第46話 夜に想う(3)
シグルズは、部屋にいなかった。仲間達がそれぞれの思いに頭を悩まされていた頃、彼も同じように気持ちを落ち着かせたくて、女将に差し入れはいらないと断りを入れて一人外に出てきていた。
昼間の暑いくらいの日差しが消えた夜の空気は、ひんやりとして心地が良い。もうすぐ夜のお告げの鐘が鳴る頃だろうか。暗くなった町にはほとんど人影がない。シグルズは振り返って後ろを見た。この辺りで一番背の高い教会の尖塔は、町のどこにいてもはっきりと見えた。
ーーー私達の血が、あの男を生かしている、か。
シグルズは自分の手を見た。この体の中に流れている血が、生きているのか死んでいるのか分からない、あの男の命の源であるなど、にわかには信じられない。ロジャーにどう報告したら良いのだろう。呪いの根源らしきものは見つけたが、消し去るためには自分達も死ななければならないと、そう言えと?
それに、まだ分からないことがある。あの男は、たしかに三人の子供達と言っていた。蛇はハラルドソン家で、狼はメイウェザー家で間違いない。問題は残りの一人、生まれながらにして半分死んでいたという娘の存在だ。この二つの家以外に、呪いが受け継がれているという話は、彼はこれまで聞いたことがなかった。
ーーー誰なんだ?
一度フォートヒルに帰るべきだろうか、とシグルズは思案した。三番目の呪いの存在が明らかになれば、また新たな発見があるかもしれない。ロジャーや、社交界に顔がきく母上、それから聖アンドレアスの大司教や、国王陛下に尋ねてみてもいいかもしれない。書庫へ行けば、何かしらの手がかりが掴めるだろう。
呪いに苦しんでいるのがハラルドソン家とメイウェザー家だけではないとしたら、その存在を把握しておくことも必要ではないかと、シグルズは本能的に考えていた。
ゴーンと低く唸るような教会の鐘の音が響き渡った。夜のお告げだ。人々は家に帰って休む時間だ。身を隠すようにして、男や女達が路地を速足で歩いていく。
彼らに倣って、シグルズも踵を返した。北の人々はまだ信仰にあついと見える。フォートヒルや都心部では、夜のお告げの鐘なんてもはや単なる時刻を表すものに過ぎず、鳴ったからといって急いで家に帰る者はほとんどいない。
シグルズは、この古風で貧しくて窮屈な人々の暮らす北部地方がだんだん好きになってきていた。彼らの生活は大都市のそれと比べて非常にシンプルだ。それに空気も澄んでいて、特に誰もいない夜は考え事をするのにぴったりだった。シグルズは、少しだけ頭がすっきりしてきたのを感じていた。
彼の腕に嵌められた蛇の腕輪が、月明かりに照らされてきらりと光る。一つに束ねられたプラチナブロンドの長い髪が、蛇の尾のようにしなやかに揺れていた。
***
「どうぞ、体が温まりますよ」
そう言いながら、宿屋の女将がエマの前に一杯のスープを差し出した。ふんわりとした柔らかい野菜の香りが鼻腔をくすぐり、思わず顔がほころんだ。
「ありがとう」
充分に煮詰められ、とろりとした液体をスプーンですくって口元に運ぶ。想像通りの優しい味にエマは思わず感嘆の声を漏らした。
「とっても美味しいわ」
女将が満足そうに微笑むのが見えた。
エマは階下に降り、食堂へやって来ていた。周囲には誰もいなかった。普段ここは酒場のように遅くまで賑わっているのだが、今夜は上客のために主人が宿を貸し切りにしたのだった。もちろん、そんなことを四人のうちの誰かが頼んだわけではない。サンクレール伯爵に恐れをなした、あの太っちょの宿屋の主人が、お客達の気を悪くしないように、なんとなく独断でやっただけのことだった。
エマは気を遣わせてしまって、ちょっぴり申し訳ないような気持ちになっていた。元はと言えば、サンクレール家を名乗り始めたのは他でもない、彼女自身なのだから。
だが、女将は他の客がいないのを良いことに、どっこいしょとエマの前に腰を下ろすと、若き貴婦人を見つめてにっこりと微笑んだ。
「よかった、元気出たみたいね。ひどい顔だったから心配したんですよ」
エマはちらりと女将の顔を見た。この宿屋の夫妻は揃って恰幅が良くて、声も大きいし、よく喋るけれど、二人とも妙に憎めないというか、特に女将のほうはまるで母のような安心感があるわ、とエマは思っていた。もちろん、この女将と彼女の母親は全然似ていないのではあるが。
「ご主人と、何かあったの?」
「え?」
エマは目を丸くした。思わずスープを飲む手が止まる。
「部屋にいなかったからね。まあ、男同士で積もる話もあるんだろうけど、それにしちゃあ皆疲れ切ってたし、あの金髪の旦那のほうはどっかに出掛けていっちまったしね」
「シグルズ様、また外に行ってしまったの?」
エマは驚いて尋ねた。てっきり部屋にいるものだと思っていたのだ。女将は呆れたように答えた。
「知らなかったのかい?まあ、こんな古いだけの寂れた町じゃ、男が一人で楽しめるような場所も大してないんだけどね」
「どこにお出掛けになったかご存知なの?」
「そんなの聞くだけ野暮ってもんだよ!男が夜に一人で行くところといったら決まってるじゃないか」
「そう…」
エマは言葉に詰まった。すると、女将がにやりと察したように笑って言った。
「なんだい、なんだい、あの人のことが気になるのかい?」
「なんですって?」
思わず、エマは口につけたスープを吹き出しそうになってしまった。だが、女将は悪びれる様子もなく、面白そうにこちらを見て笑っている。
「三角関係ってやつ?ご主人がいるけど、本当はあの人と良い仲だったりして。良い男だもんねえ!」
「まさか、違います!」
エマは口元をナプキンで拭いながら、慌てて否定した。
「違う?じゃあ、なんだ、あの気難しそうな痩せ男のほう?だから、旦那が詰め寄ってて修羅場とか?」
「そうではなくて」
「隠さなくてもいいんですよ、あんたのご主人、束縛が強そうだもの。嫌になることだってありますよ。私だって何度愛想を尽かして出ていこうと思ったか」
でも子供達が可愛くてねえ、と女将は彼女に口を挟む隙も与えず、一方的に話を続けた。
エマはしばらく呆気にとられていたが、やがて、元気のない自分を励まそうとしてこんな馬鹿馬鹿しい話をしているんだわ、と気がついて、彼女はつい笑ってしまった。
「ところで、神父様にお会いになったんだって?」
一通り、夫への愚痴や不満をこれでもかと吐き出した後、女将は身を乗り出して小さな声で尋ねた。
「こう言っちゃなんだけど、神経質そうな嫌な男だったでしょう。私はあの目が嫌いでね。でも仕方ないから日曜には行きますけどね。主人は信頼できる素晴らしい方だとか何とか言っちゃって…、あの人、客商売してるくせに人を見る目がないんですよ!」
それを聞いて、今度こそ、エマは声を出して笑ってしまった。食堂には賑やかな女達の笑い声が響き渡っていた。
それからすっかり元気の出たエマは、女将の許可を得て、宿屋の裏庭へと出てきていた。あれから、調子の出てきた女将がちょっとした酒盛りを始めようと、奥からチーズやベーコンや魚の燻製、それに干からびたパンや、かじりかけのりんごまで、目についたあらゆる食べ物を持ってきたので、エマはすっかり満腹だった。
お客に出すものじゃないんだけど、と言いながら、女将は、乾いたパンに、薄く切ったりんごとベーコンとチーズを乗せて、炉端で焼いてエマに食べさせた。
人間、食べて寝ることが一番大事、と女将は腰に手を当て、威張って言った。
「あんたは痩せすぎ。もっと食べなさい」
と、女将は次から次へと思い付く限りの美味しいものを炉端で編み出した。その上、
「これはとっておき。男には飲ませないよ」
と言って、貯蔵庫からこっくりとした蜜酒を持ってきてふるまったので、エマは心身ともに完全に生き返ったような心地だった。
涼やかな夜風が彼女の火照った頬を撫でる。町の表通りに面したよそ行きの玄関口とは違って、ここは広々とした空き地に草や木が生い茂り、別世界だ。干しっぱなしの雑巾、ひなびた井戸、雑多な工具類や、積み上げられた藁。端のほうには家畜小屋があって、ここまで旅を共にしてきた彼らの馬が、丁寧に手入れをされて気持ち良さそうにくつろいでいた。昼間は賑やかな鶏や鳥達は眠る時間だ。宿屋一家のプライベートな空間は静けさに満ちていて、ぐちゃぐちゃにこんがらがっていたエマの頭をすっきりと冴え渡らせた。
明日、シグルズに会ったら、ロイ・アダムスの三番目の娘のことを話してみよう。それから、もう一度きちんとアンソニーと向き合って、話をちゃんと聞かなかったことを謝ろう。エマはそう決意しながら、草木をかき分け、奥のほうへと歩いていった。なんとなく、川の流れる音が聞こえたような気がしたのだ。白い月が川面を照らす様子は、きっと美しいだろう。
だが、斜面を下ろうと木の幹に手をかけた彼女を、呼び止める者がいた。
「エマ」
シグルズだった。




