すずむしの追憶
弱者が一方的に搾取され、世代を超えて命の価値が決まっているこの社会はクソだ。
生まれながらにして社会に適合できない者を、排斥し殺すように仕向けられるこの社会はクソだ。
自己責任論がまかり通り、誰もが骸に唾を吐くこの社会はクソだ。
…
俺が中学生、反抗期真っ盛りで家に帰らないことも日常茶飯事だったころ、俺には少し年上の友達がいた。
ここで彼女と言えるに至らなかったのが、一生の後悔だと、はっきり断言できる。
ここでは実名を伏せるため、Mとさせてもらう。
もどかしい、イライラする、寂しい、歯がゆい、無性に腹が立つ。
そんなぐちゃぐちゃになった感情を抱えて俺が向かうのは、いつも駅前のコンビニの前だった。
午後四時半、駅が学校帰りの学生でごった返す頃、Mはそこにいないことの方が少なかった。
なぜ高校生くらいの歳なのにずっとここにいるのかは、あえて尋ねることもなかったし、何となく予想がついた。
雨の日、晴れの日、雪が降った日、いつでもMはそこで俺を待っていた。
俺がMと会うのは、雨か曇りの日が多かったような気がする。
俺が最後にMと会った日は、雨が銃弾のように打ちつける台風の日だった。
…
大した金を持っている訳でもなく、話のネタが尽きないほど口が上手い訳でもない俺たちがすることと言えば、電車でいくつかの隣町に出かけるくらいであった。
土砂降りの中、しつこく体を横殴りにする風を気にもとめず、傘も差さないまま座っていたMを回収し、無人改札をセンサーを隠しながら通る。
Mと会い続けてはや一年弱、もう改札を鳴らすことはほとんどなくなった。
電車の振動を伝える音をさらに上から塗りつぶす雨音が、本当に耳障りで、癪に触る。
どうやらたった三駅移動するだけの時間は、俺たちが立っていたところをびしょ濡れにするには充分だったようで、俺たちが降りる頃には、そこだけ何かの妖怪が居座ったかのようだった。
隣町といっても、そうそう街並みが変わることはなく、それぞれの町でできることは決まっていた。
この日俺たちが訪れたゲームフィールドは、反社にちょっかいを出して遊ぶクライムゲームの会場だった。
道を間違える道理もなく、言葉少なに足を早める。
頬に当たる雨粒が痛い。
この時点で、今日外に出たのは間違いだったような気がしてならなかった。
やがて、見慣れた模様入りのコンクリート塀が見えてくる。
もはや顔も合わせず、示し合わせたように模様の隙間から中を覗く。
シャッターこそ閉まっているものの、その横からオレンジ色の光が漏れ出している。
ビンゴだ。
少しだけ敷地の中にお邪魔して、手頃な石を拝借する。
塀の前に戻り、狙うのはシャッターの隙間だ。
破壊する必要はない、ただ大きな音を出せばいい。
人に迷惑をかけることにおいては、類稀なる才能を発揮するのが俺とMだった。
手持ちの石のほとんどを投げ終わったころ、隣の引き戸が荒々しく開け放たれ、そこから見るからに堅気ではない男達が飛び出してきた。
まるで檻の中から放たれた知性のない猛獣みたいで、理由もなく腹が立って、先頭の異様に背の高い男に残った石を投げてみた。
結果を確認する前に走り出す。
雨音で何を言っているかは聞こえないが、一際声が大きくなったのでどこかしらには当たったのだろう。
Mと並走し、もう何度目になるか分からない道を走る。
複数人に追われている時は、無闇に反撃せず、隙ができるまで待った方がいい。
繁華街に駆け込み、人混みに紛れる。
台風のせいでそこまで人はいないが、それでもやはり姿を晦ますには充分だったようである。
振り返ると、先頭は変わらず背の高い男で、他の男に建物の隙間を探らせているようだった。
そいつが顔を抑える手には、目から流れ出たと思われる血がべっとりと付いていた。
この雨でも落ちないほどの血が出ているようで、本当に御愁傷様である。
しかしこうなっては手詰まりである。
今日は人が少なく、完全に撒いてここから逃げ出すのは無理がある。
かと言って、この人数の大人を全員沈めるのも難しい。
どうしたものか、と思案しているとMが握りこぶし大の石を差し出してきた。
さっきまで全力疾走だったというのに、器用なことである。
ということで、哀れなノッポ男に二撃目をお見舞いする。
わざと建物の隙間にMが逃げ込み、ノッポ男が怒声を飛ばしながら入ったところで俺がすぐ後ろに続く。
俺が予想していなかったのは、その後だった。
Mは腹からとめどなく血を流し、ノッポ男がそれを見下ろすように立っていた。
咄嗟にノッポ男の背中を蹴り飛ばし、頭に殴りかかる。
その時、ノッポ男の手に握られているそれを見てしまった。
人を殺すためだけに作られた殺意の塊、ハンドガンだった。
雨音で銃声を聞き逃したのか、サイレンサー付きだったのか、詳しくは見えなかった。
それでも、Mがこいつに撃たれたという事実だけは、飲み込まざるを得なかった。
なぜ?なぜこんな事になった?
こっちは社会にすら適合できなかった弱者だ。
その弱者が、なぜいつもこんなに痛めつけられないといけない。
俺ははらわたが煮え繰り返り、頭が沸騰しておかしくなりそうだった。
Mが何か叫ぶ。
肺から空気が漏れているのか、もう音にすらなっていない。
でも、口の動きと、これまでの関係で、何を言わんとしているのかは理解できる。
「逃げろ。」
逃げるしかない、相手はハンドガンだ。
ナイフどころか石一つも持っていない俺に勝ち目はない。
俺は、胸がキリキリと痛むのを我慢して、建物の隙間から躍り出て、そのまま走り出した。
そんな訳あるか。
できるか、そんなこと。
好きになった女を置いて、むざむざ逃げられたものか。
隙間から躍り出て2秒、回れ右をしてもう一度隙間に飛び込む。
今回もノッポ男は背を向けている。
そして、今回は怯まない。
相手が銃を持っているから何だ?
自分がやりたいと思ったことをやるのが人生だろ。
これまでずっとそうだったし、これからもきっとそうだ。
足を思いっきり振り上げ、股間に蹴りを入れる。
こちらに倒れ込んでくるノッポ男の頭を鷲掴みにし、生きている方の目も潰す。
何度も何度も顔を引っ掻き、殴り、また殴り、ノッポ男は動かなくなった。
Mは向こうでうつ伏せに倒れ、こちらも動かなくなっていた。
気が動転して、支離滅裂なことを口走りながらMに這いよる。
よく見ると、Mは手をひくひくと痙攣させ、何か言おうとしている。
俺はやっと口を閉ざし、そっと耳をMの顔に近付ける。
Mは掠れた声で言った。
「私は…小説家、に…なりたかっ、た。」
「いつも、そこはか…と、ない、怒り…を…抱え…い、た…」
「お前も、そうだ、ろ…」
「小説…家に、なって、社会に…悪意を、ばら…撒い…やりた…かっ、た…」
「お前は、捕まん、な…よ」
不意に、Mの表情が、急に明るいものに変わった。
「あぁ、楽しかーった!いや、マジで。」
「死にたくねぇなぁ…なぁ…死にたく…ねぇ…よぅ…」
俺は一言も口を挟むことができなかった。
口を挟んで、Mが口を閉ざしたら、もう二度と声が聞けないような気がして。
何とか言ってやるべきだったのかもしれないが、それをしたらもっと後悔したと思う。
Mの肌が冷たくなっていたのは、決して雨に濡れたからだけじゃない。
でも、この冷たい頬の感触を、ずっと感じていたかった。
救急車を呼んだりしなかったのは、Mがもう助からないのが分かってしまったからか、Mの死を傷付けたくなかったからなのか、よく分からない。
台風はその日の夕暮れにはほとんど過ぎ去り、夕焼けに包まれた町を見下ろす権利を俺にくれた。
Mがいつも座っていたコンビニの前には、今はただ大きな水たまりがあるだけだ。
あたりで、鈴虫が鳴いている。
Mを失ったこの町は、演者を失った舞台のように、ひどく物足りなく、寂しく見えた。
…
俺のこの考え方はおかしいんだろうな、俺は弱者には見えないだろうから。
でもな、この社会はクソだ。
必ず不適合者を生み、その不適合者を虐げるように作られたこの社会は、クソだ。
それが、俺が駅前で通り魔をやった理由だよ。
満足してくれたかい、刑事さん。