第37話 旅立ちの朝
「お姉様、本当に行っちゃうの?」
ジョーが顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうにしながら、エマを見上げた。
「ごめんね、ジョー。私達やらなきゃいけないことがあって、ずっとここにはいられないの」
エマはしゃがみこんで地面に膝をつくと、ジョーの柔らかい頬を撫でた。小さなレディの小さな手には、しっかりと新しい赤毛の人形と、木でできた馬が握られている。ジョーはしゃくりあげるのを我慢できずにえづきながら、ぎゅっと人形を握り締め答えた。
「また帰ってきてね。絶対待ってるから。それまでこの子をお姉様だと思って大事にする」
と言って、ジョーは人形を両手で抱えてわんわん泣いた。
「この子は戦乙女よ、馬に乗って戦士達の魂を神様の元へ運ぶのよ」
いつかまた一緒に遊べる日を想像し、次の約束を取り付けるかのように、ジョーは鼻水を足らしながら神様ごっこの新作を披露した。
エマはうっかりもらい泣きしてしまいそうになりながら、ジョーの小さな体をぎゅっと抱き締めた。
「結局、サイモンはどこかへ行ってしまったのだな」
がらんとした魔女の部屋を眺めながら、シグルズは呟いた。ついこの間まで、この部屋で二人の男が寝かされていたのに、今となってはもう誰もいない。一人はこの世から消え去り、もう一人はこの世のどこかに行方を眩ませてしまった。ヴァイキング達もいなくなり、シグルズら一行も旅立とうとしている。残されたのは、ここで人が死んだという噂話と、魔女達だけだ。
「仕方がないよ。ここにいたって良いことなんか何もありゃしないんだから」
と、アデルは言った。
「おまえ達も早く出ていったほうがいい。ジョーや、これから生まれてくるイレインの子供には気の毒だけどね、私達みたいなはぐれものには、この世の中っていうのは地獄みたいなもんなのさ」
「あんた達はこれからどうするんだ?」
と、アンソニーは尋ねた。アデルは肩をすくめた。
「どうもこうもないよ。ほとぼりが冷めるまではじっとしてるしかないね。買い物に行きづらいのが困ったもんだけど、まあなんとかなるだろう。別に今に始まったことじゃないからね」
「まだ足りないものがあるなら、今のうちに俺が買ってくるよ。豆や穀物なら日持ちするだろう」
「なんだい、なんだい、世話焼きの孫にでもなったつもりかい!?」
アデルは目を丸くして顔を付き出し、笑った。近くで見ると、ごわごわの顔とぎょろりとした目が、まるでトカゲか何かみたいだ。薬草に混じってほんのり老人臭い感じもする。口臭かもしれない。
アンソニーは顔をひきつらせてのけ反り、そういうつもりじゃない、と反論しようとしたが、すぐさまベラが話に割って入ってきたので、それどころではなくなった。
「あたしはナツメも欲しいな!栄養たっぷりだし、美容にもいいんだよ」
あと蜂蜜もね、とめそめそしながら隣でジョーが呟いた。
「わかった、わかった、買ってくるよ!」
三人の女達に詰め寄られながら、アンソニーはたじたじになって、たまらず部屋を飛び出していった。
「彼はここに残ったほうが良いのでは?」
と、ケネスは他人事のように呟いた。すっかりこの家に馴染んでいるようではないか。シグルズは肩をすくめ、エマは苦笑した。
「まあ、でも、本当に潮時かもしれないね」
アデルがため息をつきながら言った。
「このところ、この町じゃ、だいぶ私達みたいな女は蔑まれるようになってしまったし、本当に魔女狩りなんて野蛮なことになる前に、どこかへ撤収したほうがいいのかもしれない」
ジョーが不安そうな顔をして母親を見上げた。ベラは娘を見下ろすと肩をすくめて、知らないよ、という顔をした。
かつては国中どこにでもいた「賢女」と呼ばれた魔女達も、今ではほとんどいなくなってしまった。一昔前までは、どんな町でも村でも、必ず一人はそういう女がいたはずだ。だが、教会の教えが浸透し、人々の集落が成熟していくにつれ、「賢女」は古い時代の遺物になってしまった。
それどころか、世の中で起こる様々な悪いことーーー飢饉、病気、戦争、それから、個人的な恨みや、不幸、姦淫まで、統治者や教会では制御しきれない何かが起こると、全て彼女達のせいにされた。
つまり、人々を従える者にとって、「賢女」とは不満の捌け口にちょうど良い「魔女」だったのだ。
「それにしても、あんたが神父様だったなんて、全然気づかなかったよ!私も勘が鈍ったもんだね。普通、年取るとその手のことには鼻が利くようになるもんだけどね」
シグルズは肩をすくめた。追手に追われてから、いつもの黒いローブはずっとしまい込んである。今までは司祭であるほうが都合の良いことが多かったのだが、今となっては逆だった。いつどこでまた奇襲に合うか分からないし、身分を隠していたからこそ、この場所にも入れた。この魔女の老婆を騙すことができたなら、変装は上々といったところだろう。
「それじゃあ、私達は本当にお暇しよう。エマ、その小さなレディによくお別れをしておくように。また後でアンソニーが来るだろうが、私達はもう行くよ」
そう言って、シグルズは女性なら誰もがうっとりしてしまうような甘い笑みを浮かべて、部屋の中から出ていった。ケネスも彼に従い、黙って退室した。
ジョーが最後にエマのスカートの裾を掴んだ。
「ねえ、お姉様、シグルズ様もなかなか素敵じゃない!あたし、応援してる」
エマは苦笑いして再びしゃがみこみ、ジョーの澄み切った朝みたいな瞳を見つめながら、彼女の手をしっかりと握った。
「ありがとう」
それから支度を整えて、一行は再びヘルギへ向かうことにした。
アンソニーは市場で最後のおつかいをしてから、一人、女達の家に戻って別れを告げた。ベラはいつでも戻っておいでよと、彼の首にまとわりつき、ジョーは「駄目!あたしのお婿さんなんだから!」と母親のスカートをぐいぐい引っ張って引き剥がそうとした。
やっとのことで、彼女達から命からがら逃げ帰ってきたアンソニーは、その帰り道、見覚えのある一人の男の影を町の片隅で見つけた。
影は通りの外れの建物から見え隠れしていた。それはぴったりと壁にへばりついてしばらく動かなかった。誰かとひそひそ話しているようだったが、声は聞こえない。やがて、その影はすっと消えるように去っていった。
アンソニーは試しに少しだけ追いかけてみたが、建物の角を曲がった時にはその影はもう跡形もなく消えていた。彼は頭をぽりぽりと引っ掻いて、それ以上追跡するのはやめた。余計なことに首を突っ込むのはよくないな、と思ったのだ。主人の悪い癖がうつったのかも。
「やっと全員揃ってヘルギに行けるな」
アンソニーが戻ると、シグルズら主人達は既に支度を整えて準備万端といった様子だった。トルフィンが馬を一頭譲ってくれたので、シグルズは満足して嬉しそうだった。そもそも馬に怪我をさせてしまったがために、余計な回り道をするはめになったのだ。これで安心して旅を続けられる。
アンソニーが急いで荷物を背負って、アダムス司祭から借り受けた荷馬に乗ろうとすると、シグルズは怪訝な顔をして彼に尋ねた。
「その馬は何なのだ?」
アンソニーは肩をすくめた。
「俺の馬です」
シグルズは首を横に振った。
「どこかで取り替えたのか?そうでなければ、馬が縮んだとしか思えん」
「年をとると皆背が縮むと言いますから」
「冗談はよせ。そんな馬じゃまともに旅なんかできないぞ。ご婦人だって乗馬をするときにはもっと立派な馬に乗るものだ」
と、シグルズが言うので、アンソニーはエマを見てみた。なるほど、たしかに彼女の傍らにいる馬のほうがはるかに立派だった。
エマは困ったように笑って、「私と交換する?」と尋ねた。アンソニーは素知らぬ顔で、一番貧相な馬に跨がった。例の教会の前で立ち往生していた時は、これよりもっとみすぼらしい馬に荷馬車をひかせていたなんてとても言えなかった。
「ええ、冗談です。ちょっと訳あって…、借り物なんですよ。俺の馬はちゃんとヘルギにいますから」
あの宿屋の主人ががめつい真似をしていなければね、とアンソニーは心の中でため息をついた。またあそこに身を寄せることになるのかと思うとうんざりしたが、ヘルギには宿は一軒しかない。これ以上アダムス司祭の世話になるのは絶対に嫌だ。仕方がない。
「行きましょう。うかうかしていると、また別のヴァイキング達がやって来ますよ」
と、ケネスが言った。そうだな、とシグルズは返事をして、エマに視線を送り、微笑んだ。エマはパッと顔を背けた。まるで知らない大人に話し掛けられた、小さな子供みたいに。シグルズはきょとんとして、彼女の赤い後頭部を見るしかなかった。
「何か、彼女の気に障るようなことを?」
と、ケネスが白い目でシグルズを見て尋ねた。ご婦人の気を引くのも、気を悪くさせるのも、この上司は大得意なのだ。
シグルズはむっとして、一言「行くぞ」と言うと馬を走らせた。一行はそれに続いた。
夏至の近付く、暖かい朝だった。太陽は一年で一番高く光輝き、影は一年で一番小さく短くなる頃。人も、動物も、植物も、生けるもの全てが生命力に満ちあふれ、子供は育ち、大人は恋に落ちる季節だ。




