第36話 シグルズという名の男
シグルズという名は、はるか昔、ノース人の伝説的なヴァイキングである、蛇の目シグルズに由来する。
彼がこの世に生を受けたその時、まだ赤ん坊だった彼の青い目は今よりもっと神秘的に揺らめき、瞳の中には自分の尾を噛む蛇の輪が見えていたという。それを見た父親レオナルドは、この子は蛇の加護を持って生まれた子に違いないと確信し、彼を、同じように不思議な瞳を持っていたヴァイキングになぞらえて、シグルズと名付けたのであった。
蛇というのは、ハラルドソン家にとって特別な生き物だった。家紋は十字に絡み付いた蛇だ。シグルズが腕に嵌めている金の腕輪も蛇なら、当主が代々腰掛けているビロードの椅子の肘置きも蛇だった。
だが、ハラルドソン家は蛇を常に恐れていた。自分の身体に巣くう、目に見えない蛇が、いつ自分自身を食い荒らすか分からなかったからだ。恐れているからこそ、まるで神獣のように崇めることで、常にさらされている危険ーーーつまり、一族にかけられた呪いから身を守ろうとしていた。
「ハラルドソン家は、もともとノース人の血筋なのだ。昔、ウォーデン・フリッカ諸島から、このガンヒース地方まで、ノースガルドに支配されていたことは知っているだろう。我々の先祖は、その時にこの地を治めていたノース人伯爵なのだ」
と、シグルズは話した。エマは頷いた。シグルズの眩しいプラチナブロンドの髪も、透き通るような白い肌も、見上げるほどの背丈も、全部ノース人の血筋だった。
彼が言うには、巷で流れているようなハラルドソン家とメイウェザー家の呪いの噂話は、多少脚色されてはいるが、大筋は間違っていないということだ。どちらも当主は不遇の死を迎えることになっていて、ハラルドソン家で真しやかに言い伝えられているのは、
「最も信頼している者に裏切られて死ぬ、ということだ」
と、シグルズは言った。
「呪いが嘘か本当かは分からない。我が家は国政の重要な役職につくことも多いし、人に恨まれるなんて日常茶飯事だ。だが、それでも家系図を辿っていけば、皆、裏切りだの、暗殺だの、そんなのばっかりだ。事実かどうかは知らないし、全部を確かめたいとも思わない。ただ、ひとつたしかなのは、ハラルドソン家の歴代の当主が皆、いつも人を恐れて、誰のことも信じることができず、一生を孤独の中で過ごしてきたということだけだ」
エマは眉をひそめて、首を横に振った。そんなの悲しすぎる。いつ裏切られるか、寝首をかかれるかと恐怖に怯えながら、誰のことも信じられないまま一生を過ごすなんて。権力を持ちすぎた名家のさだめだろうか。だとしたら、その家に生まれた子供はなんて不幸なのだろう。
シグルズは静かに話を続けた。
「私は長男だから、本当なら私が家を継ぐはずだったし、ずっとそのつもりで生きてきた。誰も信用せず、誰にも心を開かず、誰とも干渉し合わない。四六時中、気を張って過ごす日々だ。父も母も、私を厳しくしつけたし、私もそうやって生きるのが当たり前だった。だが、ある日、弟が言ったのだ」
シグルズは目を細めた。弟の姿を思い出しているようだった。懐かしい、我が家の思い出。
彼には両親の他に、三人の姉と、一人の弟がいた。姉達は皆とっくに家を出ていたが、弟は妻を迎え、子を成した今もまだ家にいた。つまり、
「この家は自分が継ぐと」
そう言ったのであった。
「呪いというのは曖昧で、長い歴史の中ではっきりしなくなった部分もある。この蛇の呪いは、たしかに女達には関わりがない。ハラルドソン家の女達は皆健康で長生きだ。だが、男達全員に関わりがあるかといえば、そうでもない。次男、三男には普通に天寿をまっとうした者もたくさんいる。それなら、呪いは誰に向かってかけられているのか。当主なのか、それとも長男なのか」
エマは首を傾げた。シグルズは微笑んだ。
「ロジャーは、果敢にも、呪いを分け合おうと言ったのだ。私一人で背負う必要はないと。長男である事実は変えられないが、当主なら変えられるだろうと、そう言ったのだ」
ロジャーというのは、シグルズのたった一人の弟で、今やハラルドソン家の次期当主となる男だった。柔和で人当たりは良いが、心を閉ざしがちで、誰とも群れたがらない兄シグルズと違って、弟のロジャーは社交的な性格だった。いつもたくさんの人に囲まれていて、付き合いが良く、その上、頭が良くて話上手だ。気の利いた冗談を言っては周りの人を笑わせて、社交界では人気者だった。彼ほど人の懐に入り込むのが上手い人間は他にいない。
見目の麗しさはシグルズのほうが上だったが、話術、説得力、機敏さ、勘の良さ、人としての魅力、その全てをロジャーは兼ね備えていた。しかも兄に負けず劣らずの勉強家で、政治にもよく通じていたので、当主としての器は充分だった。
「懐かしいな。昔はよく、姉達にもロジャーにも、おまえが良いのは顔だけだ、とからかわれたものだ」
アンソニーもケネスも肩をすくめて苦笑した。まるで、今もそうだと言わんばかりの表情だ。シグルズは彼らの反応にややむっとしながらも、話を続けた。
ロジャーはこうも言った。
『兄上は優しすぎるのですよ。それに、いざというときの決断力もない。だから、当主の座は私に譲ってください。その代わり、あなたはその蛇の眼で、私達の呪いを断ち切る術を探してください』
今思えば、そのように言ったのも、兄一人に負い目を感じさせないためだったのかもしれない。
「呪いを分け合う」というのは、ロジャーにとってとても勇気のいることだっただろう。本来なら負わなくても良いはずの負債を、自ら背負い込んだのと同じ、いわば、共同債務者になったようなものだ。シグルズは反対し、母や姉達は皆口をつぐんだが、当主である父親はそれを認めた。彼自身もまた、呪いを断ち切る方法をずっと探していたからだ。
だから、シグルズは当主になるのをやめざるを得なかった。その代わり、当主が受け継ぐはずの、蛇の腕輪と剣を父からもらい受け、彼は聖職者になる道を選んだ。司祭になれば、家庭に縛られることもなく、一人で呪いと向き合うことができるからだ。それに、聖職者として権力を持つことで、少なからずロジャーの力になれると思ったのだ。
「今年になり、雪解けと同時に私は旅に出ることにした。表向きは巡礼だ。だが、本当の目的は呪いを解くための手掛かりを得ることなのだ」
今から三百年前、ここガンヒースの地で、最後のノース人伯爵の血が途絶えた。その男の名は、シグルズ・ハラルドソン。奇しくも、今ここにいるシグルズと同じ名だった。
彼の最期は悲惨だった。ダルヘイムとノースガルド双方の政争に巻き込まれ、王宮に顔を出すため《北の大陸》に向かう最中、船ごと海に沈められてしまったのだ。
彼の遺体を見た者は誰もいない。妻も、同乗者も、全員海の底に沈んでしまったからだ。ただ、ダルヘイムには娘が一人、ノースガルドには息子が一人、彼の子供達がそれぞれ残されていた。息子はノースガルド王室の人質だった。ところが、その息子もまた事故で水死してしまったのだ。つまり、現ハラルドソン家は、ダルヘイムに残された唯一の娘の系譜だった。
「私達は、呪いの原因が、その最後のハラルドソン伯爵の死にあるのではと考えている。人を呪う一番の原動力は恨みだ。ハラルドソン伯爵と、その息子が暗殺されたことは、我が家に言い伝えられている呪いの内容と合致する。だから、私達はこうしてガンヒースまでやって来たのだ」
シグルズが「私達」と言うのは、彼の目的を同行者であるアンソニーとケネスも共有していたからだ。
「俺はこの前も言ったように、メイウェザー家の人間だ。だが、子供の頃、家を出てからずっとシグルズ様に仕えてきた。それはこれからも変わらない。シグルズ様の望みは、俺の望みだ」
と、アンソニーは言った。ケネスは腕を組んで二人を眺め、
「私は聖アンドレアスでご一緒してからずっと、シグルズ様に従う者の一人です。彼ほどの熱意はありませんが、きっと役に立っていることでしょう」
と、熱っぽく語ったアンソニーを横目に言った。
「そうだとも」
シグルズは両手を広げた。
「いつかは私も死ぬだろう。もしかしたら、この両隣にいるどちらかに殺されるかもしれないし、今や眠ったまま目を覚まさない父のように、何が原因か分からずにそうなることもあるかもしれない」
アンソニーとケネスは顔を見合わせ、片方の眉を吊り上げた。
「だが、ロジャーが呪いを分け合うと言った以上、私はもう逃げるのをやめる。一人では解決できない。信頼できる仲間が必要だ。だから、たとえ誰かに裏切られ、殺される運命だとしても、私は私の信じる者を側に置くと決めたのだ」
シグルズは立ち上がり、エマのほうに歩み寄った。ベッドがぎしりと音を立てて軋み、コツコツとブーツの踵が鳴り響いた。シグルズはエマの前に立つと、穏やかに微笑んで彼女の目をじっと見つめた。
エマも彼の目を見つめ返した。不思議な海のような青い瞳の中に、一匹の蛇が輪を描くのが見えた気がした。
「一緒に行こう、エマ」
シグルズは言った。まるで言葉に魔力でも込められているみたいに、エマは彼から目が離せなかった。背後から、アンソニーがじっとこちらを見ていた。
「あなたに一緒に来てほしいんだ」




