や小さな洞穴が点在しているので、確かに子供が隠れるには打ってつけの場所といえよう。しかし、女性とはいえ大人である母さんでは、隠れる場所がほとんどない。
見上げた母さんは眉尻を下げて微笑していた。
「母さんは薬草を持って集会所に向かいます。父さんたちの援護をするのが、母さんたちの役目だからね」
「だったら俺も一緒に……!」
「足手纏いです」
驚くほどバッサリと切り捨てられた。
「せめてミレミアちゃんのお父さんに一発いれれるくらいじゃないと」
「ししょうに、いっぱつ……」
いやいや、ハードル高すぎぃ!
警笛が危険なのは理解してたつもりだけど、師匠に一発が前線参加の最低条件ってどんだけ。それってもう超獰猛な魔獣が襲来してきてる度合じゃないのか。
んん? まさか本当に魔獣が来ちゃってたりしないよな。
思わぬ条件に、一周回って頭が通常運転に切り替わった。
無意識に握りしめていた拳をゆっくりと広げてやる。
魔獣がいるにしろいないにしろ、緊張していることにすら気付かないのでは、確かに足手纏いにしかなりそうにない。
ヘタレですわー。とんだチキン野郎ですわー。
前世を含めて、こんな緊急事態に陥った事がないから仕方がないかもしれないが、紛うことなく役立たずっすわー。
でも、だからと言って、はいそうですかと逃げれるかは別問題なわけで。
俺は緩めていた拳を再び強く握り締める。
心底、悔しかった。
「さぁ、急いで」
再び母さんに背中を押されれば、駄々を捏ねることもできない。俺はぎこちなく玄関へと向かっていった。
外に出ると、村の様子が豹変していた。
男たちの野太い咆哮や怒声。絹を割いたような悲鳴。子供の鳴き声。物が壊れる音。そして何より、微かに聞こえてくる、あの音。
これは、この音は、間違いなく剣と剣を交えた時の音だ。
何で。そんな。まさか。人が攻めて来たっていうのか。
全身から血の気が引いていった。
腰元にある愛剣がやけに重たく感じられる。
俺はここにきて漸く、正しく認識したのだ。
剣が人を傷付ける道具であることを。
どれだけ剣術を学んでいても、俺には覚悟など微塵もなかったということを。
ああ、なんて情けないんだろう。さっきからずっと情けないままだ。
こうも連続で自分のダメなところを突き付けられるなんて。
硬直する俺を叱咤してくれたのは、やはり母さんだった。
「クルルガ。落ち着いて。大丈夫よ。今は逃げることだけ考えなさい」
逃げる。そうだ。逃げないと。母さんと一緒に。違う。一人だ。俺は一人で逃げるんだ。何処に逃げよう。安全な場所。隠れられる場所……岩山だ。うん。花畑を抜けて岩山に向かうんだった。
大丈夫。せめてこれ以上、無様にはなりたくない。
一人で、ちゃんと花畑に……
本当に一人で良いのだろうか。
ふと、何かを忘れている気がして、俺は後ろを振り返った。
焦った様子の母さんが見える。
その後ろには今し方、出てきたばかりの玄関。
そして玄関の目立つ場所には、秋の花が活けられた花瓶が一つ。
不意に二つの光景が脳裏を過ぎった。
八歳の春。花畑で黄色い花を探していたら、金の頭を発見した。
今年の夏。その場のノリだけで指切りを交わした。
「ミレニア」
自分と同じく平和な世界で生きてきた記憶を持つあの子。
怯えてるのではないか。泣いているのではないか。
冷静な判断など、きっと出来ていないだろう。
放っておいて良いのか。
答えは、否しかないだろう!
年下の男の子も、同じ年の女の子も、どっちも保護対象です。
だって俺は元大人で、今は一丁前を気取っている男子なのだから。
ヘタれている場合などではない。
やってやんよ。
俺は決意を固めた。