第33話 入れ替わる夜(3)
シグルズは夜道を急いでいた。夜のお告げの鐘が鳴り、人々は自分の家に帰り、あるいは今晩を過ごす場所に閉じこもり、外を出歩いている者はほとんどいなかった。稀に帰りそびれた人や、酒場から追い出された輩、それに浮浪者なども残飯を求めて動き出していたが、そういう連中は大概警備兵に呼び止められて職務質問されたりする。一般市民は夜の鐘が鳴ってから再び朝のお告げの鐘が鳴り響くまで、外に出たり働いたりしないのが普通だった。
つまり、このような時間に出歩いているシグルズも職務質問の対象だった。彼を呼び止めたのは、他でもない、マックスだった。
「ちょっと失礼、あなたは…」
そう言って、マックスは足早に通りを行くシグルズの肩を叩き、呼び止めた。シグルズは抵抗することなく立ち止まると、見慣れた口髭の男に気がついて両手を広げた。
「これは隊長殿!こんな時間までご苦労様です」
マックスは肩をすくめると、少々嫌そうな顔でシグルズを見た。
「やはりあなたでしたか。暗闇でもよく目立つので、すぐ分かりましたよ。こんな時間に一体何をなさっているのです」
シグルズも肩をすくめ返すと、答えた。
「何って、帰宅するところに決まっているだろう。鐘が鳴ってしまったので、急いでいるんだ」
では失礼、そう言って先を急ごうとするシグルズの肩を、マックス隊長はぐいっと引き止めると、なおも尋ねた。
「帰るって、どちらにですか。あなたは商人達と一緒に船に閉じ込められていると、部下からの報告で聞いていますよ。なぜここにいらっしゃるのです」
シグルズは素知らぬ顔をして答えた。
「商人達はもう治ったのではないだろうか」
「そんな報告は受けていません」
「では、もうすぐ治るのだろう。遅かれ早かれ、封鎖はそのうち解かれる。だから、私がここにいても問題ない」
マックスはあからさまに大きなため息をつき、額に手を当てて首を横に振った。
「今夜、一部の部下達が港の詰所に慰労に行くのを許してやってくれと、メイウェザー卿から連絡があったので、おかしいとは思っていたのです。まさか、あなたを船から出すために担がれていたとは」
「マックス」
シグルズが、なだめるような声を出して、落胆する男の肩を叩いた。
「すまない、あなたに迷惑をかけるつもりではなかった。だが、こちらも緊急事態でな、どうしても私が行かねばならなかったのだ」
マックスは腰に手を当て、仕方なく頷いた。
「いいでしょう、出てきてしまったものはもう仕方がありません。兵士達には注意しておきますが、この件で誰かを咎めるつもりはありません」
「ありがとう、隊長殿」
マックスは再びため息をついた。どうやら尋問されているようだぞ、と警備兵の存在に気がついた夜道を徘徊する者達が、慌ててどこぞへ消えていく。
大通りは点々と松明が燃やされているが、少し横路に入れば完全な暗闇だ。一寸先は闇。その先に進めば何が起こるか分からない。
だが、シグルズはそんな闇の中に足を踏み入れようとしていた。マックスはじろりと路地裏の奥に目をやりながら尋ねた。
「ところで、本当にどちらへ?」
シグルズはなんと答えたら良いものか、困ってしまった。だが、船から抜け出したことがバレた以上、嘘をついて余計な憶測を生むことは避けたかった。
彼は壁に目をやった。一度トルフィンと共に行ったことがあったので、なんとなくうろ覚えだったが、この印を見る限りでは記憶は正しかったようだ。壁には横に真っ直ぐつけられた真新しい傷がある。
「この先に何があるか、あなたは知らないのか?」
と、シグルズは尋ねた。マックスは顔をしかめ、ああ、とか、うう、とか、しばらく言葉を濁していたが、やがて肩をすくめると言いにくそうに尋ね返した。
「ええと、つまり、あなたはその先へ?」
それだけ言うのが精一杯だった。一言でも彼女達を指し示すような言葉を発してしまえば、彼はもう役所に示し合わせ、兵士達を集合させて突入しなければならない。そういう立場の人間なのだ。
そして、それは聖職者たるシグルズも同じはずなのだが、彼はそこに用があるという。
「魔女」は決して合法ではない。だが、「賢女」と言えば許される。彼女達は紙一重のところに生きていて、そんな彼女達を町の人々は暗黙の了解で見て見ぬふりをする。普段はまるでいないかのように扱い、時には蔑みながら、どうしても必要な時にはいてくれないと困る、そういう存在なのだ。
「どうする?一緒に行って、捕らえるか?」
シグルズは挑発的に言った。だが、マックスは首を横に振るだけだった。
「今日はやめておきます」
そして、彼は再び路地裏の奥に目をやった。一匹の黒猫が現れ、金色の目をきらりとこちらに光らせると、さっと小路を横切り消えていった。マックスの背中がぞくりと粟立った。《嘆きの塔》に負けず劣らずの気味悪さだ。
「では、行ってくるよ。巡回、ご苦労」
と言って、シグルズは立ちすくむマックス隊長の肩をぽんと叩いた。マックスは何も答えることなく、暗闇の中に消えていく金色の髪を眺めていた。そしてとぼとぼと、港の詰所で楽しく酒を飲み騒いでいる部下達の姿を思い浮かべながら、夜の町を歩いていった。
それから、シグルズは狭い小路を急いだ。壁につけられた横一文字の傷は、どこまでもどこまでも続いていた。これまで何度曲がったか分からない。右に左に進むうちに、自分が一体どこにいるのか分からなくなってきた。
アンソニーにはよくよく感謝しなければ。彼が印をつけてくれていなかったら、今頃迷子になって路地裏で朝を迎えることになっていたかもしれない。
やがて、見覚えのある風景が一つ、また一つと見えてきて、独特の薬草の香りが鼻腔を掠めた。魔女達の住処は近い。暗闇の中、目をこらしながら壁の印を一つ一つ確認しながら進んでいくと、とうとう辿り着いた。扉の横には×印が付けられている。ここだ。シグルズはそっと扉を開けた。
中には大きく目を見開いた、懐かしい赤毛の娘がいた。大きな緑色の瞳をこれでもかと真ん丸にして。娘は病人の体を拭いてやっていたようだ。足元には桶、手にはタオルを持っている。シグルズは、何か不思議な感情が込み上げてくるのを感じた。自分でも知らぬ間に、頬が緩んでいた。
静かに扉を閉めると、すぐ側の椅子に腰掛けていた老婆が口を開いた。
「また、あんたかい」
シグルズは思わず肩を震わせた。まるで置物か何かのように存在感がなかったのだ。アデルは心外だとでも言いたげな目でじろりと彼を見上げると、はあと深くため息をついた。
「あの娘が神父様を連れてくるなんて言い出すから、どうなることかと思ったが、まさかおまえが来るとはね」
アデルはずるりと背もたれに背中を預けて言った。シグルズは「驚かせてすまない」と肩をすくめながら、
「容態は?」
と、尋ねた。
「一人は良い、一人は悪い」
と、アデルは答えた。シグルズは二人の病人の間に入っていった。二人ともよく眠っている。
一人は分かる、サイモンだ。道端でちょっとしたアクシデントがあって知り合いになった。汗をかき、口を開いて、速い呼吸をしながら眠っている。
もう一人は知らないが、多分ポールだろう。船で最初に発熱したという、サイモンの兄で商人達の親分だ。こちらは白い顔をして、ほとんど息をしているのかどうか分からない。
エマはポールのほうに向き合って座り、その顔や首を温かいタオルで拭いていた。体温が下がっているのだ。布団が何枚も重ねて掛けられている。
シグルズはこちらを見上げるエマを見つめ、優しく微笑むと彼女の手を握った。彼女は顔の下半分をアデルと同じように布で覆っていたので、その表情全ては分からないが、彼を見て、彼を間近に感じて、心底安心したのは間違いない。ふっと体の力が抜けるような気配を感じたからだ。
アデルはやれやれと腰を上げた。
「何か変わったことがあれば呼んどくれ。神父様が来たなら、あたしは部屋で休ませてもらうよ」
と言って、老婆は腰をびきびきと鳴らしながら立ち上がり、のそのそと中庭の向こうの部屋に引き上げていった。
エマは美しく揺らぐ緑色の瞳でシグルズを見た。エメラルドのようだと、彼は彼女の目を見つめ返して思った。
「ずっとここに?」
と、シグルズは尋ねた。エマは頷き、
「離れがたくて。アデル一人では大変ですし、ベラもジョーがいますから」
と答えた。知らない女の名が彼女の口から出るのを聞いて、随分長くここに留まっているのだなとシグルズは思った。
「あなたにずっと付き添われて、この男は幸せだろう」
と、シグルズは言った。「そうでしょうか」と、エマは答えた。
「不思議なことに、私、何も感じないのです。他人だから、心のどこかで、自分とは関係ないと思っているのでしょうか。でも、こうして刻一刻と弱っていく姿をずっと眺めていながら、何の感情も沸き上がってこないなんて」
シグルズは彼女の手を一段と強く握った。そして、自分を見上げる彼女の目をしっかりと捕らえ、顔を近付け、その額にかかる赤い髪をそっと払いながら言った。
「人の死とは、いつも身近にあるものだ」
彼の青い海のような瞳が、穏やかに凪いでこちらを見つめている。エマは自分が滅法この目に弱いことを自覚していた。この神秘的な、青にも金色にも銀色にも見える、まるで日ごと変わりゆく海そのものを写し取ったような目に見つめられると、もう他のことは何も考えられなくなってしまう。彼という海の中に溺れて、目を逸らすことも、息をすることも忘れてしまうのだ。
シグルズは優しくエマの髪を撫でた。すっかり薬草の匂いの染み込んだ、ここにいる魔女と同じ、働き者の女の髪だ。彼はその髪を一房とって、口付けた。
「キスしてはいけないんだったか?」
と、そういえば前にそんなことを注意されたかもしれないと、シグルズは笑って尋ねた。エマはすっと目を逸らしたが、嫌がっているようには見えなかった。口布で顔が隠れていてよかったと、エマは思っていた。
「死は悲しいだけのものではない」
シグルズは言った。
「たしかに人は誰でも死ぬ。残された者はこの世での別れを嘆き悲しむ。だが、魂まで消えたわけではない。死者は皆、神の求めに応じて天まで昇る。そこでとこしえの安楽の日々を過ごし、いつの日かまた肉体に戻る。だから、今、何も感じなくてもそれは間違っていない」
エマは何も答えなかった。ただ、彼に繋がれたままの二人の手を見つめながら、この手もいつか離れるのかしら、などと思っていた。
シグルズは俯いたままの彼女を見下ろし、微笑むと、眠るポールの胸に手を置き、静かに尋ねた。
「私の声が聞こえるか?何か言いたいことがあれば言うと良い」
ポールの目蓋がわずかに震え、ほんの少し、うっすらと灰色の瞳が隙間から覗いた。エマはハッとして、ガタンと椅子を鳴らした。シグルズは静かに彼女を制した。
ポールの乾燥した色のない唇がかすかに動いた。何を言っているのか、エマにはほとんど聞こえなかった。シグルズは体を傾け、彼の口元に耳を寄せて時折頷いていた。
長い長い時が流れているようだった。エマは息をするのも忘れて、二人の様子をじっと見守っていた。ただの一つ、何の音も立てないように。誰も、何も、彼らを煩わすことのないように。
やがて、シグルズはゆっくりと体を起こし、ポールは再び目蓋を閉じた。エマはシグルズを見た。シグルズはじっとポールの顔を見つめていた。
「ゆっくり眠らせてやろう。主が彼の魂を御元に引き上げる、その時まで」




