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《狭間の国》のエマ ~捨て駒令嬢と蛇の神父様  作者: 夜中メグ
第二章

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第34話 ポールの死

 翌朝、サイモンは人の気配で目が覚めた。たくさんの人が、自分の頭上で忙しなく動いたり、ひそひそ話したりしている気配だ。だが、彼らの注意がこちらに向けられているわけではないことはすぐに分かった。目を開けて見えたのは、人々の後ろ姿ばかりだったからだ。

 眩しい。朝日がささやかな小窓から真っ直ぐに入ってくる。光はちらちらと部屋の中の埃っぽい空気を照らしながら彼の真横に差し込んでいる。煙るような赤い髪が視界に飛び込んできた。


「ああ、よかった、目が覚めたのね」


 赤い髪の女がサイモンに気がつき、振り向いた。


「すっかり熱が下がったみたい。あなた、若いから治るのも早いのね」


 女はサイモンの額に触れると、胸を撫で下ろしたかのように甘く微笑んだ。


「兄さんは?」


 サイモンは尋ねた。ポールを探していたのだ。人が多くてよく見えない。隣に寝ていたような気がしたのに。

 サイモンは緩慢な動作で重い半身を起こした。赤毛の女が彼の背中に手を添える。集まっていた人々が、皆こちらを見ていた。老婆、痩せた女、それから金髪の男。頭がぼんやりしているのか、目がかすんでいるのか、人々の顔はよく分からなかった。

 一つだけはっきりしていたのは、彼らのたもとで仰向けに寝かされている男の顔だけだった。じっと横たわったまま、動かない一人の男。サイモンは、その青白い顔を見て飛び上がった。


「兄さん!」


「駄目よ、急に動いたりしちゃ!」


 エマは彼を制した。だが、サイモンは今しがた目が覚めたばかりの病人とは思えぬ力で彼女を振り払い、眠る兄の傍らに駆け寄った。ふらついて、もつれそうな足を必死で持ち上げながら。


「兄さん!」


 サイモンは眠る兄の顔を見下ろした。色のない顔、色のない唇、動かない体。横に置かれた椅子にはアデルが座って、ポールの手首に手を当てて脈がないかと探っていた。その隣には、神妙な顔をして口に手を当てたまま黙りこくるベラ。それからシグルズ。

 誰も喋らない。皆、時が止まったように動かなかった。皆、ポールを見ていた。太陽の光でさえ、真っ直ぐにポールを照らしていた。


「兄さん!兄さん!」


 サイモンは兄の体を揺らした。まだ仄かに温かいではないか。だが、兄の口はぽかんと開いたまま閉じないし、筋力を失った目蓋も同様に薄く開いている。中の瞳は何も映していない。光が消えている。アデルはポールの目蓋に手を落とし、そっと目を閉じさせてやった。


「おい!この魔女め!兄貴に何をした!」


 サイモンはアデルに怒鳴り付けた。顔は真っ赤で、目には涙が浮かんでいる。アデルはため息をつき、首を横に振った。


「残念だけど、私らにしてやれることはもう何もない。静かに見送っておやり」


 サイモンはあらんかぎりの声を振り絞って叫んだ。


「嫌だ!!」


 ベラが横で顔を背け、口元を覆った。シグルズは彼女の肩をさすって慰めた。アデルは椅子に座ったまま動かなかった。サイモンは声を上げて泣いた。


「兄さん!返事をしてくれ!返事をしてくれよう…」


 泣き崩れるサイモンを後ろから眺めながら、エマは体が固まったように動けなかった。

 彼女はただ、じっと見ていた。小さな部屋の、小さな窓から、生を終えた一人の男を包み込むように照らす穏やかな朝日を。光が何本もの白い筋となって輝き、肉体を失った男の魂を神の御元へ導かんとする、その様を。

 サイモンの泣きじゃくる声が、ベラのすすり泣く音が、どこか遠くの出来事のように、ぼんやりと頭の中で響いていた。


***


 その日の午後になってから、半ば強引な取り決めによって、船に閉じ込められていた人々は解放された。エマは港に行って、アンソニーらにポールが亡くなったことを伝え、それを聞いた商人達が全員立ち上がって暴れ、回復ぶりをアピールしたのだ。

 実際、彼らの病状はすっかりよくなっていた。サイモンも、悲しみのどん底に落とされてはいたが、熱は下がっていた。ただ一人、ポールだけを天国に旅立たせ、ヴァイキング達を襲った高熱の病は集束したのだ。

 船の男達は、自分達の親分を失ったことをにわかには信じられないような様子だった。最初にそれを聞いたとき、トルフィンは顔を真っ青にして、それから今度は真っ赤に血を上らせて、実際にこの目で確認するまでは納得できないと、混乱して込み上げそうになる涙を必死に抑えていた。

 体の大きなヴァイキング達が続々と船から降りてくるのを港の職員達は詰所から眺めていた。昨晩、兵士達とどんちゃん騒ぎをして飲み過ぎたせいで、皆具合が悪かった。だから、一団の中に配達係の黒髪の男が混じっていても、誰も気にとめなかった。

 それから、彼らが揃って魔女達の住処へ赴くと、いよいよポールの死が現実のこととして受け入れざるを得なくなった。サイモンは一時も兄の傍らから離れなかった。商人達は皆悲嘆に暮れ、トルフィンはサイモンの肩を抱き寄せて、その悲しみを分かち合った。

 ポールの葬儀は翌日に行われることになった。サイモンは、まだ目が覚めるかもしれないと、藁にもすがる思いでそんなに早く見送ることを嫌がったが、ヴァイキング達の商売がかかっていた。病の噂が町の外まで広がることを恐れたのだ。

 商品である馬が売れなくなったら、何のためにはるばるダルヘイムまで船を動かして来たのか分からない。それに、町の役人達も早く出ていってほしがっていたし、夏至も近付いていた。


「昼間はだいぶ暖かくなってきたからね、悲しいのは分かるけど、いつまでも亡骸を置いておくわけにはいかないよ」


 アデルはトルフィンに言った。


「なるべく早く出ていってもらわないとね。うちも小さい子がいるんだ。それに、こんな死の臭いが染み付いた部屋に一体誰が近寄りたがる?商売も上がったりだよ」


 といっても、シグルズから受け取った大金があったので、すぐに女達の生活が立ち行かなくなるということはなかった。だが、どうやら人が死んだらしいという噂はあっという間に広がって、今やこの家には誰も寄り付かず、ひとたび町へ出れば白い目で見られ、魔女と罵られ虐げられるであろうことは誰の目にも明らかだった。


「本当に、今回のことはなんと言ったら良いか…。迷惑をかけてすまなかった」


 トルフィンがしおらしく頭を下げた。アデルは首を横に振った。


「私らはただ商売をしただけだよ。これは単なる取引の結果にすぎない。治る見込みのない病人を引き受けるなんて、私も馬鹿だったよ」


と、アデルは、ポールの胸の上で顔を突っ伏して眠っているサイモンを眺めながら呟いた。トルフィンはため息をついた。


「葬儀の準備をしなけりゃならないから、しばらく留守にするよ。悪いが、もう少しだけあいつらを頼む」


 そう言って、トルフィンは女達の家を出た。路地裏の通路に出ると、そこにはシグルズら男達がいた。めいめい壁にもたれたり、腕を組んだりして、黙ってそこに立っていた。トルフィンは肩をすくめた。


「これは皆さん、お揃いで」


 彼は努めて明るい声で話しかけた。しょぼくれているのは性に合わないのだ。それに、自分達のリーダーを失った今、誰かがしっかりしなければ今回の船旅は大損に終わってしまう。それはポールの望むところではないだろう。

 トルフィンはじっとこちらを見ている三人の男達を順番に眺めると、少しばかり乾いた笑いをこぼした。金髪の金払いの良い紳士が、実は神父様だったとは。これも何かの縁としか思えない。商人は殊に、縁というものを大切にする生き物なのだ。


「弟のサイモンは気の毒だが、こればかりは天命だ。あなたのおかげでポールは最期の時を穏やかに迎えることができたと思う。礼を言うよ、ありがとう」


 そう言って、トルフィンは頭を下げた。シグルズは尋ねた。


「何か私達に手伝えることはないか?」


トルフィンは肩をすくめた。


「あんたは神父様なんだろう?だったら、葬儀に来て、ありがたいお言葉を二、三、聞かせてくれるだけで充分だ」


シグルズは頷いた。


「それで、商船はあなたが?」


「ああ、俺が引き継ぐ。あいつにはまだ時間が必要だろう」


 トルフィンは扉の向こうのサイモンに思いを馳せた。


「あいつには黙っていたんだが、ポールは少し前から胸を患ってたんだ。最近は度々胸が痛いと訴えていてな。残念だが、遅かれ早かれ、こうなることは時間の問題だったかもしれないな…」


 男達はじっとトルフィンを見ていた。視線に気づいたトルフィンは、はは、と笑って肩をすくめた。そういう目で見られるのが、彼は一番苦手なのだ。

 ヴァイキングというのは、情に厚くて、いつも陽気でなくちゃならない。それが彼の信条だった。だから、何でも楽しく豪快にやる。

 親分の葬儀も、それは盛大に飾り立てて見送るつもりだ。泣くのはその時までとっておく。


「まあ、なんとかなるだろう。今は萎れているが、あいつもヴァイキングの端くれだ。ガキの頃から陸より船に乗ってる時間のほうが長いんだ。ポールは同じ船には乗せて行けないが、きっと海が心の傷を癒してくれる」


 トルフィンは笑った。真夏の海に輝く、太陽のような笑顔だった。ほんの少し下がった眉が、彼の懐の広さと、仲間を失った切なさを表していた。


「さあ、商売だ!馬が欲しいんだったよな。どれでも好きなのを連れていきな!お代はいらないよ!」


 そう言って、彼は男達の背中を押して、路地裏を光の差すほうへ歩いていった。

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