青天の霹靂
「そうか…。イブリースとヴァッサーゴが…」
十二もの漆黒の羽を持つ長髪の男は微笑んだ。
月明かりに照らされているかの如く白く輝く肌、唇は妖艶に照り弧を描いている。
切れ長の瞳は宙に浮く巨大な水晶に映る玲を愛おしげに見つめていた。
「送った天使が一人やられた、か…」
やってきた青い鳥の報告を受けた男は一人ごちた。
全身白で統一された衣は清涼感漂う佇まいである。白銀の髪はさらさらと風に遊ばせている。少し垂れ気味の目は優しさが溢れんばかりに滲み出ている。その顔はとても先の漆黒の者に似ていた。
やがて鳥を離し、持っていた本を滑らかに再度広げる。
その表情は不安に満ちていた。
「イブリース!ゴロゴロしてないで手伝ってよー!」
「我輩は疲れたのだ。少し休ませろ」
「まあまあ、玲。イブリース殿の分は小生がいたしますから」
「うん…。じゃあお願い」
只今、買い物から帰り部屋の整理整頓中。春先なので、やはり物は高かったが、何しろ二人の服が無いのは目立って目立って堪らない。
ということで、金も気にせず買い物した結果同行したイブリースにどっさりと荷物を持たせることになってしまった玲。
申し訳半分、自室をめちゃめちゃにされたお返しも兼ねてのことであった。
「はあー。やっと終わった」
「お茶でも淹れましょう」
「えーいいよ、別に。そんなことまで~!」
イブリースとヴァッサーゴの部屋の片付けもボチボチ終わった頃、玲とヴァッサーゴで謙遜しあっているとそこに今までゴロゴロしていたイブリースが顔を出した。
「茶ぐらい我輩が淹れる」
「え"。イブリースにそんなイメージ無いよ?」
「では頼みましょうか、玲」
「ぇええええ⁉」
キッチンに消えたイブリースを見届けると、急に玲はそわそわし始めた。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫です。彼はあんな強情そうに見えて偉大なるお方の付き人をしていましたからね」
「へえ~。あ、そういえばさ」
自己紹介といっても名前だけなんて何だかこっちが知る向こうの情報量が少ないのは、信用されてないように思えてならない。
玲はイブリースがいないうちにと、ヴァッサーゴを先程片付けた部屋に連れ込んだ。
「まだ貴方たちの素性も何も聞いてないよ、私。名前と悪魔だってことぐらいしか…」
ヴァッサーゴを見つめていた瞳は次第に下を向く。
彼女には小さい頃から親族は誰一人としていなかった。だから、町の小さな神社の住職さんに育ててもらっていた。
そのせいもあってか、玲は人をすぐに信じてしまう。それによって、相手に拒否されたり信用されてないと知ると尋常じゃない不安感が身を襲うのだ。
「…そうですね。では、こんな所ではなくイブリース殿と共に三人でお話致しましょう、玲?」
「…うん!」
「どこにおった、ヴァッサーゴ」
「まだ貴方様の部屋が少し片付いていなかったので」
「そうか。…ほれ、茶を淹れたぞ」
茶菓子まで…。
一体、この強情で傲慢で人間嫌いな彼がどうしたらここまで用意周到になれるのか興味が湧く。
玲は戸惑うことなくイブリースらに訊いた。
「貴方達のことも教えてよ。私のことは全部知ってるくせに、私だけ貴方達のこと知らないなんて卑怯よ」
「…だそうです」
「卑怯…か。聞き慣れすぎて最早痛くも痒くもないが…。これから守護せねばならん女郎にそんなことを言われるとは情けない。良いだろう、答えられることは全て答えよう」
まだ一緒に暮らし始めて三日と経っていないのに何だろう、この飼い慣らされてる感。
玲は心底不服そうに頬を膨らませたが、やがてヴァッサーゴに頬を突つかれ質疑応答に移った。
「年齢は?」
「知らん」
「人類の始まりから生きてますからね~」
「じゃあ誕生日は?」
「神に訊け」
「分かり兼ねます」
「…出身地?」
「天界だ」
「イスラエルです」
「じゃあ今までどこに?」
「地獄にいた」
「魔方陣に封印されていました」
「好きな食べ物!」
「「人間の魂/です」」
「そこだけハモんないでよ‼」
「じゃあ…妻とか?」
「我輩は取りあえずいる」
「独身です」
「ん~嫌いな食べ物?」
「特に無い」
「小生もです」
「親はどんな方?」
「神だ」
「イスラエル王に召喚されたので…取りあえず、王ですね」
「さっきの武器の説明して」
「聞くことないんだろ、実は」
「イブリース殿、痛いところを突いてはなりません」
いえ、実は5問目辺りから何訊こうか考えてました。
「我輩の武器はこの剣だ。名は無い。我が主から頂いた大切な代物。我輩なぞが名付けて良いものではない」
イブリースは側に置いていた剣を握る。その表情はとても寂寥感でいっぱいになっている。
「小生の武器はこの鞭、神鞭です。縛り上げるのはもちろんのこと、切ることもできますし、怪物の魔力も封じることが出来るんですよ」
武器の名前に神と付いている…。良いのだろうか。
少々疑問に思う玲であった。
「あ、そう。ねえ、その『けもの』?ってなに?」
「漢字で書けばこうだ」
〝怪物〟
「これじゃ、かいぶつって読むよ?」
「まあ、我ら悪魔にとっては怪物だな」
「天使のペットですからね。我々から見たらそれはもう汚らわしいことこの上ない」
「ふ、ふ~ん」
まあよく分からんが、それらが自分を狙っているのだろう。
玲の住む人間界の間では悪魔が悪くて天使が良い奴、というのがセオリーだ。だが、玲の目の前に急に現れて怪物から助けてくれた二人は悪魔であっても悪い奴のようには玲の目に映らなかった。
ー 地獄にて ー
「シトリー」
『いるよ、ルシファー』
この地獄を統べる王にして神よりも強大な力を持っているとされる、魔王ルシファー。
全身黒い衣で覆われているが、ゆるりとした着衣から出る脚や腕には均整のとれた筋肉が見え隠れし、とても官能的である。
そんなかの有名な魔王に直接名を呼ばれたにも関わらず、軽く二つ返事をするのは恋、愛情を司る12番目の王、シトリーである。
彼は若いながらにも70近くもの軍団を率いる偉大なる王である。その姿は、人型とはかけ離れ寧ろ獣である。
豹の体とグリフォン(鷹)の翼。とても神秘的なスタイルをしている。
ゆらりと陰から出てきたシトリーにルシファーは事を嘲笑うかのように命令した。
…
『本当に言ってるのかい?ルシファー。なんだか、専門外な注文を受けるのはとてもいい気持ちにはなれないんだけど…。まあいいさ』
「…頼んだぞ…」
『御意』
仕事から帰って来た玲は、いそいそとマンションのエレベーターを目指している。
玲は、高校卒業後に育ての親である住職を亡くし大学を途中退学。そのまま東京に残り、今まで続けていた給料の良いバイトの正社員となり生活している。
一人ではお金が有り余って仕方なかったが、逆に大の男が二人も増えると少し経済的に危険である。
なので、今まで地道に貯めていた貯金を掘り起こし、使っていた。
そんな慣れない三人分の家計や部屋の掃除、洗濯などの量が増えたのが災いしたのか、玲の頭の中はいつになく考え事でびっしりであった。
しかし、そんな玲は人に当たっても、大丈夫かと訊かれるまで何も気づかない。
「えっ、あ?ああ、だ、大丈夫、です!すいません…」
「クスッ…。こっちこそ、ごめんなさいね。…あら、ここ擦りむいてる」
「え、あ、ほんとだ…」
「私の家、すぐそこだからいらっしゃい。手当てしてあげるわ」
私もすぐそこなんです。
そう玲が言うよりも早く、美しい女性は玲の手を引き隣の家に入っていった。
「………………」イライライライラ
「…………」ぺらっ…
「………………」イライライライライライラ
「…………」…ぺら…
「………………」イライライライライライライライライラ
「…………」ぺ、ら…
「おい、ヴァッサーゴ‼」
「……なんです?」ぺらっ
「ぺらっじゃない、ぺらっじゃ!玲は何時に帰ると言った⁉」
「5時ぐらいと仰っていました」ぺら…
「…何故だ…」
「何がです…?」…ぺら…
「何故ヤツは1時間過ぎても帰って来ない⁉」
「貴方は彼女とのデートで、許せる遅刻範囲は1時間ですか。結構長いとは思いますが、その間に起こる貧乏揺すりは如何なものかと」
「そんなことは今はどうでもいいっ‼」
どう言っても話がイマイチ通じないヴァッサーゴを置いて、イブリースは立ち上がり玄関へと足早に向かう。
すると先程まで本とカップを片手に優雅に読書タイムを取っていたヴァッサーゴが、イブリースを突如神鞭で締めつけ動きを止めた。
「今行ってどうなさるのおつもりです、イブリース殿」
「…玲を救いに行くのだ。我々の仕事は玲を来るべき日まで守り抜くこと‼ルシファー様に傷一つ無い状態で玲を差し上げたいのだ‼私は‼」
「仕事…ですか。これは最早、仕事では済まされないかもしれませぬが」
先程までの冗談のオンパレードだったヴァッサーゴは消え失せ、今は一小国の王子らしい威厳と雄々しさを持ち合わせる顔をしている。
「…どういうことだ?」
「どうやら、私の探知では玲を連れ去ったのは悪魔…ですね」
「なに?それでは、ルシファー様直々の命を反逆する行為に価するではないか」
「ですがまだ相手は彼女に手を出していないようです。まだ様子を見るべきかと」
長い激突の末、まずは探知専門のヴァッサーゴに全て任せることになった。
イブリースは頑固だがこういうところでは物分かりも良いので、あえて何も言わずに従っている。
この後、予期せぬことが起こるとは誰も微塵も思わない。
ただ一人を除いて。