第47話 夜に想う(4)
「なぜ、あなたがここに?」
目を丸くしてこちらを見つめるシグルズを、エマは驚きをもって見つめ返していた。外に出掛けていたと聞いていたのに、こんなところで鉢合わせるとは想定外だ。しかも、自分は今まさに裏庭を探検しようと一歩足を踏み出したところで、木の幹に掴まっていなければ斜面の下まで滑り落ちてしまいそうな体勢だった。
「そんなところにいては危ない、手を」
そう言って、上から手を差し出すシグルズに、つい何も考えずに自分の手を伸ばすエマだったが、どうやら突然の登場にかなり動揺していたらしい。思わず体勢を崩して、足元を滑らせてしまった。咄嗟にシグルズが彼女の手首を掴んで、川岸まで転がり落ちるのを食い止めた。
「も、申し訳ありません」
エマは息を切らしながらそう言った。心臓がバクバクと大きく鳴っている。シグルズはずるずると引きずるようにして、エマを斜面の上まで引き上げた。
「驚いたな、怪我はないか?」
はい、とエマは気まずそうに視線をさ迷わせながら頷いた。シグルズはじっと彼女を見つめていたが、やがて吹き出すように小さく笑うと、にっこりと微笑んだ。その笑みを見て、エマの胸はまた大きく高鳴った。
「どうやら、夜に部屋を抜け出すのはあなたの得意技らしいな。なぜ、こんな遅い時間に冒険に出ようと思ったんだ?川縁は滑りやすいから危ないぞ」
エマはどう答えたらいいものか分からなかった。ただ、気持ちを落ち着かせるのに精一杯で、乱れた赤毛を耳にかけて、すみません、とだけ答えた。
「良いんだ、あなたに会えてラッキーだった」
と、シグルズは彼女の髪に絡んだ葉っぱや木屑を優しく取り除きながら言った。エマは恥ずかしくなって、慌てて服についた汚れを払った。
「シグルズ様こそ、なぜここに?」
エマは誤魔化すように尋ねた。
「ああ、ちょっと外を散歩していたんだが、鐘が鳴ったので帰ってきたんだ。馬の様子を見てから寝ようと思って。北部の人々は皆真面目だな。外を歩いている者はほとんどいなかった」
「歩いていただけ?」
エマはシグルズを見上げ、おずおずと尋ねた。シグルズは訝しげに微笑みながら、「そうだ」と答えた。
「そうですか」
エマはどこかホッとした様子で笑い返した。女将が妙なことを言うものだから、つい気になってしまったのだ。
「私がいなくて心配したか?」
シグルズはからかうように尋ねた。
「ええ」
と、エマは素直に答えた。シグルズは不意を突かれたみたいに一瞬口ごもったが、やがて気を取り直して息をつくと言った。
「それならもう、あなたに黙って出掛けるのはやめにしよう。これからは必ず一言言ってから出るようにする」
エマは俯きながら小さく頷いた。なんとなく気恥ずかしいような、嬉しいような、妙な心地だった。
「ロイ・アダムスのことを考えていたのだ」
少し考えた後、シグルズは切り出した。エマは彼を見上げた。それは、彼ら四人のうちの誰もが衝撃を受けながらも、今まで誰も口にすることのできなかった名前だった。
シグルズはエマの顔にかかった髪を除けながら続けた。
「三人の子供のことだ。彼の言う、三番目の娘の血を引く者がどこにいるのかと」
エマは口を開こうとした。だが、シグルズは彼女をじっと見つめたまま話し続けた。
「反省しているのだ。私は今まで自分の家のことしか考えていなかった。呪いにとり憑かれているのは、うちとメイウェザー家だけだと思い込んでいたのだ」
ロイ・アダムスの話を聞いて一つ分かったことがある。それは、ハラルドソン・メイウェザー両家の呪いは、実は全くの別物ではなく、元をたどれば一人の男に行き着くということだった。つまり、あの男の問題を解決すれば、ハラルドソン家だけではなく、メイウェザー家も、そして、誰かは分からないが、生まれながらにして半分死んでいたという、三番目の娘の血を引く者達も、皆が一度に救われる可能性が高いということだ。
「探したいと、お考えですか」
エマは尋ねた。シグルズは、夜風にふわふわと揺れる彼女の赤い髪をかき上げながら頷いた。
「もちろんだ。彼らがどう思っているかは分からないが」
エマは首を傾げた。
「どう、とは?」
「知られたくないかもしれない、ということだ。呪いとは、忌み嫌うべきものだから。もしかしたら、自分達の血筋を隠しているという可能性もある」
「隠している…」
「そうだ。呪いというのは厄介なものなのだ。一度その血が流れていると知ってしまうと、否が応にも囚われてしまって抜け出せなくなる。その先にあるのは、永遠に続く苦しみだ。そんなもの、誰が人に教えたいと思う?」
エマは押し黙った。
「私も、知らないまま育っていればどんなに良かったかと思う。だが、向き合わざるを得なかったのだ。家族のために」
シグルズはエマの両肩にしっかりと手を置いて語った。その口調は穏やかでありながら、誰にも物言わせぬ力強さがあった。
エマはシグルズを見上げた。昼間は穏やかな海のように美しい青い瞳が、夜はその輝きをひそめて、吸い込まれそうなほどに神秘的だ。
胸がぎゅっと締め付けられる。彼に見つめられると、彼女はいつも、まるで囚われてしまったかのように体が固まって動けなくなる。息をするのも忘れ、その瞳に見入ってしまう。
ーーー言えない。
エマは思った。自分が、ロイ・アダムスの血を引く娘の血脈を継いでいるかもしれないなんて、彼には言えなかった。
シグルズにとって、呪いとはまさに忌み嫌うべきもの。生まれたときからずっとその重荷を背負い続け、自身の命運をかけてでも取り除きたいもの。なのに、今まで呪いの存在すら知らずに生きてきた自分が、はっきりとした確証もないのに、憶測だけで言って良いことではないと、エマは今初めて気がついたのだ。
ーーー恐い。
安易に口に出すべきではない。少なくとも、確実に自分がその血を繋いでいると分かるまでは。
急に押し黙ったエマを、シグルズは怪訝な顔をして見下ろした。
「恐くなったか?」
彼女の心の内を読むように、シグルズは尋ねた。エマは首を横に振ったが、彼は慰めるように微笑むと、彼女の髪を一房取り、口付けた。
「あなたをこんなことに巻き込んでしまって、本当にすまない。ロイ・アダムスの話は気味が悪かっただろう」
「あの方のお話が?いいえ」
エマはきっぱりと答えた。
「そんなふうには思っていません。あの方は、ありのままを話してくださっただけです」
「あなたは、あの男の話を信じるのか?」
「信じます」
「随分はっきりと言うのだな。騙されているかもしれないとは思わないのか?」
「だって、シグルズ様はあの方のおっしゃったことを信じていらっしゃるのでしょう。それなら、私も同じようにするだけです」
シグルズは苦笑しながら首を横に振った。
「そんなに何でもかんでも受け入れなくていい。そのうち悪い男に騙されるぞ」
だが、エマは真っ直ぐにシグルズの目を見据えると答えた。
「私が信じるのは、シグルズ様が信じることだけです」
迷いのないその瞳に、シグルズの心は揺さぶられた。なぜ、彼女はこんなにも自分を慕ってくれるのだろう。なぜ、こんなにも素直なのだろう。少しは疑ってくれないと、つい魔が差してしまいそうになる。そのうち、自分こそが悪い男になってしまうのではないかと、恐ろしくなる。
ーーーいや、もう、なっているのかもしれない。
「明日、また教会へ出掛けませんか。あの方は、シグルズ様のこともよく分かっていらっしゃるようでしたから、娘のこともご存知かもしれません」
そうだな、とシグルズは頷いた。そういえば、あの男は子供達のことなら何でも知っていると言っていたっけ。ならば、本人に聞いてみるのがたしかに一番手っ取り早いかもしれない。できれば、あの男にはもうあまり近寄りたくなかったが、どうせ避けては通れぬのだから仕方ない。
そして、エマはエマで、ロイ・アダムスに会って、自分の血筋のことをはっきりさせたいと考えていた。
ーーーおまえのことなんか知らない、と言ってくれれば一番いいわ。そうしたら、私はこれからも今まで通りシグルズ様にお仕えすることができるもの。
「今度は私も連れていってください」
と、エマは微笑んだ。また置いていかれないように、先手を打ったつもりだった。だが、シグルズはふと彼女に真剣な眼差しを向けると言った。
「あなたは、アンソニーと留守番しているより、私と一緒に来たいと思っているのか?」
エマは首を傾げながら頷いた。
「もちろん、そう思っています。私はシグルズ様の侍女ですもの」
シグルズは一瞬、悲しげな表情を見せた。彼はエマを見つめながら、彼女の手をそっと握った。温かく、柔らかい、自分よりもはるかに小さな手だ。エマはドキッとして彼を見上げた。
「あなたは、侍女だから私の側にいてくれるのか?」
エマは困惑しながら頷いた。
「ええ、だって、シグルズ様にお仕えすることが私の役目ですから」
彼は何も答えなかった。ただ、握る手に力を込めただけだった。
シグルズは何か言いたそうに、エマの瞳をじっと見つめていた。だが、何度も口を開きかけながらも、何も話すことはなかった。
彼の頭の中には、「アンソニーはエマに恋している」という、からかうようなケネスの言葉がよぎっていた。生きざまも性格も真っ直ぐで、こうと決めたらとことんその道に突き進んでいくような男だ。それが本当なら、そのうち彼女に求婚するかもしれない。
ーーー困ったことになった。
やがて、シグルズは大きな背中を丸め、彼女に顔を近付けると、眉根を寄せながら吐き出すように言った。
「あなたは侍女にふさわしくない」
「え…?」
エマは戸惑ったような声を漏らした。シグルズの顔が徐々に近づいてくる。大きな手が、彼女の頬を愛しげに撫でる。
エマはやっぱり目が逸らせなかった。彼のいつもより濃い瞳が、彼女の体をがんじがらめにして離さなかった。
お互いの吐息を間近に感じる。シグルズは親指の腹で彼女の唇を優しく撫でた。厄介なことに、囚われてしまっているのはシグルズも同じだった。
ーーーなぜ、こうしたくなるのか分からない。
いや、本当は分かっている。けれど、彼女と自分の立場を考えれば、認められない。なのに、止められない。
他の男にみすみすと手渡してしまうのが口惜しかったのかもしれないし、そのうち誰かと結婚して、自分の元から去ってしまうのが嫌だったのかもしれない。彼女はモノじゃない、一人の人間だ。だが、彼は今、世の中の男達がみな女を自分の所有物か何かのように扱う気持ちがよく分かるような気がしていた。
シグルズは、エマに拒むつもりがないのを確かめながら、ゆっくりと唇を寄せた。おずおずと、遠慮がちに、いつでも逃げ出すことができるように。
だが、エマは逃げなかった。だから、ほんの少しだけ、まるで服と服が一瞬衣擦れを起こすように、二人の唇はわずかに重なった。
シグルズは唇を離し、鼻先が触れ合うほどの距離で彼女を見つめた。その顔はどうにも頼りなさげで、眉は下がり、視線はちらちらとさ迷いながら、でも再び彼女のほうに戻ってくる。まるで、叱られるのを待つ子供みたいに。
だから、エマは拍子抜けしてしまったように、思わず笑ってしまった。驚いたのと、恥ずかしいのと、愛しさと、喜びと、全てがない交ぜになって、そのくせ彼の反応がおかしくて、嫌だなんて思う暇はちっともなかった。
彼女が笑うので、シグルズも笑った。許されたような気がして、嬉しかった。
シグルズは繋いだ手を離し、彼女の腰を引き寄せた。柔らかい頬を撫で、後頭部に手を添えて、今度は明確な意思をもってしっかりと口付けた。エマは応えるようにそっと彼の背中に手を回し、二人はしばらく抱き合っていた。




