第40話 恋と結婚と因縁と(2)
シグルズとケネスを見送った後、エマとアンソニーは宿に残され、時間をもて余していた。急ぎの用事が何もないのは久しぶりだった。
アンソニーは右手を握り締めたり、開いたりして、手の具合を確認しながら、剣をぴかぴかに磨き上げていた。あれから一度も抜く機会がなかったのは喜ぶべきことだ。このまま物騒なことなど何も起こらず、穏やかに旅を終えてフォートヒルに帰りたい。
エマは壁にぴったりとつけられたベッドの上に座って、窓の外を眺めがら、ため息をついた。
「シグルズ様が心配か?」
アンソニーはちらりと彼女を見やると、気のない素振りで尋ねた。せっかく部屋に二人でいるのに、彼女はずっとこの調子だ。アンソニーは自分が空気にでもなった気分だった。まるで相手にされていない。
エマは外の景色に視線を落としたまま答えた。
「心配だなんて…、ケネス様もご一緒だもの」
「じゃあ、どうしてるか気になる?」
「それはもちろん。だって、あの神父様に会いに行くということでしょう?何を話しているのか気になるわ」
エマは窓の縁に頬杖をついた。昨日、シグルズから聞いた話を思い出していた。ハラルドソン家の呪いを解くために、彼は旅をしていると言った。その手がかりが、このガンヒースの地にあると。アダムス司祭が呪いのことを口にしていたならば、会いにいく必要があると。
だが、結局彼はケネスと二人で行ってしまった。自分はまた置いてきぼりだ。話してもらえて、少し信頼されてきたようで嬉しかったのに、再びのけ者にでもされたような気分だ。
ーーー昨日は、一緒に来てほしいって言っていたのに。
エマの心は晴れなかった。ここで起こった出来事を黙っていたから、やはり信用ならないと思われたのだろうか。彼女の様子を見ていたアンソニーは、ため息をついて剣を床に置いた。
「前回この町に来たときに、アダムス司祭に教会のことを聞いただろう?」
おもむろに彼が話し出したので、エマは初めて後ろを振り向いて、「ええ」と答えた。
「その時の事件に、シグルズ様が関係あるとしたら…どう思う?」
「なんですって?」
エマは眉をひそめた。「事件」というのは、初めて二人がアダムス司祭に会った日に、司祭が話してくれた教会の悲惨な過去のことだ。
エマは司祭の言葉を頭の中で思い起こした。三百年前、この教区の中心は、ここヘルギだったこと。あの名もなき教会は、立派な大聖堂だったこと。だが、教会の徴税に住民達が反乱を起こし、大司教の館に火を放って殺してしまったこと。
エマは首を横に振った。
「関係なんてあるわけないわ。だって、事件があったのはもう三百年も前のことなんだもの」
アンソニーは頷いた。
「ああ、たしかにね。それなら、シグルズ様というより、ハラルドソン家が、と言ったほうがいいかな」
「どういうこと?」
エマは顔をしかめた。
「三百年前の事件の当事者は、殺された大司教と、彼を焼き殺した民衆だけじゃない。人々の不満や怒りを教会に向けるように、扇動した者がいるんだ」
アンソニーはエマの顔を見ると、はっきりと言った。
「当時のガンヒースの統治者、シグルズ・ハラルドソン伯爵さ」
三百年前、ノース人のハラルドソン伯爵は、今のストールヘブン近郊の館に居を構えていた。当時は度重なる冷夏に飢饉が重なり、人々は飢え、病に苦しみ、教会と伯爵家双方の重税にあえいでいた。
そこで、人々は税を少しでも減らしてもらおうと、伯爵家に嘆願をしに行った。だが、ハラルドソン伯爵は彼らの要求をはね除け、不当な税額を課しているのは教会のほうだと主張した。当時、ハラルドソン伯爵は、その教区の大司教と非常に折り合いが悪かったのだ。伯爵は、
『おまえ達の要求は大司教に対してすべきだ。あの男は神の御力を盾にして必要以上の税を取り立てている。市民が困窮しているときこそ、慈悲の心を見せなければならないのは教会のほうであろう』
と言った。だが、教会に対する人々の嘆願が無駄足に終わると、彼らは再び伯爵家に赴いた。ハラルドソン伯爵は大司教の振る舞いを批判すると、
『口で言っても分からないのなら、行動で示すしかあるまい』
と、暗に暴動を起こすことを容認するかのような発言をした。そして、その晩、夜のお告げの鐘が鳴り響いた後、人々は大司教の館に押し寄せ、火を放ち、神に仕える者をその手で焼き殺した。
「伯爵は、その件に関しては無罪放免となったものの、結局、ヘルギには禍根を残すことになった」
「それは確かなの?」
エマは尋ねた。信じられないといった面持ちだ。アンソニーは肩をすくめた。
「分からない。三百年前のことなんて、確かめようもないし。だけど、大司教が殺されて、大聖堂がフレイスヴァーグへ移ったのは事実だろ」
そうだけど、とエマは言葉に詰まった。
「シグルズ様は、ご自分のご先祖様がその事件に関わっていたことに、心を痛めていたんじゃないかな」
あの方は優しすぎるんだよ、とアンソニーは心の中で独りごちた。
不意に、部屋の扉がコンコンとノックされて、二人はそちらに目をやった。アンソニーは立ち上がり、返事をして扉を開けた。すると、そこに立っていたのは宿屋の女将だった。
「おくつろぎのところ、失礼を。奥様の荷物をずっと預かっていたんでね、持ってきたんですよ」
そう言って、主人と同じ背丈で同じ体型のどっしりとした女将は、肉付きの良い丸い腕に見覚えのある鞄を乗せて、部屋にずかずかと入ってきた。そして、それをベッドにどさっと下ろした。
「私の鞄だわ!ずっと持っていてくださったのね!」
エマは嬉しそうに声を上げた。女将は得意気に鼻の下をこすると、「当然ですよ」と答えた。
「あたしはね、必ずここに戻ってきてくださると信じてましたよ!だからね、ずっと大事にしまっておいたんですよ。縫いかけのシャツもそのままにしてありますからね」
エマは、ありがとうございます、と鞄を抱きしめ、謝意を伝えた。大切なものが色々と入っていたのだ。
「いいのよ。そんじゃまあ、ごゆっくり。もう、しばらくは誰も来ませんから」
じゃあね、と女将はアンソニーに意味あり気なウィンクをして去っていった。まるで、明るいうちから夫婦二人きりで部屋にこもって良いわね、とでも言いたげだ。
アンソニーは顔が熱くなるのを感じながら、嬉しそうに鞄を開けるエマを見た。彼女は先程までの話などどこかに飛んでいってしまったかのように、ベッドの上で座って荷物を広げ、中のものが本当にきちんと揃っているのか確かめている。
櫛、鏡、タータンのショール、ブローチ、手袋、いくつかの髪留め、肌着もある。それから、良い香りの石鹸、シグルズからもらった金糸、そして、縫いかけのシャツ。
「それ、俺の?」
と、アンソニーは見覚えのある麻のシャツに目をとめ、エマに尋ねた。
「そうよ」
と、エマは答えた。
「あの時、破れちゃったでしょう?だから、片方の袖だけほどいて新しく縫い直そうと思ったの」
そう言って、エマは長い糸がぶら下がったままの、脇が開いた縫いかけのシャツを広げて微笑んだ。
「よく見れば色が違うけど、そんなには分からないでしょう。ああ、でも、そうだわ」
エマは袖をベッドの上に広げて目を凝らした。
「血がついていたんだわ。縫ってるときに、あの人がしつこく話しかけてくるから、針で指を刺しちゃったのよ」
と、エマは不満気に唇を尖らせながら、今や黒く変色してしまった小さな染みを見つけて愚痴をこぼした。アンソニーは思わず笑ってしまった。そして、愛おしげにエマを見つめると、静かにベッドに腰を下ろして、中途半端な姿の自分のシャツを見下ろした。
「そんなの、全然気にならないよ」
アンソニーは縫いかけの袖を撫でながら言った。シャツなんて、いくらでもまた買い直せばいいのに、田舎町で、少ない持ち物を大切に手入れして暮らしてきたエマにとっては、シャツは破れたら直すものらしい。彼は、一人で部屋にこもって、自分のために縫い物をしていた彼女を想像して、嬉しさに頬が緩むのを感じた。
「おまえって、お嬢様のくせに、本当に何でも自分でやるんだな」
と、アンソニーはからかうように言った。エマはむっとして、
「田舎者だからって、馬鹿にしてるのね?」
と、答えた。そうじゃないよ、とアンソニーは笑った。
「そういうところが素敵だって言ってるんだ」
そう言って、アンソニーは、しまったというように口をつぐんだ。エマが目を丸くしてこちらを見ていたからだ。思わず本心が表に出てしまった。そんなことを急に言われて、彼女が変に思ったりしたらどうしよう。
だが、当の本人は、たしかに困った様子ではあったのだが、目を逸らして恥ずかしそうに言葉を探していた。心なしか、頬も赤いような。アンソニーは、ごくりと喉を鳴らした。
「あ、その、ローランではいつもこういうことを?」
彼はしどろもどろになりながら、尋ねた。違う、そういうことを言いたかったのではないのに。エマは言葉少なに、ええ、と答えた。
アンソニーは視線を落とした。すぐそこには彼女の白い手があった。彼はおずおずと自身の手を伸ばし、彼女の手に重ねた。ほっそりとして、思ったよりずっと小さく、柔らかい。エマはびくりと体を震わせ、彼を見つめた。エメラルドのような緑色の美しい瞳が自分を見つめていることに、アンソニーの心は高揚した。
「ローランには…、その、大切な人はいたか?」
その「大切な人」が家族のことではないことくらい、世間知らずの彼女にもすぐ分かった。
エマはおずおずと頷いた。ジェフリーのことを思い出したからだ。一瞬、アンソニーが傷ついたような顔をした。だが、彼女は寂しげに笑って、
「でも、もう、私はローランを出たから」
と、言った。アンソニーはじっと彼女を見つめた。ローランを出たから、何だろう。出たから、その人のことは諦めた?出たから、もう一度相手を探したい?
「それなら」
アンソニーは言った。それなら、俺と一緒になろう、俺を選んでほしい、そう言うつもりだった。だが、エマは彼の言葉を遮るように口を開くと言った。
「だから、私はもう結婚はしないわ。一生、シグルズ様にお仕えするの」
アンソニーは目を見開いた。何も言葉が見つからなかった。
「あなた、昨日言ったでしょ?シグルズ様の望みは自分の望みだって。私もそう。シグルズ様がお望みになることなら、何だって叶えたい」
エマの目は真剣だった。
「シグルズ様にご恩返しがしたいの。本当に呪いがあるなら解く方法を探したいし、昔のことで心を痛めていると言うなら、寄り添って差し上げたい。あの方のお力になれるというなら、一生を捧げても構わないわ」
アンソニーは彼女の目を真っ直ぐに見つめながら、首を横に振った。
「あの方にお仕えしたい気持ちは俺も一緒だ。だが、そのためにおまえの人生を棒に振ることはないんだぞ」
アンソニーの手が熱くなる。力が入るのを感じる。エマはわずかに微笑むと、重ねられた手をすっと引いて答えた。
「私の人生はもう、一度終わったの。これは第二の人生なのよ」
そう言って、彼女は広げられていた荷物を、再び丁寧に鞄の中にしまうと、「シャツを仕上げるわ」と言って、針を手に持った。
それからしばらく、二人とも、一言も口を利かなかった。




