第32話 入れ替わる夜(2)
ーーー熱にうなされながら、サイモンは歌を聴いていた。とても懐かしい。女の声だ。
母親だろうか?いや、違う。
ぐらつく意識の中、サイモンはうっすらと目を開けた。眠るポールの傍らで、女が歌を歌っている。
やめろ、兄貴を連れて行くな。
震える手を女に伸ばすが届かない。女は水差しを置いて、ポールの額を優しく撫でた。赤い髪が静かに揺れていた。
***
「準備はいいか?」
港近くの建物の影で、アンソニーは警備兵達に声をかけた。
「いつでも出動できます!」
警備兵の一人が元気よく敬礼をした。
「大きな声を出すな」
アンソニーは人差し指を立てて、顔をしかめた。
「それじゃあ、いつも通り俺は詰所に声を掛けて、桟橋にこれを置きに行くから、おまえらはその後に乗り込んでくれ」
「了解!」
変わらず元気な声で、兵士達は敬礼をした。アンソニーはぐるりと目を回して、鍋とパンの入った籠を持ち上げると、詰所へ向かった。
「やあ、今日最後の搬入に来たよ」
窓口の職員は退屈そうな顔で頬杖をついたまま、「ご苦労様です」と答え、親指で船のほうを指差した。隠すことなく大きな欠伸をして、その目はアンソニーの顔なんてちっとも見ていない様子だ。もう今日の業務は終わりにしようと思っていたところに彼が現れたので、うんざりしているのだろう。
アンソニーは肩をすくめ、
「そんなところに一日中座っていたら、さぞかし疲れるだろうな。俺もくたくただ。明日からはもう一人のご婦人が差し入れに来ると思う。昼間会っただろう。ちゃんと通してやってくれよ」
と言った。職員の男は目元に涙を浮かべたままの細い目でアンソニーを見上げ、尋ねた。
「旦那はどこかにお出かけで?」
ああ、とアンソニーは答えた。
「そんなところだ。いつまでもお使い役ばっかりやってるわけにはいかないからな」
男は気だるそうに頷き、ぴしゃりと窓口の扉を閉めた。夜の港は一段と冷えるものだ。こんな調子なら、船の中の人間が全員いなくなったって気がつかないだろうな、とアンソニーは苦笑した。
そのまま桟橋へ向かって歩いていくと、もう既にプラチナブロンドの髪の男が船の上からこちらを見下ろして待っていた。
これは夜でも案外目立つな、とアンソニーは思った。昼間は太陽の光のようだと思っていた彼の髪は、夜は夜で、月明かりに照らされて、まるで星屑のように輝いているのだ。暗くなれば影なんて消えてしまうのに、光にはそんなことは関係ないらしい。
輝く美貌の主人がこちらに手を上げて合図をするので、アンソニーはすたすたと桟橋の真ん中まで行ってスープの入った籠を下ろした。ちらりと後ろを向くと、建物の影に潜んでいた兵士達と目が合った。詰所の職員が、窓口の扉をほんの少しだけ開いて、最後の気力を振り絞るかのように監視を続けている。
アンソニーは籠を置いたまま、わざとらしい大声で、
「スープとパンを持ってきました。温かいうちに召し上がってください。夜は冷えますからね、毛布をしっかり掛けて、お大事に!」
と言った。そして、再びシグルズが笑いを噛み殺しながら手を上げるのを確認すると、彼はつかつかと陸地のほうへ戻っていった。
今だ、行け!目でそう合図すると、警備兵達はわらわらと詰所へなだれ込んで行った。
詰所の職員達は、それはそれは驚いたに違いない。突然大勢の警備兵達が押し掛けてきたのだ。何か問題でも起こしたのかと、誰もがぎょっとしたことだろう。
だが、兵士達の手にあるのが剣でも警棒でも何でもなく、ただの旨い酒と食べ物だということが分かってしまえば話は別だった。気前の良い差し入れに、今度は誰もが舌なめずりをして飛び付いた。あっという間に詰所は宴会場に変身だ。
アンソニーは男達のどよめきが、楽しげなどんちゃん騒ぎに色が変わるのを確認した。窓口の扉が少し開き、兵士の男が顔を出した。してやったりと、その男は笑いながら片目を瞑って、扉をぴしゃりと閉じた。隙間なく。
そうして、桟橋から陸地に下りかけていたアンソニーは、再び船のほうに向かっていった。プラチナブロンドの主人が渡り板を通ってこちらにやって来る。鍋の入った籠の横で、アンソニーは久しぶりに自分の主人と対峙した。
「ご苦労だったな」
と、シグルズは言った。数日ぶりに間近で見る主人の顔は相変わらず美しい。アンソニーは頷いた。
「シグルズ様こそ、大変でしたね」
アンソニーは籠を持ち上げた。潮風に混じって、たくさんの野菜が溶け合った、優しい良い匂いがした。
「そうでもない。おまえのおかげだ」
シグルズが真っ直ぐにアンソニーを見据えて言った。彼の胸は大きく揺さぶられるようだった。この人は、どうしていつも自分が欲しいと思う言葉を、こうして必要な時にくれるのだろう。ひょっとしたら、心の内を読まれているのではないだろうか。
アンソニーは妙に居心地が悪くなって、目を逸らすと言った。
「例の女達の住処へ行ってください。迷わないよう、念のため、壁に印をつけておきましたから」
わかった、とシグルズは頷いた。そして彼は大きな手で、ぽんとアンソニーの肩を叩き、
「船の連中を頼む。まだ熱が下がらないのだ」
と言った。アンソニーは「わかりました」と小さく返事をして、船へ向かって歩いていった。シグルズは桟橋を渡り、二日ぶりの陸地へ。渡り板を渡り、アンソニーは船の中へ、シグルズは港に降り立ち、二人は最後にもう一度顔を合わせると、暗闇に紛れ、入れ替わった。
「久しぶりですね、アンソニー」
船に乗り込み、一番に声をかけてきたのはケネスだった。相変わらずフードを頭から被って、無表情で甲板に腰掛けている。少し離れたところでは、布団に包まって横たわる数人の商人達。
アンソニーは一気に現実に戻ってきたような気がした。
「お久しぶりです、ケネス様。船上での暮らしはいかがですか?」
どさっと籠を下ろし、肩をすくめてそう尋ねると、ケネスはあからさまにむっとしたような表情を浮かべて答えた。
「快適ですよ。寒いし、揺れるし、潮風で体がベタつくし」
これで雨でも降れば最高ですね、とケネスは皮肉たっぷりに言った。
アンソニーは空を見上げた。美しい星々がきらきらと輝いている。月の光が、ぼんやりと輪を描きながら白く周りを照らしている。
「残念、雨は降りそうもない」
と、アンソニーは言った。ケネスも空を見上げ、「そのようだ」と肩をすくめた。二人は顔を見合わせ、笑った。
「あの美しい顔に飽き飽きしていたところですよ」
と、ケネスは言った。アンソニーは、「分かります、美しい顔は慣れると普通なんですよ」と答えた。
「彼らはどんな様子ですか?スープは食べれそうです?」
アンソニーは立ち上がり、少し彼らに近付いた。すると、一人の男がのっそりと肘をついて半身を起こし、こちらに顔を向けた。
「…こりゃどういうことだ?…金髪の旦那が、…黒髪になっちまった」
アンソニーは男の側に寄ると尋ねた。
「よかった、あなたは元気そうだ。訳あって替わったんだ、港の連中には内緒でね。スープ飲むか?」
男は手を払うと、
「…これが、…元気そうだって?」
と言って、どさっと布団に倒れ込んだ。
「喋れるじゃないか」
と、アンソニーは言った。男はあからさまに、うう、と呻くと嘆いた。
「…なんで、こんなことに」
「気の毒だったな。狭い船の中じゃ、仕方がない」
「…あの二人は?…治ったか?」
女達のところにいる二人のことだろうか、とアンソニーは思った。彼は頷き、励ますように言った。
「心配するな、直によくなる。それより、飲むのか?飲まないのか?」
ガバッと男は布団をはね除け、起き上がった。金色のごわごわした髪を束ね、無精髭を生やした男だった。男は真っ赤な顔をして、はあはあ荒い息遣いのままアンソニーを見据えると、
「酒をくれ」
と言った。アンソニーは彼の近くに置いてあったカップに、少し前に自分が運び込んできたエールを注ぐと手渡した。男は大きく息をつくと、それを一気に飲み干した。
「スープもくれ」
アンソニーは言われるがままに、女達が時間をかけて作った野菜スープを器によそり、男に渡した。男は再びそれをきれいに飲み干して、さらにもう一杯要求したので、アンソニーはついでにパンもつけてやった。男は病人とは思えないくらい食欲旺盛で、こんなことならもっとたくさん持ってくるんだったとアンソニーは後悔した。何しろ、その後、気配を察知して起き出してきた男達全員が、同じように食事にがっついたのだ。
ケネスは彼らを遠目で眺めながら、干し肉をつまみにエールを飲み、
「もう治ったのでは?」
と、呑気に言った。アンソニーは頭をがしがしと引っ掻きながら、
「全員熱が下がったら、港の連中に船から降りてもいいか聞いてみましょう。これじゃあ、何回食事を運び込んでも足りないぞ」
と言った。




