苗字
それがどう見てもちんちんの位置を直しているようにしか見えなかったので、僕は吹き出しそうになった。
弱いチーム程サインプレーなんかをするものだ――。
うちの監督がいつも言っている。そもそも兄の剛速球は、どんなサインを出したって打てるわけがない。なのに向こうの監督は先程から身を乗り出してしきりにちんちんサインを送っている。
銀淵眼鏡を掛けた小柄なバッターがそれに頷き、ごくんと唾を飲んでからマウンド上の兄を睨んだ。闘志ではない。あれは不幸を恨む目だ。九回裏ツーアウトで打順がまわってきたという不幸。
確か彼はここまで全打席三振だ。かすりもしていない。絶体絶命とはこのことを言うのだ。あと三球で試合は終わり、兄はマウンド上でガッツポーズを作り、ベンチにいる僕たち補欠は互いに握手をして、スタンドで観戦している冴島緑はあのふわっとした笑顔で世界を浮かせ、その瞬間うちの中学のベストエイト進出が決定する。それは、野球のルールを知らない人でも容易に予想できる結末だ。
吉田先輩はもちろんサインなど出さない。ストライクゾーンのど真ん中にミットを構えるだけだ。兄が振りかぶる。バッターの顔が微妙に震えながら紅潮する。煮立った鍋に放り込まれたツクネみたいだ。兄の右腕がしなる。白球に真夏の空気が斬られる。次の瞬間にはもう、ボールはホームベースの上を通過している。ツクネが慌ててバットを振る。バシッ。吉田先輩のミットが快い音を発する。
速い。それにしても兄の投げる球は速い。投げるたびに一瞬の静寂が球場を支配し、敵意も称賛もなく全員がただそのスピードに目を瞠る。その時、僕は何とも言えない優越感に浸りながら世界中の拡声器を集めて叫びたくなる。
あれは僕の兄だ。同じ家で暮らし、同じおかずでご飯を食べ、同じトイレに入っている僕の兄だぞ。凄いだろ。
そう。兄は凄いんだ。
真のヒーローなんだ。
そしていつも、僕を守ってくれるんだ。
母との約束を破った時など、僕を育てようともしてくれたんだ。
ホントさ。母の怒りが爆発して家に入れてもらえなかったあの日。忘れもしない。僕が三年生で、兄は五年生だった。
こんな家二度と帰るもんか。
そう息巻いて玄関を出たものの、家々から漂う夕食の匂いに僕たちの胃袋は容赦なく刺激された。宛てなどなかった。でも歩きまわって歩きまわって、街灯の下、二つの影が長く伸びて、よく見たら小さい方の影だけが唇を噛んでいるのが分かって、何だかもう全てがやり切れなくなってその場に塞ぎこんだ時、大きい方の影が僕の肩をポンと叩いてこう言ったんだ。
「心配するな。俺が何とかしてやる。夕飯も、寝るところも」
「でも兄ちゃん、このままずっと家に入れなかったら、僕たちどうなるの?」
「その時は……」
遠くで電車の音が聞こえた。
「その時は、俺が働く」
結局、PTA連絡網を駆使した母の作戦に引っ掛かり、僕たちの家出はたった二時間であえなく幕を閉じたのだが、あの日以来僕は心のどこかで兄と生きている。電車に乗って辿りついた見知らぬ街で、兄と二人だけで生きている。
そうなんだ。兄は僕を育てるために学年で一番の成績を取り、教師や不良たちを敬服させ、剛速球を投げ続けているのだ。
二球目もツクネのバットは空を斬った。ツーストライクノ―ボール。もう駄目だ。銀淵眼鏡がズレて斜めになっていることに気付きもしない。哀れなツクネ。吉田先輩が人差指を上げる。あと一球。
スタンドからもコールが聞こえる。あと一球。あと一球。
鰐みたいな顔の応援団長が叩く太鼓に合わせて、全員で兄のラストボールを待ち望む。そう言えばこの学校で兄の権威を最初に教えてくれたのは、あの応援団長だった。
それは入学式の直後。僕は小学校からの悪友であるヤスオと体育館の裏にいた。靴の踵を踏んでいるのが生意気だ、そんな理由で僕たち二人は数人の三年生たちにそこへ連行されたのだ。
しばらくして鰐が現れた。本物の鰐よりも怖い顔をしていた。
ヤスオは今にも泣き出しそうな顔でごめんなさい、ちゃんと履きます、靴下もちゃんと履きます、ボタンもちゃんと締めますから許して下さい、としきりに頭を下げた。仕方なく僕も頭を下げようとしたところ、鰐が僕の名札に書かれた苗字をぼそっと読んで、一瞬難しそうな顔をした。
「お前、ひょっとして……」
兄の名前が囁かれた途端、幾つかの握り拳は行き場を失った。
それだけではない。
面白いことに、教師たちも出席簿に書かれた僕の苗字を見て同じ反応を示した。おかげで僕は踵を踏んだまま廊下を歩き、ヤスオはボタンを外したまま応援団に入った。
鰐の後ろで白い鉢巻きをしたヤスオが声を張る。
「あと一球、あと一球」
しかし、あと一球で試合は終わらなかった。
兄が投じた三球目は、目を瞑り無心で振ったツクネのバットをかすめ、バックネットに突き刺さった。
ファウルチップ。審判が上げかけた腕を慌てて下ろす。
歓声が溜め息に変わる中、やっと状況を把握したツクネが怪訝そうにあたりを見回す。あれ、何か変だ。
「ベースの上にありますよ」
兄が優しい口調でそう言って指を差す。白いホームベースの上に勢い余って落ちたツクネの眼鏡がちょこんと乗っている。慌ててそれを拾い上げたツクネに兄が微笑み掛ける。これだ。真のヒーローになるためには、この優しさが必要なんだ。もちろん、僕もヒーローになりたい。兄のような真のヒーローになりたい。
確かに僕は、兄と比べると勉強も運動も圧倒的に劣る。
何をやってもかなわないことくらい、最初から分かっていた。小さい頃は「お兄ちゃんを見習いなさい」が口癖だった両親も、最近ではさすがに比較すらしなくなった。やっと諦めてくれたのだろう。何だか自分の影が薄くなったような気もするが、常に比較されるよりはずっとマシだ。おかげで卑屈にならずに済んでいる。そう考えると、僕の両親もすこぶる優しいのかもしれない。でも、優しさなら僕だって負けちゃいない。本当だ。
僕は言明されたのだ。目を見て真剣に言われたのだ。
それも、あの冴島緑に。
この話は喋り過ぎたので擦り減らないかと心配なのだが、とにかく彼女はあの雨の日に僕のことを優しい、と言った。
その日、冴島緑は昇降口で兄へのプレゼントを大事そうに抱えたまま僕を待っていた。兄の誕生日だったのだ。ところが本人はそんな日に限って熱を出して学校を休んだ。考えたあげく、彼女は弟の僕に託すことを思い付いた。僕はプレゼントの配達を快く引き受けた。問題はその後。彼女は、傘を持っていなかった。
「バス停までだから大丈夫」
そう言って僕の差し出した傘を断り、彼女は雨の中を駈け出した。どうしてだか分からないが、気付いたら僕は彼女を追い掛けていた。そして校門の前で彼女の手に無理やり僕の傘を握らせた。たくさんの雨粒が髪の毛と白いシャツを濡らして、いい匂いがして、三年生の匂いがして、前髪の先から滴が垂れて、濡れて、透けて、シャツの中の、その、いわゆるブラジャーも透けて見えて、それがなんと青くて、青くて、青いブラジャーがこの世に存在するなんて知らなかった僕は、雨に濡れながら言葉を失った。
「サンキュ。やっぱり優しいのね、弟さんも」
冴島緑がふわっとした笑みを浮かべて、その顔を見た瞬間世界がふわっと2センチくらい浮いたような気がして、こりゃニュートンの更なる発見をしてしまったと自分で自分が怖くなり、思わずヤスオに三百回くらい喋ってしまったのだ。
僕は知っている。兄の長電話の相手が冴島緑だと言うことを。
僕は知っている。兄のイニシャル入りのマフラーも、三日月型のペンダントも、全部冴島緑からのプレゼントだと言うことを。
あの、ニュートンも平伏するようなふわっとした笑顔を一身に浴びることができる相手は、世界で僕の兄だけだ。
兄だけなんだ。
笑顔はおろか、あの白い手も、あの唇も、あの青い……青い……。
「お前には所詮無理なんだよ」
え?
「早く三振しちまえ」
――野次だ。
僕が座るベンチから、ツクネに向かって次々と野次が飛んでいる。
ははは、そうだよ。僕はふっと息を吐いて、バッターボックスを見た。ツクネは今にも逃げ出しそうな及び腰でバットを構えている。紅潮していた顔は、いつしか無情に青ざめている。そうだ。変な気を起こす前にとっとと観念しろ。最初から分かっていることだろ。オマエには所詮無理なんだ。兄を打ち砕こうなんて、絵空事もいいトコさ。
僕はツクネを鼻で笑って、マウンド上の兄を見た。ユニフォームの袖で汗を拭い、兄はモーションに入ろうとしている。些細な仕草にもエースの風格が漂っている。唇を噛んだまま小刻みに震えているツクネとは大違いだ。
な、もう諦めろよツクネ。いくら唇を噛んだって、誰も肩を叩いてはくれないよ。塞ぎ込むこともできないんだ。所詮、兄とは次元が違い過ぎるてるぜ。だから誰もお前なんかに期待していない。誰もお前自身なんか見ていない。大体、お前自身なんてどこにいる? バッターボックスという名の、世界で一番孤独な場所があるだけだろう。寂しいよな。だって、いないのは親でもなく友達でもない。自分自身がいないんだ。ひとりぽっちにもなれやしない。
兄の足が上がる。最後の力を振り絞ってツクネが兄に立ち向かう。なに? 打てそうだと? 今のファウルチップでタイミングは掴んだ? 笑わせるな。目を瞑って振ったらたまたまかすっただけじゃないか。本当は逃げ出したいくせに。本当は寂しいくせに。ずっとずっと寂しかったくせに。
兄の手からボールが離れる。球場全体が息を飲む。うおーっ。叫びながらツクネがバットを振る。無我夢中で振る。タイミングとしては絶妙だ。しかし、それだけではバッティングは成立しない。案の定、地球の裏側からやってきたような白球は、ツクネのバットとはかけ離れた位置を冷笑的なスピードで通過して、吉田先輩のミットさえも弾き飛ばした。そしてバックネットに当たって跳ね返り、僕たちのベンチ前までコロコロと転がってきた。
大歓声。大拍手。マウンドで両手を上げる兄。目をまわしてその場に崩れ落ちるツクネ。天を仰ぐちんちん監督。誰もが思い描いた筋書き通りの結末だ。
僕はツクネを一瞥して、今日最後の優越感に浸ろうとした。
舞い上がる紙吹雪の中、兄に向けられたたくさんの笑顔。笑顔。吉田先輩が少し照れた顔でウィニングボールの行方を追う。
――ウィニングボール?
僕は目の前に転がったボールを見て、無意識に立ち上がった。
頭の中で何かのボタンがするりと外れた。
待て。終わりじゃない。
誰かが僕の口を使って叫ぶ。
「走れ! まだ終わってないぞ!」
ツクネがハッと顔を上げる。
「振り逃げだ!」
万歳したまま僕を見て一瞬凍りつく兄の顔。起き上がり、慌てて駈け出すツクネ。
「走れ! 走れ!」
眼鏡がズレたまま、みっともない格好で懸命に走るツクネを見て、なぜか僕の目から一気に汗が溢れ出す。
「走れ! 走るんだ! はし…」
チームメイトたちが血相を変えて僕の口を塞ぐ。
「ばかっ、お前なんてことを」
もう何も聞こえない。吉田先輩がボールを拾って物凄い目で僕を睨みつけてから一塁に送球する。
不格好なツクネがベースの手前でぶざまに転ぶ。見えない。見えない。
もう何も見えない。
たくさんの腕に取り押さえられた僕は、夢中で闇の中に手を伸ばした。僕の中で何かが走り出した。いいんだ。アウトになることくらい最初から分かっている。でも、僕はこうするために生まれてきたんだ。転んだんじゃない。よく見ろ。これが僕のヘッドスライディングだ。伸ばした手の先にはきっと、ツクネではなく、誰かの弟でもない、僕の、僕という人間の一塁ベースがあるだろう。
兄ではなく、僕が抱きしめる冴島緑がいるだろう。
僕の口を使って叫ぶ、苗字を脱ぎ捨てた僕自身がいるだろう。
――おしまい――
“MYOUJI” daisuke iwatsuki2010