第38話 自白
朝の遅い時間にストールヘブンを出て、一行はゆったりとした足取りでヘルギへ向かったが、昼過ぎにはもう目的地に着いてしまった。警戒していた奇襲もなく、旅路は順調そのものだ。途中、例の名もなき教会の尖塔が目に入ったが、とりあえず昼食をとるためにまずは町に入ることにした。
「旦那!奥様も!よくぞご無事で!」
古い石畳の道をくねくねと進み、町に一軒しかない宿屋にたどり着くと、パリッとして芳ばしそうな炭火とパンの香りとともに、エマとアンソニーにとっては懐かしい顔が彼らを出迎えた。
宿屋の主人は、脂ぎった顔を汗でさらにギラギラと輝かせながら、小さな目玉を真ん丸に見開いて、まるで赤ん坊が初めて立ち上がったときのように歓声を上げた。一行は思わずぎょっとして立ち止まった。
「奥様?」
ケネスがひそひそとエマに尋ねると、彼女は気まずそうな顔をしながら、
「素性を隠すために、サンクレール家の関係者夫婦を装っていたのです」
と、答えた。なるほど、とケネスは納得したような顔をした。シグルズはじろりと白い目でアンソニーを見た。アンソニーは背後から突き刺さるような主の視線を感じながら、宿屋の主人に話した。
「馬を預けたままですまなかった。こちらはサンクレール伯爵の友人だ」
主人は目を丸くして、
「どおりで見目麗しく…!いやいや、一目で高貴なお方だと分かりました!」
と、冷や汗をかきながら姿勢を正し、愛想笑いをした。
なぜこんな辺境の町に次々と伯爵の関係者が来るのだろう。アンソニーは彼の心境など露知らず、部屋をとるための交渉をし始めた。
「今晩、部屋を借りたいのだが、空いているか?」
「ええ、もちろんです!二部屋で?」
「そうだ。今晩だけになるか、それとも数日になるか分からないのだが」
「ええ、ええ、まったくかまいませんとも!皆様のためなら他の客を全部追っ払ったって、部屋を空けさせますよ」
アンソニーは肩をすくめた。実に物分かりの良い主人ではないか。初めて訪ねた時とは雲泥の差だ。
すると、主人はちらちらと周囲を気にしながら、声をひそめてアンソニーに尋ねた。
「それで、あいつは…どうなりましたかね?」
アンソニーは後ろにいるシグルズ達を気にしながら、誤魔化すように手を払った。ヴァイキング達の流行り病の騒ぎがあったために、まだここで起こった一件を主達に話していなかったのだ。
別に知られてまずいことではないが、些細な出来事というわけでもない。さらっと伝えるには内容が重すぎる。それに解決済みであるわけだし、このまま黙って忘れてしまってもいいのでは、という空気が暗黙の了解のようにアンソニーとエマの間に流れていた。
「それは、また後でゆっくり話すよ」
なので、ここで蒸し返されるのは少々都合が悪かった。アンソニーは怪訝な顔つきのシグルズをちらりと見ながら答えた。
「まさか逃げたんですか?」
と、宿屋の主人は尋ねた。
「いや、逃げてない、捕まえたよ」
と、アンソニーは小声で答えた。
「じゃあ、牢屋にぶちこまれたんで?」
「後で話すって」
「やっぱり死刑ですか?なんてこった、いい奴だったのに…」
「まだどうなるか決まってない、裁判すら始まってない。いいか、後で話すから、まずは部屋に荷物を…」
「ああ!」
宿屋の主人は頭を抱えた。薄い床がぎしっと音を立てた。彼のどっしりとした体格のわりに小さな脳みそは、もうほとんどパンク状態だった。彼は生まれてこの方、自分と、金儲けに関わることにしか興味がなかったが、この仕事に就いて初めて人が誘拐されるーーーそれも、自分の宿で、自分の客が、なんて大それた事件が起こったために、自身の評判が落ちないかどうか、ずっと気に病んでいたのであった。
主人は机の上を拳でドンドンと叩きながら嘆いた。
「旦那、私がこの数日間、一体どんな思いで過ごしていたか分かります?あなた方と同じくらい、私もハラハラしていたんですよ!夜が明けても戻ってこなかった時は、もう駄目かと思いましたがね、こうして再会することができて、心底安心したんですよ!」
そう言って、汗なのか涙なのか分からない、ぐっしょりした顔を付き出す宿屋の主人をアンソニーは必死に制した。
「何か問題があったのか」とシグルズが横から顔を出す。アンソニーは「大丈夫です」と答えながら、主人のでっぷりとした肉厚の肩を押し返した。主人はもやは歯止めが利かなくなったかのように、ボロボロと男泣きし始めると言った。
「昔、あいつは本当に良い商人だったのに、残念でなりませんよ。あれでも酒の目利きは一流で、評判は良かったんです。私も相当あいつを買っていてね。なのに、まさか奥様を誘拐するなんて…!」
シグルズとケネスは驚いてエマとアンソニーの二人を見た。アンソニーは今すぐここから飛び出したい気分だった。何故こうなるかもしれないと事前に想像しなかったのだろう。この男の性格を少しでも知っていれば、簡単に予想できたことではないか。エマは困ったように苦笑いをしている。
アンソニーはやけくそになって、机を思い切りバンッと叩いた。
「そこまでだ。こっちは旅で疲れてる。泊まらせる気があるなら部屋の鍵を貸せ」
「あ、どうも、これは失礼を…」
宿屋の主人はぴたりと泣くのをやめ、シグルズとケネスの顔を交互にちらちらと見ながら、アンソニーに二つの鍵を手渡した。アンソニーは大きなため息をついて、それを受け取った。泣きたいのはこっちだった。
部屋は二階です、と指し示すと、シグルズとケネスは冷ややかな目で主人を一瞥し、階段を上がっていった。何か悪いことをしただろうかと、主人は身をすくませ、指を噛んだ。番台の奥から女将が顔を出してきて、「あんた、馬鹿だねえ」と嘆息を漏らした。
「どういうことだ、奥様が拐われたって?」
シグルズは部屋に入るなりアンソニーを問い詰めた。
「しいっ!このボロ宿、何もかも丸聞こえなんですよ」
アンソニーは慌てて、指を立てて口に当てた。他の客がいるかもしれない。この宿は大した広さもないくせに、二階の廊下にはびっしりと、まるで馬房のように客室が連なっているのだ。当然、一部屋一部屋は大人が横になって寝れるくらいの幅しかない。
二部屋ということは、この狭い部屋で俺達三人が寝るということか?アンソニーはふと、それは良くないと思い直し、後でもう一部屋追加できるか聞いてみようと考えた。
「ここで何があった?ただ私達を待っていただけではなかったのか?」
シグルズはあきらかに苛立っている様子だった。部屋が狭すぎるせいで逃げ場もない。エマが不安そうにアンソニーを見上げている。彼は観念したように息をつくと、数日前にこの場所で起こったことを主人達に話した。
なかなかヘルギに現れないシグルズとケネスを案じて、彼が一人で町の外に探しに出たこと。
留守の間に、エマが泊まっていた商人に薬を当てられ、連れて行かれたこと。
近くの廃墟に捕らわれていたが、彼が彼女を助けたこと。それから、犯人達をサンクレール家の警備兵に付き出したこと。
シグルズとケネスは、表情を変えることなく、彼の話を聞いていた。エマはアンソニーが淡々と説明している横で、だんだん申し訳ない気持ちになってきた。もとはといえば、バーナードの口車に乗せられて油断した自分が悪いのに。
「シグルズ様、今まで黙っていて申し訳ありません。私が隙を見せたせいで、そのようなことになってしまったのです」
まるで罪を自白するようなアンソニーの説明が一段落すると、エマはおずおずと口を開いた。狭すぎて圧迫感のある部屋が、取調室のようだった。
「彼らの狙いは、最初から私でした。何者かに指示されていたようでした。アンソニーは私を助けてくれただけです。何も悪いことはしていません」
そう言って、彼女はしゅんと項垂れるように頭を垂れた。シグルズは額に手を当て、首を横に振った。
「あなた達が悪いわけではないのは分かっている」
シグルズは、はあと大きく息をついた。
「問題は、それを今まで私に黙っていたことだ。犯人を捕まえたから解決だって?そんなわけない。そいつらはただの切り捨てられた末端部分に過ぎない。本質はもっと別のところにある」
アンソニーは唇を噛んだ。そんなことは分かっている、とでも言いたげな顔だった。不満そうな従者の顔を見たシグルズは、落ち着きを得るために、深く息をついて言葉を探した。だが、アンソニーにはそれが、自分に対して呆れているのだという態度に見えた。
アンソニーは少々むっとしながらも、主人の怒りの矛先を自分に向けようとした。といっても、シグルズがエマに本気で怒ったりなどするわけもなく、ただ怒られて不貞腐れた子供みたいに、ちょっと生意気な口答えをしてみたいだけだった。
「シグルズ様のお怒りはごもっともです。ですが、どうしようもなかったのです。エマはもうずっと狙われ続けています。分かっていたのに、エマを一人にした俺の責任です」
アンソニーはひざまずき、頭を垂れた。結局、主人には逆らうことなどできないのだから、こうするのが一番だった。エマは慌てて、彼を庇うように、自身も膝を床についた。
「いいえ、私も軽率だったのです。アンソニーに部屋を出るなと言われていたのに、あの人の口車に乗せられて、ついドアを開けてしまいました。私が悪いのです」
揃って頭を下げる二人を見下ろし、シグルズはため息をついた。
シグルズは本気で二人を責めたいわけではなかった。というより、全くそんなつもりはなかった。ただ、そのような重大な事件に巻き込まれていたことを今まで知らなかった自分に腹が立っていたのだ。それがどういうわけか、彼らに対して苛立っているふうになってしまった。
それに、彼はここで起こったという誘拐事件に、裏で少なからずメイウェザー家が関わっているのだろうと直感していた。顔つきを見る限り、アンソニーもそれは分かっているのだろう。この良くも悪くも真っ直ぐな従者は、自分の生家が仲間を危険に晒したことを許せないのだ。そして、恐らくエマはまだそのことに気がついていない。
「もう良い。立て、二人とも」
と、シグルズが言うと、二人は静かに立ち上がった。そして、彼はまずアンソニーの顔を見て、吊り上げていた眉を戻すと、なるべく穏やかな口調で言った。
「主人を案じて探しに出たのは従者として間違っていない。エマを一人にしたのは悪手だったが、すぐにヘルギに来なかった私も悪い」
アンソニーは後ろで手を組み、頭を垂れた。さらに、シグルズはエマに顔を向けると言った。
「一人で私達を待つのはとても心細かっただろう。あなた一人に恐い思いをさせてすまなかった。許してくれ」
エマはおずおずと彼を見上げた。彼は、少し傷ついたような、しかし労るような優しい目をしていた。なぜ、そんな目で自分を見るのか、なぜ彼が謝るのか、エマは分からなかった。そしてどういうわけか、その目で見られると妙に居心地が悪くなって、すぐにでも逃げ出したいような気分になった。
シグルズは場の空気を切り替えるように、大きく息を吸い、にっこりと笑うと両手を広げた。
「さあ、話はここまでだ。二人ともよくやってくれた。下に下りて食事にしよう。この匂いにはもう耐えられん」
シグルズは狭い部屋の扉を開けて外に出た。ケネスもアンソニーの顔を見て、意味あり気な視線を送ると、彼に続いた。エマもアンソニーの腕に触れ、行きましょう、と目で訴えた。彼は彼女の手に自分の手を重ねたが、彼女は少しこちらを見るだけで、するりと抜け出していった。
階段を下りていく主達の背中が見えた。階下からは焼けたパンと、たくさんの野菜や魚が溶け合った、まろやかな良い匂いが漂っていた。




