第42話 暴かれて(1)
頬を撫でる心地よい風が、ひんやりしたものに変わり始めた頃、シグルズはようやく重い腰を上げた。
随分長いことこうしていた気がする。すっかりケネスのことも放ったらかしにしてしまっていた。
どうも調子が狂うな、そう思いながら、ずっしりとする頭と首をぐるぐる回して立ち上がった。
ところが、彼の部下はそこにいなかった。シグルズはきょろきょろと右に左に視線をさ迷わせ、フードの男を探した。なかなか動こうとしなかったから、退屈してどこかに行ってしまったのかもしれない。
「ようやく立ち上がる気になったのですね」
ガサゴソと茂みをかき分けるような音を立てながら、聞き慣れた声が耳に届く。シグルズはホッとして、そちらのほうに歩み寄った。ケネスだった。彼は黒っぽいフードの上にたくさんの枯れ葉や塵やゴミをつけて現れた。シグルズは苦笑いをこぼしながら、
「すまない、すっかり居座ってしまった」
と言った。ケネスはローブについた汚れを払い、答えた。
「何か悟りは開けましたか」
シグルズは肩をすくめた。
「いや、全く。ただ煩悩が増えただけだった。ちょっと冷えてきたし、小腹も減ってきたな」
それは何より、とケネスは嫌味っぽく返事をした。
「あなたが普通の人間だということが証明されて良かったです。私は探検ごっこもできましたし」
「そちらは何か収穫は?」
ケネスは表情ひとつ変えぬまま、シグルズの目をしっかりと見て答えた。
「複数の血痕が」
「それは物騒だ」
「もうすっかり乾いて変色しています。私の目でなければ気付かなかったでしょうね」
「それも、エマを拐ったという悪党と関係があるのだろうか」
「おそらく」
シグルズは小さなため息をついた。どうやら、とんでもない数の悪人どもに彼女は囲まれていたらしい。何者かによって犯罪を指示された素人集団だと、アンソニーから聞いてはいたが、よくぞ無事に逃げおおせたものだ。
「つくづく、私の従者は優秀だな。あいつ、いつの間にそんなに強くなったのだ?」
ケネスは、さも興味なさそうに答えた。
「さあ。あれでも一応、メイウェザーの血筋ですからね」
「血筋、か…」
すると、風の声とは別に、ざわざわと木々を人の手で避けるような音が聞こえ、二人はハッとしてそちらに目を向けた。茂みや低木をかき分けて、小枝の折れる小さな音がして、その人物は確実にこちらへ向かってきているようだった。
シグルズは背中から矢を一本取り、弓を構えた。ゆらゆらとうごめく影の真ん中に焦点を定める。ケネスも、万が一に備えて、何かしらの攻撃を仕掛けようと、ローブの内側に手を入れた。
程なくして、木々の隙間から、一人の男が顔を出した。
「これはこれは…」
男は慇懃な様子でゆっくりと姿を現し、二人を警戒するかのように、距離を置きながら両手を上げた。
シグルズは矢尻を下げて、男を見た。知らない顔だった。だが、鳥肌が立った。美しく整った顔立ちだが、その腹に一物も二つもあるような微笑みが不気味だった。
男は両手を上げたまま、嘲笑うようにこちらを見ていた。
「随分な歓迎の仕方じゃないですか。なかなか来ないから、わざわざこうして迎えにきて差し上げたのに」
シグルズはごくりと唾を飲み込んだ。男は聖職者のローブを身にまとっている。白いローブだ。首にはロザリオがぶら下がっている。見た目は司祭だ。だが、本能的に彼は何かがおかしいと感じた。それが何なのかは口でははっきり説明ができない。ただ、どことなく、まるでこの世のものとは思えぬような、妖しげな気配を感じずにはいられなかったのだ。亡霊にしては実体がはっきりしすぎているし、十字架を身に付けた体に悪魔が憑いているとも思えないのだが。
「おまえは何者だ」
シグルズは尋ねた。男はにやりと笑った。口元には小さな傷跡があった。
「お話ししましょう。だが、その前に、その物騒なものをしまってくれませんかね。こちらは誓って、丸腰ですよ」
二人は顔を見合わせると、渋々武器から手を離した。シグルズは再び矢を矢筒に戻し、弓を背中に背負い込んだ。ケネスは手を前で組んだ。男は満足そうに両手を下ろした。
「そこの教会の司祭か?」
と、シグルズは尋ねた。
「ええ、そうです。ロイ・アダムスと申します。あなたの忠実な僕から話は聞いていませんか」
「彼は僕ではない。何故、私のことを知っている?」
アダムス司祭は、まるで心の内を見透かすような濃い緑色の目でシグルズをじっと見つめると、笑った。
「あなたが知りたいことがありそうだったから、呼んだだけですよ」
「でたらめなことを言うな」
「でたらめではありません。私は私の子供達のことなら何でも知っているのですよ。私が見せた夢は、お楽しみいただけたかな?」
シグルズは唇を噛んだ。ケネスは怪訝な顔をして彼を見つめた。彼は思い出していた。ここに来たときに感じた、体が炎に飲み込まれるような感覚、頭の中に響く悲鳴、怒号、残像の数々。
この男が見せた?本当に?
アダムス司祭は感慨深そうに大きくため息をつくと、両手を広げて言った。
「素晴らしい。これほど強い力を持って生まれた者は、これまで存在しなかった」
「何のことを言っているのだ」
「とぼけても無駄ですよ。ご自分でも気が付いているのでしょう。およそ人のものとは思えない力を持っていることを」
シグルズは答えられなかった。自分でも、確信が持てなかったのだ。それが人外の力なのかどうか。
いや、本当はずっと前からその存在に気が付いていたのかもしれない。だが、無意識のうちに知らないふりをしていたのだ。まるで、都合の悪い現実から目を逸らすかのように。
「あなたは、蛇だ」
静かに、諭すように、ロイ・アダムスが言った。
「見てみるがいい、自分の姿を。化け物じみた、おぞましい姿を」
傷跡のある薄い唇が、にやりとつり上がった。濃い緑色の瞳が吸い込むようにこちらを見ている。まるで、海にぽっかりと開いた大穴だ。意識が全て、その穴に飲み込まれるかのように、目の前の男に持っていかれそうになる。
シグルズは自分の手を見た。父から受け継いだ腕輪が動き出し、指先から肩に向かって、青白く光る蛇が走っていく。身体中の毛が逆立ち、毒に冒されたように胸が締め付けられ、息ができない。喘ぐように天を仰ぎ、大きく息を吸い込み、どっぷりと吐き出すと、世界は紫色の瘴気に包まれた。
喉が焼け付くように熱く痛む。かきむしりたい衝動に駆られたが、手が出ない。動かそうと思うところに手はなかった。あるのは恐ろしいほど長くうねる体だけ。どこもかしこも鱗に覆われ、鎧のように固いのに、ぬらりと妖しく光っている。
恐ろしさと息苦しさで口を閉じることができない。とても喉が乾いている。息を吐く度に、周囲は紫色の瘴気に冒されていく。割けるほど大きな口には尖った歯が並び、目の前に先端が二つに割れた赤くて長いものがちろちろと見えていた。それが自分の舌だと気がついたときには、彼はぐらりと地面に崩折れていた。
「シグルズ様、大丈夫ですか!?」
ケネスが駆け寄った。彼には何も見えていなかった。ただ、自分の上司と、目の前の胡散臭い司祭がしばし見つめ合ったかと思うと、次の瞬間には魂でも抜かれたかのように、突然シグルズが倒れただけだった。
よかった、息はしている。けれど、ひどい汗だ。一体何が起こったというのだろう。
ケネスはロイ・アダムスを睨み付けた。だが、当の本人は彼になど目もくれず、妖しげな微笑を浮かべたまま、黙って倒れた男を見下ろしていた。蛇の腕輪が、たった今、まるで息を吹き返したかのように、シグルズの手首をぐるりと光りながら輪を描いた。




