第45話 夜に想う(2)
部屋に入るなり、エマは力尽きたようにベッドの上に倒れ込んだ。
色々なことが一度に起こったせいで、頭の中がぐちゃぐちゃで、もう何も考える気力も起こらなかった。ただ、ロイ・アダムスの言葉だけがぐるぐると頭の中で繰り返し再生されていて、止めたいのに止められない。まるで、夕暮れ時に延々と旋回するムクドリの群れのように、何度も何度も波のように押し寄せては騒音となって彼女の頭を悩ませていた。
「駄目だわ、全然眠る気になれない」
エマはむくりと半身を起こした。体は重く疲れているのに、頭は忙しく働いている。彼女は染みだらけの壁を眺め、ため息をついた。ちらりと視線を横に動かせば、アンソニーのために縫ったシャツが小さく畳まれて隅に置かれたままになっていた。それを見て、さらにため息をもう一つ。こちらの問題もあったことを、彼女は忘れてはいなかった。
そっと、そのシャツに指先で触れてみる。あまり深く考えることなく、ただ汚れて破れたから縫い直そうと思っただけだった。でも、彼はすごく嬉しそうにしていたっけ。あの時の彼の顔を思い出すと、こちらまで綻んでくるようだ。
エマはアンソニーのことは好きだった。とても大事にも思っていた。けれど、残念ながらそれは恋しいと思う気持ちとは違った。他の誰かと同じように見つめられても、彼を見て胸が苦しくなったりはしないし、目が逸らせなくて困ったりもしない。
だからこそ、彼女は、彼が何か大事なことを言おうとしていた時、真正面から向き合うことができなくて、思わず壁をつくるような真似をしてしまった。今思い返すと、罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。傷ついて怒った彼の横顔が忘れられない。
ーーーなんて私は卑怯なのかしら。
不意に扉がノックされ、思わずエマは肩をびくりと震わせた。もしかして、と恐る恐る扉を開けると、そこに立っていたのは籠を手にした女将だった。エマはホッとして胸を撫で下ろした。
「大丈夫かい?随分顔色が悪いようだけど」
女将は自分よりすらりと背の高い貴婦人が、げっそりとした様子で顔を出してきたので、眉をひそめた。昼間は部屋でゆっくり過ごしていたはずなのに、夕方出掛けていったと思ったら全員がこんな調子で帰ってきたのだ。何かあったのだろうか。
「お一人?ご主人は?」
勘繰るような女将の視線を誤魔化すように、エマは「伯爵のご友人と」と、小さく笑いながら答えた。嘘は言っていない。きっと、シグルズ様と一緒にいるんだわ、と彼女は思っていた。アンソニーは一番最後に部屋に入っていったので、どこにいるのか知らないのだ。何にせよ、前回のように一晩中二人きりで一緒に過ごすことにならなくて本当に良かった。
エマは軽食の入った籠を受け取ると、女将から目を逸らした。だが、少し考えると、再び顔を向けて言った。
「せっかく持ってきていただいたけれど、今、部屋に一人でいたくないの。下に降りてもいいかしら」
女将は頷いた。
「もちろんですよ。旅続きでお疲れなんでしょう。温かいスープをお出ししますから。さあさあ、そんな冷たい食べ物なんてそこに置いておいて」
エマは嬉しそうに頷き返すと、籠をサイドテーブルに置いて部屋を出た。
廊下には誰もいなかった。客室で、誰かがひそひそと話しているような声が聞こえてくるだけだった。エマは女将の後を追いかけるように、階段を下に降りていった。
***
アンソニーはもう随分長いこと廊下でためらっていた。ケネスが煽り立てるので思わず部屋を出てきてしまったが、これからどうしたらいいものか、良い作戦などこれっぽっちも思い浮かばなかった。
そもそも、奪うって何だ?何を?どうやって?エマはまだ、誰のものでもないし、結婚する気すらないって言っているのだから、奪うも何もないだろ。
そうやって、アンソニーは何度も言い訳を考えては、自分の部屋に戻ろうとした。だが、部屋のドアノブに手を掛けて、今戻ったらケネスにどんなに馬鹿にされるものか分かったものではないと思い直し、今度はエマの部屋の扉の前に立って拳を上げて、やっぱりこういうのはよくないと考え直し…。
結局、二つの部屋の間をずっとうろうろと歩き回っていた。その間、どの部屋もすっかり静まり返っていて、もしかしたら彼女ももう寝ているかもしれないな、なんて思ったりした。
ーーー寝ているならそのほうがいいな。何もしなくて済むじゃないか。
アンソニーはため息をついた。人を好きになることが、こんなにも厄介だとは思わなかった。これまでずっと、彼はシグルズの忠実な従者で、シグルズに仕えることだけが喜びで、それが彼の存在意義でもあった。だが、そんな彼の前に現れたエマは、やっとのことで確立された彼の完璧な人生を、瞬く間に破壊したのだ。でも、もう彼女と出会う前の人生に戻りたいとも思わない。
ーーーシャツを取りに行くだけだろ。
そう自分に言い聞かせて、アンソニーはこれが何度目か分からないが、拳をつくってエマの部屋の扉を叩こうとした。
そうだ、そのためのシャツじゃないか。こうしてまた訪ねる口実にするために、わざわざ置いてきたんだろう。
ついに、アンソニーは扉をノックした。やってしまった。もう後には引けないんだ。アンソニーは深呼吸をして返答を待った。
すぐに返事があるものと思っていた。扉の向こうから、彼女の声が聞こえるか、彼女が扉を開けてくれるものだと思っていた。
だが、どんなに待っても反応はない。おかしいな、緊張のあまり、叩き方が弱かったのかもしれない。そう思い、アンソニーはもう一度、今度はしっかりと扉を叩いた。しかし、やはり返事はない。
寝ているのだろうか、そう思って、彼はためらった末に、ほんの少しだけ扉を開けてみた。おずおずと、遠慮がちに。
だが、視線の先に彼女はいなかった。アンソニーは扉を開き、部屋の中を見渡した。ベッドはきれいに整えられたまま、使われた形跡はない。隅に、自分のために縫われたシャツが、夕刻この部屋を出てきたときと同じままの形で置き去りにされている。サイドテーブルには、彼とケネスに届けられたのと同じ、酒瓶と軽食が入った籠が鎮座していた。
アンソニーは部屋を出て、階段の下を覗き込み、耳をすませた。女の声が聞こえてくる。エマと、宿屋の女将の声だ。下に行ったのか。
彼は額に手を当て、ため息をついた。そして、その場にへたり込むようにしてずるずると腰を下ろした。ホッとしたのか、がっかりしたのか、自分の気持ちがよく分からない。一つはっきりしているのは、結局、また空回りして終わったということだけだ。
冷たい床にどっかりと座り込み、壁に背中を預け、彼は急速に頭が冷え冷えとしてくるのを感じていた。
ふと、ロイ・アダムスの顔が脳裏に浮かんでくる。傷のある口元がこちらを見て笑っていた。嫌な顔だ。
ーーー蛇と、狼と、半分死んでいた娘。
彼は自分の手を見た。頭はすっかり冷えているのに、燃えるように手が熱い。感触を確かめるように、交差する右手の指を握っては開く。そして、剣の柄に手をかけ、ゆっくりと引き出してみる。磨き抜かれた刀身に、自分の目が映った。その瞳は金色に輝いていた。




