第9話 逃亡(2)
ハラルドソン一行は海沿いを東へ馬を走らせていた。まだ辺りは暗く、霧も濃く立ち込めていたのでなかなか思うようには進めなかったが、出来る限り速足で歩を進めていた。
黒髪の従者はアンソニーという名で、手にランタンを持ち、危険がないよう辺りを警戒しながら先導していた。エマはハラルドソン司祭の大きな体にすっぽりと収まって、項垂れながら馬の背を見ていた。
司祭は、しょんぼり小さくなってしまった彼女の背に、自分の胸をしっかりと重ねると、寒くありませんかと尋ねた。エマは寒さは全然感じなかったが、すっかり意気消沈していた。
「もうすぐあなたの故郷ですよ」
ハラルドソン司祭がそう言ったので、エマは少し顔を上げた。ほとんど灯りのない中でも分かる、見慣れた家々の屋根と、こぢんまりした桟橋、船。エマは胸が締め付けられた。
丘の上に、この辺りでは少しだけ立派な石造りの屋敷が見えた。灯りはない。庭にはしまい忘れた農具が転がっている。
小さな小川が流れている。昼間は黄色く美しいハリエニシダが、暗がりにぼんやりと甘い香りを漂わせている。その先はどこまでも続く牧場、羊達が眠る小屋。マーサと、その息子達、そしてジェフリー。
小さな町が過ぎ去るのは一瞬だった。
「立ち寄ることができず、申し訳ありません」
慰めるように司祭が言った。いいえとエマは首は横に振った。手の甲に一粒、涙が落ちた。
ローランを過ぎ、しばらく行ったところで一行は馬を休めることにした。ここまで急ぎ足で来てしまった。あまり無理をすると目的地まで辿り着けないかもしれない。二人乗りは馬に負担がかかるのだ。
「でも、どこへ?」
アンソニーが尋ねた。主人に忠実な従者は、冤罪にかけられたかわいそうな田舎娘を城から連れ出すことに注視していたため、まだ目的地を知らされていなかった。
「フォース砦へ向かう」
腰を下ろしながらハラルドソン司祭が答えた。アンソニーは聞いたことがなかったが、地元の住人であるエマは伯爵様のご親戚がいらっしゃるところですね、と答えた。
「私のような厄介者を入れてくださるでしょうか」
エマは自信なさげに膝をかかえて俯いたが、ハラルドソン司祭は心配いらない、と彼女を励ました。
「アダム・ゴードン卿から書簡を預かっているのです。歓迎はされないかもしれませんが、馬を交換するくらいのことはしてくれるでしょう」
エマは少し驚き、そうですか、と答えた。アダム・ゴードンが自分を逃がし、その後の手配までしてくれたことをありがたく思う一方で、この親切な司祭や自分の家族が危険にさらされないか気がかりだった。
「あの、もう一人の方は大丈夫でしょうか」
ふと、あのフードをかぶっていた怪しげな男を思い出し、エマは尋ねた。
「ああ、ケネスのことですね」
司祭は答えた。
「彼は少々やることがあったので、屋敷に残ってもらいました」
焚き火の火に照らされて、プラチナブロンドの髪が輝いている。薪を木の枝でつつく度に、手首に嵌められた蛇の腕輪が妖しく揺れた。
「彼なら大丈夫でしょう。なんといってもこの教区で一番権力のある大司教と一緒なのです。治安判事など、どうとでもなるでしょう」
教会はもみ消しは得意なのですよ、と彼は得意気に話した。使用人の男は呆れた様子でため息をついた。
「シグルズ様、お話はその辺で。俺が見張りをしてますから、お二人は少しお休みになってください。あなたも、疲れているでしょう」
ああ、そうさせてもらおう、司祭はそう言って木にもたれた。
「よろしければ肩をお貸ししましょうか」
外套を広げ、腕の中においでとばかりに、にやりと悪戯っぽい笑みをエマに向ける。一瞬ドキリと心臓が高鳴って、エマは恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「結構です、向こうで寝ますから」
あまり遠くへ行ってはいけませんよ、背後から笑みを噛み殺したような司祭の声が聞こえ、エマはむっとした。それと同時に、ほんの少しだけ気が楽になるような心地もした。緊張を解そうとして言ってくれたのだ、そう思い、今は体を休めることに集中しようと、エマは静かに目を閉じた。




