第6話 休日
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暖かいと言える季節はとうに終わって、今は暑いと言える。この世界が異世界だと改めて思う。春、夏、雨季、秋、冬と季節は分かれているが、日本ほど四季がはっきりしているわけではない。暦も似ているが、同じではない。いやまあ、1年は12ヶ月間で、1ヶ月は30日だが。3月から6月までが春。7月から8月が夏。9月が雨季。10月から12月が秋。1月から3月が冬といった感じだ。9月の雨季は雨が降らない日が2,3日くらいしかなく、まばらに雨が降ったり、大量に雨が降ったりと自然らしく予測はしにくい。夏の最高気温は28度くらいで平均気温は25度程度と日本よりも過ごしやすい。冬も同じく日本よりは過ごしやすい、マイナス10度を下回る事はない。ちなみに気温計は車のタコメーターみたいなやつ。頂点が0度で、左がマイナスで右がプラスだ。現在の気温計は23度。部屋の中にいれば丁度良い気温だ。ただし、日本で育った俺は丁度良い気温と感じるだけで、他の人間はとても暑そうにしている。俺としては年間通して寒い時期が長いと感じるくらいだ。今は夏だが、日によっては肌寒いしな。
しかし、もう7月か。こちらは8月にお盆休みが無い代わりに、冬の季節に長い休みがある。
ロッタが始めて俺の部屋で夕食を食べてからというもの、ついに難攻不落のお真面目軍人ロッタが週末だけだが、俺のところで夕食を取るようになった。何やら心境の変化でもあったようだ。
エイラはまばらだ。レベッカは気分で飯を食べにくる。フランは基本的に俺の部屋に住みていたが、ロッタとエイラに自分の部屋でも生活できるんだから、ちゃんとしろと怒られたので、週の半分は自分の部屋にいる。エドは、基本的に付かず離れずの距離感なので、仕事以外で俺の部屋に来るとしたら、休日に遊びに来るくらいだ。エドの良いところは、俺が休日に朝から起きているはずがないと承知しており、昼過ぎに来るところなのだ。そして、休日にも関わらず服装が軍服ならば軍施設内で遊ぶ。私服などの軽装だったら軍施設外で遊ぶと暗黙の了解がある。まあ、私服といってもエドの場合は冒険者時代の服装なのだが。帝都で遊ぶならそれで充分だしな。
俺も帝都で遊ぶ時はシャツとズボンだし。俺からすれば学生みたいな服装だと思うが、この格好は一般的な平民の格好らしい。パーカーとかワンピースだとかファッション性の高い衣服は貴族の普段着だとか。衣服についても謎の発展している。ファッション雑誌まであるからなぁ。本当に、戦い方に関しては紀元前の戦法とかが主流なのに、こういった日常生活に関わってくる文化は異常に発展しているんだよなぁ。
そして、さながら女子高生的な白いシャツと紺色のプリーツスカートの組み合わせを着こなしている……スポーツ少女にも見える赤みのかかったショートカットヘアーが普段とは違う(軍服だったら精悍な印象というか、勇ましい印象)、清潔感があり凛とした印象になっていた。
……模範的な優等生。校則をきっちりと守った女子高生か中学生にも見えるね。スカートは膝上、シャツはボタンを綺麗に全部とめていて、全体的に真新しい感じだ。可愛らしいネクタイまでしているし。
はてさて。ロッタの私服を始めてみた感想を本人に伝える前に、これは言っておこう。
「休日の朝の7時に何の用?」
普段なら寝ている時間だし、休日なら尚更だ。
「見れば分かるだろう」
「私服はかなり似合っているけど、休日で、朝の7時に叩き起こされる身にもなって欲しいね」
喜んでいるのか、怒っているのか。器用にも喜びながら怒るという顔芸を見ながら、理解する。どうやら俺は起きないとダメらしい。
仁王立ちのロッタをどうにかするにも、まずは……着替えるか。
「ちょっ、馬鹿か! 私がいるぞ?!」
この程度、気にするようなロッタでは無かったはずだが。一度部屋の外へ退却したロッタを待たすとどうせ怒鳴ってくるので、さっさと着替えよう。
やれやれ。どうやら今日は長くなりそうだ。
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スゥーハァ~ッ。大きく心の中で深呼吸。馬鹿の上半身裸を見ることはあるにはあったが、以前は視線を外していたし、意識しないようにしていた。しかし、現在はしっかりと目に、脳裏に、焼き付く。
ほとんど部屋を出ないにも関わらず、余計な肉がない。むしろ、引き締まっているくらいだ。顔と相俟って妙な色気がある。
「それで? 要件を聞いていないけど?」
着替えも終わり、身支度を整えた馬鹿は一般的な平民の格好に、この暑苦しい季節なのにシャツの上に薄地の外套を重ねていた。
……冒険者がよく着ている外套だ。それにしては、随分と丈長に見える。膝辺りまで服が伸びているのだが、どうせその服を隠れ蓑にして何かしら道具が装備されているのだろう。私も最低限の武器と連絡用の魔法技術装置を身に付けているしな。
まあ、無粋にならないよう他人からは見えないようにしている。……逢引なのだからな!
「休日だからな。どうせ引き篭ってばかりの馬鹿をたまには外に連れだそう、と思ってな」
どうにも、私はダメだな。素直に逢引の誘いだと言えない。
「それは有難い提案だけど、早すぎるよ。朝食も食べていない」
「これから食べに行けば良い。用意は済んでいるな? よし、出かけるぞ」
半ば強引に、恥ずかしさを隠すためなのか、この馬鹿……アケミの手を取って引き連れて行く。
「なんだか久しぶりに時計塔を近場で見た気がするよ」
アリイ帝都にある有名な巨大建造物と言えば、アリイ時計塔が真っ先に思い当たる。その時計は、7時30分を私達に知らせていた。
帝都中央にある帝城から馬車で20分ほど移動すれば、この時計塔がある広場に到着できるのだ。当然、帝城からこの時計塔は見える。それほど、近い距離にある。そして、時計塔正面には人気の飲食店があり、そこで朝食を取るのが、第二目標だ。第一目標は、休日の早朝にアケミに奇襲をかける、だ。
「流石に人気の店だな。この時間でそれなりに賑わっているじゃないか……」
あと数十分も遅れていたら、満席だったかもしれない。時計塔と広場を見渡せる1番人気のテラス席に座れたのは私の行動が迅速だったので、当然の結果だ。
「うーん。たまにはこうして外に出て食事を取るのも悪くないね。日除けのおかげで、外にいても暑くもなければ、気温のおかげで寒くもない。紅茶も食事も美味い。その上……」
ん? 馬鹿が珍しく言い淀んでいるな。
「その上なんだ? 何か文句か?」
「いや、まあ……。その上、客観的に見れば男性の目を惹きつける女性と一緒にいるので、さぞ羨ましがられるだろうね、と」
――やけに今日は暑いな。特に顔が暑い。日陰だろうが、暑いものは暑い。容姿を褒められたことなど記憶にないような気がするし、今のも気のせいで、聞かなかったことにしよう。
「ゴホンッ。ま、ここは美味い食事を出すのと、立地条件がいいからな。若者から年寄りまで多くの人に人気がある」
「……それはそうだが、ここは冒険者時代に――」
頼んでもいないデザートが出てきた。事と場合によってはアケミと私の会話を止めた事実に対して、謝罪を要求することになるぞ。が、そのデザートを持ってきたのは、恰幅の良い、明らかに私達より歳上な女性だ。それに、この店で1番高価なデザートであった。
「――お客様、ご歓談を邪魔した非礼をお詫びしますわ。こちらの品はそのお詫びとしてください」
会話を遮ったお詫びだとすれば高価過ぎるが、どうにもこの場合の意味合いとして……。知り合いだろうか。
「やっぱり、アケミじゃないか。久し振りだねぇ。なんだい? 彼女ができてウチの店に来たのかい? ハハハッ。いや、ごめんねぇ。あたしゃ、この店の店長ゼスさ。店の奥からどうにも見たことのある顔が、とんでもない美人を連れて来たってんで、野次馬根性でわざわざ来たんだよ。いやぁ、アケミのこと頼んだよ? 冒険者の時からこの子は危なかっしくてねぇ、だいたい――」
凄い勢いで次々と、喋る。すでにゼスさんの中で私はどうやらアケミの彼女になっているらしい。まあ、それを嫌だとは思わないし、むしろ嬉しく感じてしまうのだが。少しはこちらが口を挟めるようにして欲しい。
「――ゼス。そろそろこちらにも話をさせてくれ。相変わらず、お喋り好きなのはいいが、せっかくの紅茶が冷める。あと、デザートは有り難く食べるぞ」
アケミがお喋り好きなゼスさんを止めたが、まず最初に食べ物のこと? 私が彼女であることを否定しないことを、喜ぶのにはまだ早いだろう。私の自惚れになりかねない。
「奢りだよ。好きにしな。しかしまあ、そっちの彼女の名前も聞いてなかったね」
「ロッタです。ゼス店長、不承不承ですが、今後もアケミをよろしくしてください。デザートは頂きます」
「ロッタちゃんね。さて、お邪魔虫は立ち去るとしようか」
嵐のような人だなぁ。アケミの知り合いには癖のある人物が多いが、この人も同じか。言いたいことだけ言って立ち去ってしまった。それにしても、その身のこなしは容姿に似合わず機敏で、隙が無い。デザートを持ってきた時も、ほとんど気配を感じさせなかった。
「ゼスさんは何者なんだ? ただの店長という訳では無いのだろ?」
「現役の冒険者だよ。ゼスが冒険者を引退したと聞いてないし、生涯現役でやると言ってたしね。まあ、普通の冒険者じゃない、食材専門の冒険者さ。この蜜熊の蜜を使ったデザートだって高価だけど普通の店じゃまず出せない」
「驚いた。高価なデザートとは知ってたが、蜜熊の蜜が使われているとは……」
蜜熊は知性が高く凶暴な熊で、軍の魔物討伐でも新人達が手を焼くほどの魔物だ。その蜜熊の蜜を使ったデザートを一口食べる。
「――独特の甘みだな」
瞬間的な味は、蜜の甘み。その後に果実の甘みが感じられて、旨味が徐々に舌を侵食していく。今まで食べてきたデザートの中では1番美味しい。
「ああ、待った。紅茶を飲む前に二口目を食べたほうが良いよ」
アケミが勿体無い事をしてはダメだという口調で私を止めた。
「――!」
二口目。さっぱりとした味に変化していた。柑橘系の果実を食べた後味に近い。そして、また甘みが襲ってくる。気が付くと、三口目。何とも言えない芳醇な香りが鼻孔を刺激する。様々な果実の香りと、濃厚な味が広がる。
あっという間に、完食した。これは、魔性の高いデザートだ。
「こればっかりは、ゼスの腕だね。レシピは謎だし、作ろうにもどんな食材を集めればいいのか。はっきり分かっているのは、蜜熊の蜜くらいだ」
アケミも完食していた。このデザートを食べた後の紅茶は格段に美味しく感じた。得も言われない幸福感だ。アケミの言った通り、美味しい紅茶と食事……それに意中の人との食事は普段の何倍もの幸福感を得られる。
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人の行動原理には、多かれ少なかれ欲望が含まれている。商店街というか、商店通りには店を構えているところもあれば、出店していたり、はたまたフリーマーケット的に個人で屋台を引っ張り出してきている者までおり、商人達の逞しさを実感すると同時に、利益を出したいという欲望を感じる。そんな商人達には悪いが、冷やかし……ウィンドウショッピングをしているわけだ。こちらの欲望は購入までには至らないが逸品があれば買ってやっても良いと偉ぶった考え方をしてしまうのだ。
ロッタは俺の左手側……かなり近い距離感だ。まあ、邪魔ではないがレベッカみたいに軽々と腕を組んでくるような真似はしてこない。というか、するわけがない。恋人、あるいは恋人未満友達以上であり、互いの気持ちは理解しているが、あと一歩が踏み出せない男女仲ならば、どちらかが勇気を出して手を繋ぐくらいはするだろうが、今日は惰眠を貪る予定だった俺をロッタが強制的に連れ出した、いわば引きこもり症候群を治療するための行動なのだろう。この場合に考えられる行動原理の欲望は、はっきりと分かる。普段からしっかりとしろ、だ。口でいくら言っても聞かないから、こうして行動を起こして習慣から変えていくことにより、日常レベルでの変化を期待しているのだ。……と思う。
「幾らなんでも、魔法石が着いたアクセサリーで、この値段はボッタクリじゃないか?」
「いえいえ、旦那。高級店のアクセサリーよりは安いでっせ? それに、こちとら冒険者を抱えていますし、オレっち自身も現役バリバリですぜ」
「魔法で見る限り、魔法石は本物だぞ」
ロッタが言うなら間違いない。それに冒険者を雇える、個人店を出せるとなると中堅クラスの冒険者なんだろう。冒険者といってもその数はかなりいるからなぁ。相手の様子だと顔見知りじゃないようだ。
「朱色の魔法石でこの大きさだと炎竜か、大炎蛇から取ったのか?」
「よくご存知で。大炎蛇の加護付きでっせ?」
加護付きというのは、炎耐性があるということで、加護そのものの意味ではない。魔法技術でアクセサリー加工しているから、炎の魔法攻撃を軽減してくれるものに違いはないが。装飾品というより、俺の感覚だと装備品だ。そして、値段を感覚的に言えば質の良いシルバーアクセサリーよりも高く、婚約指輪並の値段に感じる。
だが、この値段の物でもぽんっと買えるのが、冒険者の怖いところだ。この世界の一般的な平民ではまずこの値段は購入を考えない。
当たり障り無く必要ないと言って別のところを回ることにした。
「それにしても、賑わっているし買い手も、売り手も表情が良い」
「戦争が終わったからな。おっ、あれなんてどうだ? 可愛くないか?」
意外にも、と口にすれば確実に、手が飛んでくるだろうから言わないが、ロッタは意外にも可愛い物が好きらしい。ロッタの部屋というか、軍女子寮は男子禁制だからな。しかし、ぬいぐるみかぁ。部屋に飾るのだろうか。それとも一緒に寝るのだろうか。
「欲しいなら買っても良い。普段からお世話になっているんでね」
「ハッ、こんな安いもので普段のお世話を返そうとは……」
チッ。少し甲斐性を見せたところで評価は変わらないか。どうせならしばらく怒られないくらいのプレゼントで当面の間のダラけた生活を買うか?
チャンスがあれば、引くくらいの物を買ってプレゼントしてみよう。それで、ダラケられる生活が1週間続けば儲け物だろう。
「次はどこへ連れて行ってもらえるのかな、ロッタ姫?」
嫌がらせに姫と呼んだ。しかし、これがデートだったら完全に尻に敷かれる男の図だな。どこへ行くか、何をするかは全部ロッタ任せ。というか、行動計画があるみたいだ。
「この先に国立公園がある。そこで、昼食を買って食べる」
嫌がらせは無視された。しかしまあ、随分と……リア充デートに思えるプランだ。10分ほど歩くと公園の入り口に辿り着いた。
「家族連れが多いな。それに恋人同士に思える男女もかなりいる。良い傾向じゃないか。どこもかしくも人手不足で頭を悩ませる事が無くなるのも近いな」
「10年は早い話だな。こ、子供は沢山欲しいと思うか?」
「いれば楽しいだろうね。その分苦労は多いだろうけど」
この公園にいるのはほとんどが、平民なんだろうけど、その平民でさえ一夫多妻の家族連れだ。あっちは10人家族か? なかなか頑張るな。いろんな意味で。
しかし、平民の男性の場合、4人まで妻を娶る事ができるが、貴族は2人以上娶っても良いとされている。貴族の方はいろいろと事情があるのだが、早い話、2人以上の妻を娶るならお前は力を蓄えて何かしようと企んでいるな、と言われても仕方ないよって事だ。だが、形式上平民よりも妻を娶ってもよろしいとしている辺り、妙なプライドなんだろうね。
一夫多妻制についてはこの世界の習慣であり文化なので、言うべきことは無い。郷に入れば郷に従えだ。
……いや、慢性的に人手不足というのは、重大な問題なのだが。その解決方法が、一夫多妻制なのだろう。そして、この一夫多妻制度はいずれ終わるだろうがね。
「その苦労は5人で分かち合える」
「平民の場合だと、夫1人に対して妻4人だね。随分と夫の苦労は大きいだろうね。それに無理して妻を増やすことも無いだろう」
「子供は5人は欲しいからなぁ。1人で5人も産むとなると大変だ」
「朝食を食べたところのゼスは1人で6人産んでるぞ? お腹大きなまま冒険者の仕事していた時もあった」
どこの世界でも、女性は強いと思う。
「それは、すごいな。素直に凄いと思う」
「英才教育だといって、赤子をクエストを成し遂げる為の現場に連れてきたこともあったな。最終的に1番暇そうな俺が仕事の最中に面倒見ることになってたが――」
赤ん坊の鳴き声は響く。それこそ、獲物はここにいますよって教えるくらいに。
「――で、まあゼスの子供の鳴き声で集まってきた魔物を、返り討ちにして解体して保存食を集める手間が省けたとか言ってな。流石に呆れて物を言えなかった」
ゼスの逸話を話しながら、公園のベンチでのんびりと過ごす。ロッタはゼスの話を興味深く聞いていたし、ところどこで、感心していた。
「しかし、冒険者の女性というのはゼスさんみたいな豪傑ばかりなのか?」
「いや、ゼスは特別だろう。ゼスが旦那さんと出会ったのは――」
ゼスと旦那の馴れ初め話を聞きたいとロッタが言うので、話した。掻い摘んで言えばゼスの一目惚れで、しょっちゅう一緒に行動するよう仕向けた。同じ冒険者であった旦那をしきりに誘って2人組でクエストをこなしていった。
「――男女同士の冒険者は割りと多い。だが、よほどの顔見知り同士じゃない限り長期的なクエストでパーティーを作る時は同性同士が多い。痴情のもつれで、パーティー内に亀裂ができてクエスト失敗しましたじゃ、完全に赤字だし、今後冒険者として仕事がやり辛くなるからね。それで、冒険者ってのはクエストの内容次第じゃ命に関わってくる。付き合ってもいないのに、2人組を組みたいっていうのは、冒険者同士の間では、相手に気があると伝えているようなもので、徐々にゼスと旦那さん2人組の外堀は埋まっていったのさ」
ゼスは生涯現役を宣言しているが、旦那は結婚と共に冒険者をあっさりと引退していた。
「旦那が死んだら残された嫁さん達はどうなるんだ、って言って旦那を引退させた。ああ見えて愛情の深い人なんだよ」
「そう、ね。素敵な女性だと思う。旦那さんに手を出させる知恵と度胸は凄いわ」
男女で長い間一緒に過ごせば間違いの1つや2つは起きる。いや、それを起こさせるように仕向けたのはゼスなのだが。酔わせて1つの部屋の宿に泊まって刺激的な服装でいたらやっと手を出してきたとか言ってたのをそのまま伝えたのだが、本人の許可はいらないだろうな。ゼスと同世代の冒険者の間でも有名らしいし、俺は聞いてもいないのにゼスが勝手に語っていた。
「少し歩きましょう。日も傾いてきて、暑くないしな」
◆
時計塔を見ると、5時19分。この時期だとまだ明るいが、徐々に人の姿は酒場に消えていくように見える。
公園を散歩して、再び商店を冷やかして、本屋によったり、高級装飾店――何やら私の見ていない隙に何かをしていたらしいが、私は花を摘みに行っていたので聞くに聞けなかった――によったりしてたらあっという間に時間が過ぎ去っていた。どうにも、楽しい時間というのは早く経過してしまうらしい。
何より、今では……普段から学者のような喋り方のアケミが、普段とは違ってより本来の喋り方をしているようで、他人には見せない一面を私だけに見せているような感覚的に陥ったのだ。
……荒くれ者が多い冒険者に向けた、アケミの冒険者時代の口調なのだろうか。
「なに、ニヤケてんの?」
「別に。アケミは相変わらず、口が悪いと思っただけだ」
「普段から気を使った喋り方をしていないからなぁ。口は災いの元とも言うし、気をつけるとしよう」
「好きにしろ。どうせ言っても聞かないだろう?」
「聞いてるよ。聞いてる。だけど、聞かない」
どういう意味だ。何か考えがあってそうしていると思うが。
「つまり、印象操作だ。第一印象を最悪、最低な人間だ、と思わせれば、その後ちょっと良いことしただけでもこの人は本当は良い人なんだって、思わせることができる。俺の場合、普段から怠け者で怠けまくっていれば、ちょっと働いただけで、凄く働いたと思わせることができるわけだよ。それが、例え他の人間の仕事以下の仕事をしたとしても、好印象を与えられるということさ。今日は真面目に働いているな、とね」
そうかそうか。それは良い事を聞いた。普通なら絶対に話さないような内容も話すか。それは、つまりだ。なんだ、私が聞き上手ということか。……そうじゃないだろう。信頼を得ているか、好感があるから話してくれたと思っても良いはずだ。
「とまあ、今日の俺はロッタに失言するくらい口が滑る。まさに、口は災いの元だな」
「ハッ。馬鹿め。次からは容赦しないからな。その口は良い事を失言してくれた」
今日の俺は、とはどういう意味を持つのだろう。いちいち、発言に対して疑問や想像を働かせてしまうのは、アケミの教えのせいだ。
ほんの少しの不注意。手が握られて、引き寄せられた。
――抱きしめられている……!!
「そして、今日のロッタは注意力が散漫だな。荷馬車から飛び出ている荷物に当たるとこだったぞ」
荷馬車から荷物が飛び出るほど積むなと、普段なら文句の1つは言うだろうが。今だけは感謝しても良い。
「どうした? ぼうっとしてるけど、この後は帰るか?」
抱擁は終わったが、手はしっかりと繋がっていて離れない。これはチャンスだ。絶対に逃がすな。いや、離すな。
「つ、次は少しばかり高級な食堂に行くぞ」
握った手を引っ張る形で、歩く。数分で到着できるところを数十分引き伸ばした。遅滞行動は取得済みだ。
「完全個室か。別に安いところでも良かったけどね」
そう個室だ。完全に、個室。私的な空間に2人きりだ。いや、用意された私的空間だが。この際どうでもよい。重要なのは、個室に2人という事実のみ。勝つための戦略とは勝負が始まる前から優位に立つことであり、主導権を握ることである。
「なに、ここならある程度の機密でも話せるからな。口の滑りやすい少将が何を言うかわからん」
「それはお心遣いをさせまして」
なんとか正当化ができた。適当に飲み物と食べ物を注文して、ようやく邪魔者が来ない状況を作り出せた。
「ロッタが酒? 珍しいね」
「そっちこそ酒じゃないか」
注文した際に、互いにお酒を飲むことは承知なのだが。互いに何故か確認し合ってから乾杯をしてお酒を飲む。私はお酒にはそこそこ自信がある。ゼスさんの逸話にならっていけるところまで行こう。アケミは酒が強いのかどうかわからない。紅茶が好きとは知っているが。
「たまにはね。ロッタの酒に付き合うよ。嫌いじゃないが、そんなに強くはないんで楽しめる範囲でね」
朗報だと思いたいが。何故か、女性に対しての自制心は相当強いからなぁ。
「本来なら仕事を忘れて楽しもうと言うべきなのだろうが、普段から仕事の事を忘れている奴が丁度、目の前にいるので、今後について話そうか」
仕事を含めた今後の話だ。他意はないったらない。
「何を話すことがあるやら。新人のエイラは優秀で働き者だし、他のメンツは……フランはあの通りまだ幼い。とは言え、エルフ族の中でもやり手だって本人は言っている。そもそも、見た目は幼いけど、150歳だからなぁ。レベッカは20歳にもなってぶりっ子決め込んでるし、エドは相変わらず、乙女趣味を広げてアクセサリー作りにハマっているし。……真面目で働き者なロッタには苦労をかけているが、今更だな」
「別に最初からだ。軍人になると決めた時から苦労するとは思っていた。思っていた苦労とはかけ離れた苦労だがな」
私が面倒見てやらなきゃ誰が見るんだ。好きで面倒見ている。はっきりと、思える。始めは一目惚れだったが、今じゃはっきりと好意を寄せている。
ふと、アケミの顔が切り替わった。それが分かるほど私はアケミの顔を凝視していたらしい。
「近々緊急訓練が行われる、と思う」
「事前通達無しの緊急訓練を予測するか。面白いな。軍上層部が決定して好きに開始する緊急訓練が近々行われる理由は?」
年間通しても緊急訓練は行われる年と、行われない年があるくらいに不定期な訓練なのだが、それを予測できるのか?
「この数年は戦争が無くて軍全体が緩んでいる。軍内部もそれを承知している。特にこの3年間は結構な頻度で緊急訓練を行っている。どんな内容の緊急訓練かは分からないが、理由としては、やけに元帥が各部署に顔を出しているのと、それを隠れ蓑に軍上層部の人間がこういった個室で相談事をしているのが大きな理由だね」
「出処は?」
もちろん、その情報の出処はアケミの伝手なのだろう。
「帝国の市勢情報を定期的に手紙で寄越してくる心優しい人間がいるんでね。今じゃ、俺宛に届く応援の手紙やら愛好の手紙が良い隠れ蓑になっているが。まあ、それはそれだ。情報源については余り語れないが、信用できる人達からの手紙だ」
「時たまアケミ宛に来ていた手紙は、それだったのか。一度中身を読ませてもらったがアケミに対する文句か、今何やっているかの近況報告みたいな内容だったはずだが」
当然、アケミの許可を得て手紙を読んだ。その頃は、恋文でないかとヒヤヒヤしていたが。
「それは俺達同士でしか分からないよう暗号化してあるからね。文句の中にも物価が高いだの、軍人は暇そうで良いななどの情報が含まれていたはずだ。まあ、そのまま文句を書いている奴もいるけど」
アケミは……全ての行動に目的があって、あらゆるところに布石をおいているのか? まさか。そんな生き方、不自然だ。
「その、なんだ。アケミの行動には全て何らかの意味があって、いろいろな所に将来のために備えを作りながら生きているのか?」
「そんな器用な人間はいないよ。たまたま偶然が重なっているだけだ。そもそも、俺は軍人になるつもりなんて無かったしね。思わぬことが思わぬところで役に立っている、と言った方が正しい」
正直、ホッとした。どこか人間離れした生き方はしていない。気分を変えるためにも呑もう。
「大分飲んでるけど大丈夫か?」
「これくらい、普通だ」
色々と話したな。仕事の事が中心だったが、それなりに満足だ。今日の頂点は抱擁だ。それより上は無い。あるとしたらこの後、酔ったふりをしてこいつの部屋に行って手を出させる、だが。無理だな。これ以上酔ったら私の自制心が持たない。色々な意味で。
「もう9時だ。ああ、そうそう。軍の敷地に入る前に、これ贈り物。今日のお礼というか、日頃のお礼」
「?」
はて、なんだろう。
「――ッ」
指輪だ。それも、かなり高級な。あの時か。高級装飾店で、何やら私の見ていない隙に何かをしていたらしいが、花を摘みに行っていたので聞くに聞けなかった時に購入していたのか。
薄蒼の魔法石が埋め込まれた指輪。人体に深いダメージが与えられた時に回復魔法を放ち、一挙に全快するが、役割を終えた魔法石は砕ける。――この指輪に送る際に込められる意味は、壮健でいてください。親愛の意味もある。そして何よりも軍人にこの指輪を送るという意味を分かっているのか?
「遠慮せずに貰って良いよ」
「有り難く頂戴するが、軍人にこの指輪を送る意味分かっているのか?」
「店員は壮健と親愛の意味があるとか言ってたな。恥ずかしながら、健康でいてくれればいいかなぁと思っているが、軍人に送る場合、意味が変わるのか?」
「軍人が戦場から生きて帰って来れるよう願って送る。無事に帰ってきて欲しい、また無事に帰ってくるという願いを込めてこの指輪は購入される」
つまり、その身は1人の物ではない事を物語っている。早い話が、結婚を控えていると言う意味だ。もしくはこの指輪があるから僕、私は無事に帰ることを約束しますと言う意味もある。
「あー。それはつまり、あれだ。……俺の考えが間違えでなければ、婚約指輪か。いつ何時に戦死してしまうか分からない軍人に、この効力を持った指輪を送る、または購入するのは自分の身は自分自身1人の物ではない、愛すべき人がいると。いや……その、そんな意味で送ったつもりでは……」
「だろうな。……勘違いかぁ……」
それでも、ついつい声に出た。いや、まあ嬉しい。嬉しいが、思った以上にがっかりしている。
「なにか言ったか? しかし、効力は凄いが、死ぬほどのダメージ受けて全快するのは良いけど、これじゃ敵に囲まれた場所で、全快だ。生き残るには捕虜になる以外にないね」
「一言余計だ、馬鹿!」
腹がたったので、殴った。割りと強めに。そして、もう帰ろう。指輪を左手の薬指に嵌めた。他意はない。多少大きめの指輪が魔法により、私の指の大きさに合わせて変化した。これでピッタリだ。
左手の薬指につけた指輪を見せつけた。他意はない。
「どうだ? 似合うだろう?」
「ああ、まあ……。なんだ……その、常時装備品をそこに付けるのか?」
「どこにつけようと私の勝手だ」
軍の敷地内へ向けて歩く。私のイタズラっぽい顔を、苦笑しながら見ている馬鹿を引き連れて。
――。
――――。
◆
軍の敷地内に入って数分の所に、大きな広場……軍事訓練ができる演習場が広がっている。広さとしては、学校のグラウンド二面分くらいだろうか。そこを抜けた方が早く図書館にある俺の部屋に戻れる。何故かロッタの部屋は別方向なのに、ついてきている。ピッタリと。
酔っているのだろうか。酔っているんだろうな。普段では絶対に見られない顔を幾つか見せていたし。
――――――。
「何者だ!」
ロッタは、叫んだと同時に構えた。俺もほぼ同時に、外套の下に隠していた道具を手にしていた。
……嫌だねぇ。身体に染み付いた癖は。身の危険を頭ではなく身体が感じていたか。
相手は黒ずくめで、顔を覆面で隠している。距離は6~7メートルは離れているが、相手は目視で確認できる限り2人。武器は2人とも剣を構えている。それに体内の魔力が稼働しているので、魔法も使ってくるだろう。更に背丈が中途半端だ。服も体型が分からない物を着ている。
襲撃者は、多くの情報を隠さなくてはいけないらしい。それに、待ち伏せだ。
「1つ聞きたいことがある。ここは、軍の敷地内だ。関係者以外は立入禁止だ。見なかったことにするから、撤退する気はあるかい?」
「……」
完璧に無視。むしろ、攻撃してくる雰囲気だ。
「――!」
さて、魔法が来た。それも、詠唱を高速圧縮しているため声はやはり、男なのか、女なのか分からない。多くの情報をこちらに隠す事が、逆に多くの情報を予測することができる。
……軍敷地内は常時、魔法を相殺するための魔法技術装置が働いているはずだ。それが動いていないとなると、俺の予想はほぼ確実に外れていないことになる。
「分断狙いか! チッ」
ちょうど、俺とロッタの間に火球が飛んできた。これは左右に避けさせてロッタの言った通り戦力の分断を狙う為の攻撃だ。それに、炎で光源を得るための物だ。夜戦に慣れている。これまでの情報から相手はプロだと分かる。そして、大まかな狙いと目的は理解できた。
それをロッタに伝える暇は無いらしい。
「――、――。――!」
音の遮断……俺の中ではサイレント魔法としている、それも外部への音を遮断する物だ。それに、簡易結界か。ここまで来ると確信できる。現状は、相手の魔法で俺と相手の周りの空間が閉ざさている状態だ。決闘ができる……さながら、タイマン専用の閉鎖空間を魔法で作り上げたのだ。
「今年の緊急訓練は、個人の戦闘能力を試すものですか? それとも1人で危機的状況を乗り切る力を試す訓練ですか?」
「いつ気付いた?」
「始めから怪しいと思っていましたよ。軍の敷地内で待ち伏せですよ? 本来の賊ならむしろ、闇に紛れて奇襲でしょうし、そもそも軍の敷地内で事を起こすには危険が大きすぎます。その危険を犯してまで利益を求めるなら、王族か、私達よりも、もっと影響力のある人間を狙いますよ。そう思いませんか? 帝国近衛兵部隊所属、アニ部隊長?」
「……セラス姫様と、帝国元帥閣下が仰っていた通りの人物だな。顔を合わせたことも、言葉を交わしたことも無かったはずだが、どうして私の正体がわかった?」
――1つは、魔法の上手さと速さ。次に、使った魔法の練度。護衛対象である姫様を狙ってきた賊を分断して、自分の得意分野で戦える状況に閉じ込める。そして、各個撃破し、賊から姫様を守り切る。更に、時間稼ぎができ、万が一賊に倒された場合でも、最悪姫様を逃がせる。決定的な理由としては――。
「――――以上の点に加えて、決定的な理由としては私の提案を聞いた。普通の賊なら私の発言……見逃すから撤退する気はないか、と言う発言を最後まで律儀に聞かない。だけど、君達は聞いた。その上で無視して攻撃を仕掛けてきた。帝国軍人のお手本のような、魔法をね」
「……。緊急訓練だと分かっているならば、それでどうするつもりだ? 私は負けを認めない限りこの状況を維持するつもりだ。訓練とは言え、実践形式の緊急訓練だから手加減なしで、戦う。そして、少将殿は戦闘が不手だと知っている」
得手不得手を知られているらしい。むしろ有難い援護だね。相手は、自分が有利であると考えている。戦闘では負けないと自信もある。
緊急訓練とは言え、長々と俺の……敵である俺の話を聞くのが、俺の予測が正しいことを証明している。
こちらが劣勢で、あちらは優勢の場合、有効な手は妙計奇策の類だ。いやまあ、相手の意表を突くという策は多くの状況で有効だと思うが。
そして、確かに俺は戦闘能力は軍人として失格とはっきり言える。だが、戦えない訳ではない。冒険者時代と同じく、知恵と道具で戦う戦闘スタイルは今でも変わらない。
文字通り、手札を切っていくか。懐事情に大ダメージを受けるが、訓練ならば軍の費用で補えるだろう。たぶんな。そうじゃないと困るぞ。主に金銭的に。
「コレを知っているかな?」
取り出したのは、数枚の紙片。俺としては見た目は式札って感じだ。紙片には、魔法式が書かれていて、その法式内容通りの魔法がこの紙片に込められている。発動には魔力が必要だが、実際にこの法式内容の魔法を使うよりも遥かに少ない魔力で済む。
「術式紙片……か? 随分と珍しい物を……」
そう、術式紙片ですら珍しい。正確には魔術式紙片。しかし、今俺が持っているのは、魔法式紙片。一文字の違いだが、そこには大きな違いがある。そして、魔術式紙片も当然ながら所有している。
「だが、魔法師の対処には慣れている」
魔法師ねぇ。魔法使いとも言われるけど、俺は魔法師でも魔法使いでもない。そして、これで戦うぞと手札を馬鹿正直にみせる馬鹿は少ない。悲しいことに、少ないだけで存在はしているが。
……さて、やるか。体内の魔力をフル稼働させて一瞬の隙を狙う。相手は、術式紙片を使って魔法が来ると思っているのだ。
「……は?」
近接魔法戦闘に、正統派やら伝統派があるのだが、それを理解しようとは思わない。少なくとも、多くの魔法は飛んでくる物だという考えを基本として習う。
魔法に対処する場合、幾つかの方法に分かれるが、見栄えが良いのは剣に魔力を通して防ぐ、もしくは叩き落とす、だ。そして、返す刀で迎撃、応戦する戦法が見栄えが良いとされている。馬鹿らしいがね。
相手は、帝国近衛兵部隊のそれも部隊長だ。任務中ならともかく訓練となれば意識的にしろ、無意識的にしろ見栄えのことを考える。例え観客がいなくとも、だ。
法式、術式紙片を使う場合、魔力を込めて魔法を発動させる。当然紙片は手に持った状態でも魔法が発動して、任意の箇所に魔法を飛ばせるが、紙片に魔力を込めた後、紙片を投げ飛ばして魔法を発動させることもできる。この場合、紙片を任意の場所や空間に投げる為に魔力を使わなければ、紙を投げると同等に風に飛ばされたり、ヒラヒラと舞って自分の足元に落ちるなどの事故が起きるのだ。
で、俺がやったのは、体内の魔力をフル稼働させたが、紙片には魔力を込めずに紙片を空中にバラ撒き、瞬間的に身体中の運動機能の強化に魔力を使った。冒険者や軍人が1番始めに覚えなければ確実に苦労すると言われている身体強化の魔法だ。
俺の身体には魔力がほんの少しある。瞬間的な身体強化魔法を使っただけで、全体の6割近く体内の魔力を消費してしまった。
だが、相手は地面に倒れているし、俺は相手を地面に押さえ付けている。やったことは単純だ。意表を突いて、胴タックルから素早く寝技に持ち込んだ。事前情報として戦闘が不手。手札として魔法を使うぞと見せかけておいて、それら全てはブラフで近接戦闘術と言っていいのか分からんが、ともかく近接戦闘術で相手を文字通り地面に倒した。
相手も身体強化魔法を使っていたんだろう。この倒された程度の衝撃では肉体的ダメージは皆無と言って良い。
そして、押さえ込んでいる寝技は、柔道の寝技の1つ。袈裟固めだ。これも、互いに柔道着を着ていないので、袈裟固めだと言って良いのか分からんが。
「おい……馬鹿。なあ、おい!」
おや? ロッタ大佐ではないか、どうした? そんな鬼のような顔をして。アニの魔法効力が時間切れした訳じゃないだろうな。だとしたら、負けを認めて魔法を解いたのか?
どちらにしても、戦闘続行は不可能だろうし、そんな雰囲気でもない。
「私の、負けだ。一瞬、呆けたが、押さえこまれたと理解した瞬間に魔法は解いた。本来なら私の胴体は剣により真っ二つにされているだろうからな。もっとも、アケミ少将は剣を持っていないので結果として押さえこまれたのみで終わったが……。まあ、あまり良いタイミングじゃなかったようだが……」
どうにも、負けを認めて魔法を解いたみたいだ。それに習って俺も寝技を解いた。
「訓練とは言え、押し倒して抱きついて、何を考えている? なあ馬鹿?」
「いや、訓練だからこそ、押し倒して抱きついた。いてっ」
殴られた。無用の誤解である。
「その辺り、じっくりと話を聞こうじゃないか。無論、アケミの部屋でな」
ズルズルと、どこにそんな力があるのか。いや、鍛えているし身体強化魔法がある。軽々と俺の腕を引いて、ロッタは俺を連行していく。緊急訓練のことなど忘れて。今朝、どうやら今日は長くなりそうだという俺の考えは正しかった。ロッタは俺の苦笑を見ながら、怒りを込めた顔で、俺の部屋へ向けて歩く。