第44話 夜に想う(1)
その晩は眠れなかった。
帰り道は皆が口を閉ざして、何か言おうとする者は誰もいなかった。それぞれが何かしらの思いを胸に抱えていて、それぞれが自問自答しながらただ静かに歩いていた。
時折、エマは先に行くシグルズの後ろ姿を見つめていた。月明かりを受けて白く輝くプラチナブロンドの髪が、彼の歩みに合わせてしなやかに揺れていた。頬は青白く、俯いているように見えた。
落ち込んでいるのかもしれない、とエマは思った。同時に、力になりたい、とも思った。けれど、一体どうやったら彼の助けになれるのか皆目見当もつかなかったし、こういう時にかけるべき言葉も全く思い浮かばなかった。
それに、彼女は今、他のことにも気をとられていた。ロイ・アダムス司祭の言葉をそのまま真に受けるとしたら、彼には三人の子供がいたということになる。蛇と、狼と、それから、生まれながらにして半分死んでいたという、末の娘だ。
嫌な予感が胸の中でもやもやと広がっていた。ハラルドソン家が蛇の血を、メイウェザー家が狼を、それぞれ三百年前から繋いできているとしたら、その死の乙女の血は一体誰が受け継いでいるのだろう。
ーーーもしかして。
《嘆きの塔》のヘレナを思い出す。それから、聖タール教会の前で我が身に起こった出来事も。
あれが、ヘレナの力でも憑依でもなんでもなく、乙女の血筋によるものだったとしたら?
エマはぞっとして身震いした。そんなはずはない。母はいたって普通の女だったし、祖母のことはあまりよく知らないけれど、呪いや言い伝えのようなことは生まれてこのかた聞いたことがなかった。
ーーーでも。
エマは考え直した。母が病気で亡くなったのは彼女がまだ子供の頃の話だ。祖父母のいるガン族の集落へ行く機会も、それ以降はほとんどなかったし、父は五人兄弟の末っ子だから、実家とも距離があってあまり親交らしいものはない。
考えてみたら、エマには身近な親族なんて、ずっと父と弟くらいしかいなかったのだ。もしかしたら、自分が聞いていないだけで何か大切な言い伝えがあったのかも。
真っ暗になった空を見上げてみる。漆黒に塗られた天はどこまでも続いている。まるで世界中を黒い衣で包んでしまったかのように。
エマは嘆息した。サザーランド伯爵の館を追われてから、今ほどローランに帰りたいと思ったことはなかった。母の遺品をもう一度丁寧に見直したかったし、父に何か知っていることはないかと尋ねたかった。
母はよく、ベッドの上で日記も書いていたはずだ。気分の良い日は、体を起こしてペンをとっていたことを覚えている。開くと思い出して悲しくなってしまうから、ずっと触らずにいたけれど、そこに何か隠された秘密が記されていたかもしれない。
エマは首を横に振った。今となっては確かめようがない。だが、この旅の間に起こった、ありとあらゆる出来事が「おまえは死の乙女だ」と指をさして言っているようだった。
アンソニーはそんな彼女の様子を見つめながら、黙って一番後ろについて歩いていた。
「おかえりなさいませ!」
宿へ帰りつくやいなや、場違いに明るい主人の声が響き渡った。主人は手揉みをしながら愛想笑いを浮かべ、上客達を出迎えた。
「こんな遅くまでお疲れ様です。教会へ行ってこられたとか?熱心で素晴らしいことですな!」
シグルズとケネスは顔を見合わせた。二人は湖で奇襲に合ってからずっと身分を隠していたので、この宿屋の主人は彼らの本職を知らないのだ。
「いかがでしたかな、この町の教会は」
「素晴らしかった」
本当は教会の中に入ってもいないのだが、シグルズは適当に話を合わせるように頷いた。
「そうでしょうとも」
主人は得意気に頷き返した。
「なにせ、あの教会は歴史も古い!知る人ぞ知る話ですが、昔は大司教様のお屋敷も近くにあって、なんとこの辺りの教区の中心はここヘルギだったのですよ!今じゃフレイスヴァーグにその座を乗っ取られちまいましたがね。ここいらじゃ一番格式の高い教会、いや、大聖堂だったんですよ!」
エマは苦笑いしながら頷いた。皆疲れきっていて、主人の話に返事をする気力もなかった。だが、誰も口を開かないのをこれ幸いと、太った宿屋の主人は自慢気につらつらと語り続けた。
「しばらくは神父様も不在だったんですがね、町民は皆あの教会を大事に手入れしてきましたよ。最近になってようやく司祭様がいらしてくださって、そのときの驚きようったら…、あなた方にも見せて差し上げたかったなあ!誰もいないのにこんなに綺麗に保たれたままの教会は見たことがないって、褒めてくださったんですよ!神様も私達の行いをきっとお認めになるだろうってね!いやあ、本当に素晴らしい神父様だなあ!まだ若いのに立派だ!それに見目も麗しい…、いや、あなた様には及びませんがね。私は本当にあの方を尊敬しているのですよ。この町に来てくださって本当によかった」
主人は思い出したように目を閉じながら、鼻をすすり、髭を指で擦った。シグルズとケネスは視線を外し、何も言わなかった。アンソニーはぐるりと目を回してため息をついた。誰か、この男を早くどこかに引っ込めてくれ。
「あんた、お客さんが困ってんじゃないの。お疲れなんだから、いつまでも待たせてないでさっさとご案内しな!」
気持ちが通じたのか、奥から女将が顔を出してきて怒鳴り声を上げた。宿屋の主人はびくりと肩を震わせて、冷や汗を流し、愛想笑いをした。アンソニーがじろりと彼を見下ろしながら言った。
「今夜は早く休みたい。悪いが後で、酒と何かつまめるものを少し部屋まで持ってきてくれ」
分かりました、と主人が何か言う前に、奥から女将が返事をした。
そのやり取りを見届けることなく、シグルズとケネスはさっさと二階へ上がっていった。宿屋の主人は気まずそうにぽってりとした指先をとんとんと突き合わせている。アンソニーはエマの背中を押して階段へ促した。彼は彼女の部屋に置いたままにしてあるシャツのことを思い出していた。
「ああ、疲れた!」
どさっと小さなベッドに大の字になって寝転びながら、アンソニーは声を上げた。ケネスが上着を脱ぎながら、冷たい目で上から彼を見下ろした。
「どいてもらえませんか?寝れないではないですか」
アンソニーは目を閉じたまま唸った。
「そこは私の寝床でもあるのですよ。もっと端に寄るか、下に降りてくれないと」
「床で寝ろって?」
アンソニーは片目を開けてケネスを見上げた。表情のない顔に苛立ちと呆れが垣間見える。
「なぜ四室とらなかったのです。こんな狭い部屋であなたと二人きりなんて、何をされるか分かりやしない。恐ろしくて眠れませんよ」
「人聞きの悪い」
アンソニーは体を起こし、ベッドの上であぐらをかくと悪戯っぽく笑った。
「でも、なんだかんだ言いながら、ケネス様はぐっすり寝るんでしょう?」
ケネスは肩をすくめた。アンソニーは言い訳をするように言った。
「仕方ないじゃないですか、俺とエマは前回同室だったんです。今回だけ別なんて違和感があるし…。それに、庶民は普通この部屋に三人も四人も一度に泊まるんですよ」
「私達は一応庶民ではないはずですが」
「そうなんですけど、お偉いさんの身の安全を考えて、一緒にいて差し上げてるんですよ。分かりませんかね」
「ならば、シグルズ様のほうへ行くのが筋なのでは?」
アンソニーはぽりぽりと頭を掻いた。ケネスは額に手を当てた。
「光栄ですね、消去法で私が選ばれて」
アンソニーは小さく笑った。
「やせ我慢などしていないで、素直にあの娘のところへ行ったらどうですか」
ケネスは呆れたように息を吐き出しながら言った。つまり、目の前のこの男は主人であるシグルズとは二人きりになりたくなく、その一方で、想いを寄せる女の元へ飛び込む勇気もないというわけだ。
「ケネス様はいつの間に読心術まで身につけたんですか?」
アンソニーは目を見開いてケネスを見上げた。まだ誰にも、彼女にさえ、はっきりと自分の気持ちを伝えたわけではないのに。
「そんなものなくとも、見ていれば分かります」
ケネスは呆れ顔で腰に手を当て、アンソニーを見下ろした。アンソニーは困って、目を逸らすとため息をついた。本当に分かってほしい人には、いくら思わせ振りな態度をとっても知らんぷりされるのに、そうでない人には簡単に伝わってしまうものらしい。
「昼間ずっと二人でいましたけど、見事に振られましたよ」
アンソニーは不貞腐れたように言った。ケネスは大きな男がしょんぼりと背中を丸めているのを見て、眉をひそめた。
「だから?」
アンソニーはケネスを見上げた。
「だから何です?」
「何って…」
アンソニーは言葉に詰まった。ケネスはいつも通り人を小馬鹿にしたような物言いながら、いつになく妙な面持ちでこちらを見下ろしていた。
ふと、なんで自分はこんなことをこの男に話しているのだろう、とアンソニーは思った。自分達は、先程まで、あの胡散臭い司祭と頭の痛くなるような話をしてきたばかりで、誰かと色恋沙汰について語り合うような状況ではなかったはずだ。しかも、その相手がケネスときたものだ。長いことハラルドソン家に仕えてきたが、まさかこの男にそんな話を切り出されることになろうとは。
「だから、俺はあいつの眼中にもないってことですよ。…ああ、ちくしょう!なんでこんなこと話さなきゃならないんだ」
アンソニーは苛立った。だが、ケネスは顔色一つ変えることなく、彼を見下ろすだけだった。
「あなたも情けない男ですね」
扉がノックされた。女将が酒と食べ物を持ってやって来たようだ。ケネスは黙って扉を開けると、届けられた籠を受け取り、再び扉を閉めた。主人の何倍も分をわきまえた女将は、一言も話すことなく静かに去っていった。
ケネスは籠をサイドテーブルに置くと続けて言った。
「旅はまだ続くのですよ。あなたはその間、ずっとじれったい想いを抱えたまま、あの二人を見ているのですか?」
「仕方ないでしょう、彼女には結婚する気はないとはっきり言われてしまったんだから」
アンソニーは怒ったような声で答えた。本当に、なんでこんなことを言わなければならないんだか。口にするだけでも記憶が蘇って感情的になってしまうというのに。
かたやケネスは落ち着いた様子で、一脚しかない粗末な椅子に腰掛けると、とくとくとグラスに酒を注いで口をつけた。
「そんな弱気でどうするのです?決定権はあの娘にはありません。あるのは、あなたです」
「あるのは、その家の当主では?」
ケネスはじろりとアンソニーを睨んだ。アンソニーは素知らぬ顔で肩をすくめた。
「とにかく、シグルズ様はいずれ大司教にもなるお方。あの二人に間違いを起こさせてはいけません。あなたのご実家が、いつ隙をついてくるか分からないのですから」
「頭が痛い話だな。ケネス様は、あの二人が間違いを起こすと?」
ケネスは固いチーズをかじり、もう一脚のグラスに酒を注ぐと、アンソニーに手渡した。
「あなたも薄々気がついているのでは?」
アンソニーは酒をぐいと飲み干した。
「否定はできません。でも、肯定もしたくないな」
「ならば、奪ってしまいなさい」
「は?」
アンソニーは素っ頓狂な声を上げた。ケネスは涼しい顔をしたまま、ちらりとこちらに視線を投げた。まるで、市場にお使いに行ってきなさいとでも言うような言い方だった。
アンソニーは口を開けて、首を横に振った。言葉もないとはまさにこのことだ。
「随分、過激なことをおっしゃるんですね。最近の聖職者の流行りですか?」
「誤魔化すのはおやめなさい。このまま、あなたの大切な主人と仲間が道を踏み外していくのを黙って見過ごして良いのですか」
アンソニーは何も言い返せなかった。だが、もちろん分かっていた。あの二人に何かがあれば、それは、女を一人娼館で買うのとはわけが違うということを。晩餐会の後の、一夜だけの遊びとも違うということを。
それはすなわち、愛人だ。もしかしたら、あのロイ・アダムスと同じように、家政婦を装った内縁の妻かもしれない。そんな、世間から後ろ指を指されるようなことなど、彼女には絶対にさせたくない。
アンソニーは唇を噛んだ。頭ではシグルズはそんなことをしないと信じてはいても、心のどこかでもう一人の自分が声を上げる。愛に溺れた男は信用ならないと。
「奪えなんて、神にお仕えする方の言うことじゃないですよ」
アンソニーは、これ見よがしに大きなため息をついた。ケネスは酒瓶を項垂れる従者の男に差し向けたが、彼は首を横に振ったので、再び自分のグラスに注いで口をつけた。
「健闘を祈ります」
半ば面白そうに、にやりと口の端をつり上げたケネスがこちらを見ている。アンソニーは憎たらしい気持ちで彼を睨み付けた。他人事だと思って笑っているのだ。嫌な男だ。
「また振られたら、その時はさぞかし優しく慰めてくださるんでしょうね」
アンソニーは重い腰を上げると立ち上がり、グラスをドンとサイドテーブルに置いて言い放った。
「ええ、起きていればね」
小さく舌打ちするような音が聞こえ、扉が乱暴に開かれたかと思うとまた閉まり、アンソニーは部屋から出ていった。ケネスはグラスの中の琥珀色の液体をぐいっと飲み干すと、笑って大の字になって寝転んだ。
やれやれ、やっと一人になれた。これでベッドは自分のものだ。




