第41話 恋と結婚と因縁と(3)
灰色の空
荒れ果てた大地
飛び交う火の粉
人々の雄叫び
川は淀み 流れを止め
木々は荒れ果て 葉が落ちる
血の雨が降る
叫び声も 炎に消える
***
砂利を踏む、乾いた音がする。青々と茂った樹木が風に揺れてざわざわとさざめく。鳥が鳴いている。川面が静かに、午後の太陽の光を跳ね返し、きらめいている。
人の手入れが行き届いていない、町の外れの更にその先に、その館は建っている。
正確には、館だったもの、と言ったほうがいいかもしれない。古い時代に打ち壊され、地上部分はほとんど略奪されて何も残っていないからだ。かろうじて、地下に続く落とし扉と階段、それから土埃とカビの臭いが充満した地下室だけが、その姿を保っていた。
シグルズは、地面につけられた、おびただしい数の足跡と轍に目をとめた。館跡に近付くにつれ、足跡は増え、縄やら、木片やら、布切れやら、空っぽの酒瓶やら、色々なものがあちらこちらに散乱していた。まるで、ここで乱痴気騒ぎでもあったかのようだ。
「随分散らかっていますね。ごみ捨て場にでもされているのでしょうか」
ケネスが辺りを見回しながらため息をついた。
「そうかもしれないが、それだけではなさそうだ」
見ろ、とシグルズが、廃墟となった建物にまばらに残る壁につけられた、黒っぽい血痕を指差した。
「ここで何か騒ぎがあったのだろう」
「もしかして、アンソニーが言っていた?」
シグルズは「ああ」と頷くと、開きっぱなしの落とし扉の下を覗き込んだ。昼間でも薄暗くてあまりよく見えないが、階段の先にはそれなりの空間があり、三百年前の廃墟には似つかわしくない、まだ新しそうな机や椅子が転がっている。それに、千切れた縄も落ちていた。シグルズは眉をひそめた。まさかこんなところで、彼女は捕らえられていたというのだろうか。
町の北にある、川の近くの廃墟が悪党どもの根城になっていたと、アンソニーは言っていた。十中八九、ここで間違いない。知らなかったとはいえ、胸が痛む。どれほど心細く、恐ろしかったことだろう。
「ここが、大司教の館跡なのですか?」
「そうだ」
「もう随分長いこと放置されているようですね」
地下室だけが残り、周囲には樹木が生い茂って目隠しとなっている廃墟は、犯罪に手を染めた連中にとって格好の隠れ家となったことだろう。よもや、かつての権力者の住処だったとは誰も思っていなかったはずだ。
「なぜ先にこちらへ来たのですか?」
ケネスがちらりと上司の横顔を見ながら尋ねた。
「何となくだ」
と、シグルズは答えた。呪いを解くための手がかりを探したかったのか、それとも贖罪のつもりなのか、はたまた誘拐事件の現場を確認したかっただけなのか、彼自身にもよく分からなかった。ただ、呼ばれた、そんな気がしただけなのだ。
それから、シグルズは地上部分もじっくりと眺めた。敷地はそれなりに広く、かなり立派な建物だったようだ。だが、今は一階部分の基礎と石の壁が少し残っているだけ。雑草が生え、苔むしている。まるで、三百年という月日の間に、自然の中に飲み込まれてしまったかのようだ。
ーーーここで、大司教は死んだのだ。
シグルズは、元は家だったところに立った。何も変わったところはない。崩れた壁のてっぺんに、鳥がとまっている。急に暑くなったので、小虫がたくさん飛んでいる。川の水がさらさらと流れている。
シグルズは目を閉じた。何か感じないかと、五感に神経を集中させてみた。
水の流れる音が、パチパチと火の粉のはぜる音に変わる。焦げ臭いにおいが鼻腔をかすめる。怒号、悲鳴、権力が崩れ落ちる轟音。体が熱くなってきた。手のひらを返してみる。指先が燃え、足元から炎に包まれていく。
シグルズは目を開いた。身体中、びっしょりと汗に濡れていた。
何も変わらない。生きている。鳥が小さな鳴き声を上げながら飛び去った。川は静かに流れている。
「シグルズ様、大丈夫ですか?」
背後から、ケネスが声をかけた。
「大丈夫だ」
シグルズは深呼吸をして、辺りを見渡した。白昼夢を見るなんて、どうかしている。
彼は崩れた壁の上に腰を下ろした。川を隔てた向こう側は荒れ地のような平原だった。真っ白な日差しが、少し暖かみのあるオレンジがかった色に変わり始めている。風が、冷たい川面の上を走って、涼しげに彼の頬を撫でる。まるで、三百年前から時が止まってしまったかのようだ。
それからしばらくの間、彼はそこに座って景色を眺めていた。身体がこの場所に縛られてしまったかのように動けなかった。ここが、この世界の始まりのような、それでいて終わりのような感じさえしていた。
***
アンソニーは、もくもくと手を動かすエマを、憎たらしい気持ちで眺めていた。
ーーー俺の気持ちには気付いたんだろう。気付かなかったにしても、何か思うところはあったはずだ。
ところが、彼女は知らんぷりを続けている。彼はただ、少しでも自分の思いを伝えたかっただけなのに、彼女ときたら、結婚はしないと言い切って、それを口にすることさえ許してくれなかった。話を切り出す前に、目の前でぴしゃりと扉を閉められた気分だ。だから、彼は不満だった。それに、
ーーーあんなの、シグルズ様が好きだと言ってるのと同じじゃないか。
彼女が、一生をシグルズに捧げてもいいと言ったのも、すごく嫌だった。彼女は第二の人生だと言っていたけれど、まるで、それが彼のためだけにあるとでもいうような言い方だ。
その人生の中にはシグルズしか存在しないのだろうか。他の人間は入り込む隙もないのだろうか。人生を謳歌し、家庭を持つ喜びを得てはいけないのだろうか。
「お二人とも、遅いわね」
アンソニーの心の内を知ってか知らずか、エマは太陽の傾き始めた、オレンジ色の窓の外の景色を見て呟いた。
そうだな、とアンソニーはそっぽを向いたまま気のない返事をした。エマは、彼が話の後ずっと不機嫌なことにも、時折、じっとりと手に汗を握ってしまうような視線を投げ掛けてきていることにも気がついていた。だが、シャツを繕うことに集中しているふりをして、彼のことはなるべく見ないようにしていた。
ところが、とうとう縫い物も終わってしまったし、気がつけば外はすっかり夕暮れだ。数時間前に出ていったはずの主達はまだ戻ってこない。
「様子を見に行くか」
アンソニーが、彼女に聞こえるくらいのあからさまなため息をつきながら、やれやれと腰を上げた。
結局、何時間も一緒にいて得たものといえば、ちょっとした昔話と、彼女の結婚しない宣言、それと袖のつながったシャツ一枚だけだった。エマは針をしまい、仕上げたものを丁寧に畳んでベッドの隅に置いた。いつも忙しなく動いているアンソニーは、久しぶりにほとんど何もしないでずっと部屋にとじ込もっていたので、すっかり体が固まってしまった。
彼がぐいっと体を伸ばして欠伸をしていると、エマが立ち上がって、じっとこちらを見上げていることに気がついた。
「怒ってる?」
やや不安げな、こちらを窺うような顔つきで、二つのエメラルド色の瞳が真っ直ぐに自分を見つめていたので、思わず彼は笑ってしまった。
「少しね。でももう良いんだ」
そんな顔で見るなんて卑怯だ、と彼は思った。
「おまえが俺のシャツを縫うのを見ているのもなかなか良かった」
と言って、彼は肩をすくめた。エマは困ったように笑い返した。
本当はキスしてくれたら許す、と言いたかったが、自分はあの女たらしの主人とは違う。だから、アンソニーは言うのをやめた。その代わり、彼は彼女が縫ったシャツを手に入れた。シグルズが知ったらきっと物凄く羨ましがるだろう。
シャツはまだこの部屋に置いておこう。後でもう一度、彼女の部屋に来る口実にするためだ。
そして、二人は外に出た。
外は凄まじい夕焼けだった。こんなに空気が澄みきって、空が真っ赤に染まっているところなんてなかなかお目にかかれない。町行く人々の顔が皆朱に染まっている。一足先に夜を迎えつつある、東の紺色の空には、ぽつりと星がきらめいている。
「なんだか気味が悪いわね」
エマは呟いた。彼女の赤い髪は西日を受けて空に溶け、どこまでが夕焼けで、どこからが彼女なのか、その境目がよく分からないくらいだった。
「急ごう」
と、アンソニーは言った。
「じきに夜になる。まったく、手のかかる主達だ」
だが、借りた馬を引きながら、早足で教会まで赴いてみたものの、そこに主達の姿はなかった。それどころか、例のロイ・アダムス司祭まで不在だという始末で、揃いも揃ってどこに消えてしまったのかとアンソニーは苛立った。
「用があるから出掛けてくると、それきりです」
と、誘拐事件があった夜、酸っぱいエールをご馳走してくれた下男が言った。
下男は年の頃がよく分からない男で、少年のようにも、大人のようにも見えた。と同時に、無表情なその顔からは感情が読めず、穏やかで従順な羊のようであり、一方で、獰猛で恐れを知らぬ狼のようでもあった。驚いたことに、これだけ大きく立派な教会でありながら、下働きの者は彼以外に誰もいなかった。
「心当たりはあるか?」
と、アンソニーは尋ねた。下男は頷き、そこから少し離れた、川がある方角を指差した。鬱蒼と木々の生い茂る、森のようにも見える場所だ。
「分かった。馬をありがとう」
そう言って、アンソニーは教会で取り替えてもらった馬を返した。下男は再び黙って頷き、馬屋には主のいなくなった年老いた馬と、今まさに帰還した若い馬、二頭が揃って並んだ。
アンソニーはエマの背中を押し、教会を後にした。エマはちらりとアンソニーを見上げた。彼女が何を言わんとしているか、彼にはよく分かった。
「たぶん、あそこだよな」
エマは頷いた。アンソニーはため息をついた。
「正直、気乗りしないな。あの廃墟に良い思い出なんて一つもないからさ。おまえは、行きたい?」
「当然でしょ」
と、エマは即答した。アンソニーはさらに息を吐いた。
「そうだよな、そう言うと思ってたよ」
「早く行きましょう。夜になるから急ごうと言っていたのはあなたよ」
「ああ」
仕方なく、川がある方角に目を向けた。教会がある敷地から少し離れた先は木々が生い茂り、よく見えない。真っ赤な夕陽が、まるで炎のように背後から二人を包む。
アンソニーは振り返り、目を細めた。逆光になっていてよく見えないが、通りに誰かの人影がある。馬に乗っている。男だ。
アンソニーは息を呑んだ。黒っぽいそのシルエットには見覚えがあった。
彼の様子に気がついたエマも振り向いた。眩しさに目がくらみ、一瞬では分からなかったが、すぐに思い至った。ブレンドンだ。ウィルダネス家の、死んだブライアンの弟の。
アンソニーがエマを制し、前に出た。剣の柄に手をかける。ブレンドンはほんの十数メートル先にいた。馬上から、足を止めて、じっとこちらを見ている。
あの時、ウィルダネス兵は大方捕らえていたが、最初にトールによって肩を負傷していたブレンドンは逃れたのだ。その後は行方知れずになっていたが、よもやここで合間見えることになるとは。
じりじりと、額に汗が滲む。エマは身構え、アンソニーの背後で息を止めて男の様子を見つめていた。
ブレンドンは動かなかった。まるで、獲物が自ら力尽きるのを待つハゲワシのように、ただ、二人をじっと見ていた。背後から夕陽に照らされて、その表情は全く分からなかった。
やがて、悠久の時が流れたかのように思えてきた頃、ブレンドンはふと前を向くと、何もなかったかのように馬を前に進めた。急ぐ素振りもなく、何か奇襲を仕掛けてくるわけでもなく、ただ一人きりで、北へ向かって歩いていった。
アンソニーは剣の柄から手を離した。遠ざかる男の背を眺めながら、えも言われぬ不気味さに何も言葉が出なかった。それはエマも同じだった。あの男が何を企んでいるのか、それとも兄の復讐は諦めたのか、その腹の内など知るよしもなかった。




