第31話 入れ替わる夜(1)
また我々に何かご用ですかと、少々うんざりしたような顔の警備兵を前に、アンソニーも苦笑いをせざるを得なかった。何かにつけて彼らを利用してしまって申し訳ないという気持ちはありながらも、今頼れるのはストールヘブンの警備を任命されたサンクレール家の兵士達しかいないのだ。
アンソニーは市場で仕入れてきた上等な酒を彼らの目の前にどんと置きながら言った。
「そう嫌そうな顔をするな。今夜、これを持って港の詰所へ行ってくれるだけでいいから」
見るからに美味そうな琥珀色の液体を前に、警備兵の口がじゅるりと鳴る。だが、そこは厳しく統率された兵士達だ。簡単にはなびいたりしない。
兵士の男は、ごほんと咳払いをすると、ずいっとそれを押し返して答えた。
「なりません。港の職員を買収するなど、そんなことが隊長に知れたら私達はクビですから」
アンソニーは首を横に振って、押し返された酒瓶を再び兵士のほうに押し付けると言った。
「買収じゃない、ちょっとした飲み会だ。働き詰めの職員達を慰労して何が悪い?」
さらにアンソニーはひとかたまりの干し肉を、どさっと机の上に置くと付け加えた。
「それに、おまえ達の隊長だって、夜のお告げの鐘が鳴った後にちょっとお楽しみをすることくらい許してくれるだろう。頼む、それを持って港の詰所で奴らと一緒に宴会をしてくれるだけでいいんだ」
兵士の男はじっとりとアンソニーを見た。それから、隣に立っているもう一人の兵士と顔を見合わせた。そして、ため息をついた。
他の誰でもない、剣の師匠の頼みだ。それに、自分達の安い給料では到底手が出そうにない、この魅惑的な酒と肉の誘惑に抗える人間なんて、果たして宿舎の中に存在するだろうか。
「わかりました」
と、兵士の男は言った。だが、ちらりとアンソニーを見上げると、
「でも、もうひと踏ん張り欲しいですね」
と、やけくそのように口の端を吊り上げて言った。
アンソニーは、ハッと腕を組み、男を斜めに見ると、まるでこうなることなど想定内とでもいうように、懐から手の平くらいの大きさの包み紙を取り出し、放り投げた。まったく、調子の良い連中だ。
「大陸の葉巻だ。これで手を打て」
兵士達二人は顔を見合わせた。そして、座っているほうの男が、ごそごそとその包みを胸の中にしまい込んだ。何でもないというふうに装ってはいるが、その顔は早く試してみたくてうずうずしているのを隠しきれていない。
「仕方ありませんね」
兵士の男はなるべく高慢な態度で答えた。
「でも、これが最後ですよ。それから、隊長のほうにも、あなたから上手く口利きをしておいてくださいよ」
わかったよ、とアンソニーは肩をすくめた。
「その代わり、なるべく盛大に盛り上がっておいてくれよ。誰も船のほうに注意なんか向けないくらいにな」
了解しました、お任せを!と、兵士達は敬礼した。
そういうわけで、アンソニーは警備兵達を買収することに成功したのであった。
ーーーシグルズ様を連れてきてほしいなんて、また無茶なことを言う。
宿舎を出て、アンソニーはため息をついた。エマの頼みなら何でも聞いてやりたいと彼は思っていたが、それがあの方を連れてくることだとは思わなかったのだ。
たしかに、あのような場所に来てくれる神父様なんて、彼以外には思い付かない。普通の聖職者なら断固拒否するか、嬉々として役所に通報して、女ごと全部異端容疑で逮捕するかのどちらかだ。
でも、だからといって、今まさに死にゆかんとする者に、最後の告解の機会を与えないわけにはいかないだろう。つまり、シグルズが必要だ。それも、なるべく早く。
だから、今夜、ベラが作った野菜スープを持っていく時に、彼を船から連れ出すことにした。あの目立つ風貌も闇夜に紛れれば多少誤魔化されるだろう。警備兵達には、監視の職員の気を引くために、楽しく飲み食いして騒いでもらおうではないか。
既にお粥の籠の中には言付けを書いた紙を忍ばせておいた。今頃、ブロンドの主人が読んでいる頃かもしれない。
「さ、干しブドウを買って帰るか」
魔女の住処に「帰る」というのも何ともおかしいが、今の自分にはその言い方がぴったりのような気がしていた。ただ、今夜どこで過ごすかどうかはまだ何も決まっていない。エマはあのままあそこにいると言うだろうか。シグルズは?
わからない。勝手にしたらいい。アンソニーは頭をがしがしと引っ掻いた。考えることが色々多すぎるのだ。とりあえず、今夜、彼を船から連れ出した後のことはそれが成功してから考えることにした。
それからアンソニーは、袋一杯にぎゅうぎゅうに詰めた干しブドウを閉まりかけの市場で購入し、魔女の住処に戻った。もうすっかり道順は覚えていた。が、何を思ったか、彼は石ころを手に取ると、建物の壁に小さな傷をつけながら歩いていった。
やがて薬草の匂いが漂ってきて、それが一段と濃くなったあばら家の前までやって来ると、アンソニーは扉の横に×印をつけ、石を捨てて中に入った。
再びエマが顔を出した。アデルも起き出してきていて、ぎょろりとアンソニーに鋭い視線を送った。アンソニーは「どうも」と言って、横になっている男二人に目をやった。この静かに眠る二人のうちの一人が、今まさに死にかけているなんて信じられない。女達は一体どんな気持ちで看病を続けているのかと思うと、心が痛まずにはいられなかった。
エマに中庭に促されると、アンソニーは干しブドウの入った袋をどさっと台の上に置いた。ベラが奥からやって来て、目ざとくそれを見つけて顔を輝かせた。
「干しブドウ!あたしの!?」
アンソニーが「そうだ」と答えると、ベラはずっしりとしたその袋を抱き締めながら彼にすり寄った。
「ありがとう、旦那!気前の良い男だねえ!」
アンソニーがひきつった顔をしながら見下ろすと、彼女の足元には当然のように小さなレディがくっついていた。真ん丸の、透き通るような瞳が彼を見上げている。小さな口は一文字に結ばれ、まるで今にも泣き出しそうなのを堪えている様子だ。
アンソニーは眉を下げて微笑んだ。レディにこんな顔をさせるなんて、貴族の端くれとはいえ情けないではないか。
彼は恭しく跪くと、背中からごそごそと何かを取り出し、ジョーに差し出した。その途端、泣きそうだった彼女の顔がパッと輝き、そして徐々に赤くなり、またくしゃくしゃになって泣きそうになった。
「嬉しい、とっても!」
そう言って、ジョーはアンソニーが差し出した木の枝の馬を抱き締めた。
お粥の鍋を受け取りここを出るときに、エマから聞いたのだ。彼女が小さな人形達をとても大切にしているということを。そして、イレインが新しく作っている人形の乗る馬がないということも。
「お気に召していただき、光栄です」
と、アンソニーは微笑み、顔を真っ赤にして目に涙を浮かべているジョーの頭を撫でた。
ベラがジョーを落ち着かせるために部屋に連れていったので、そこにはエマとアンソニーの二人になった。エマはアンソニーを見上げ、微笑んだ。
「あなたって本当に器用ね」
感心したようにエマが言い、アンソニーは「まあね」と照れ臭そうに頭をかいた。
「子供の頃から、何かを作るのは好きだったから」
アンソニーは昔を思い出しながら答えた。夢中になって目の前のことに取り組んでいる間は、煩わしいことは考えずにすむ。それは子供の頃からの、現実逃避したい時の彼の癖だった。
ただし、幼い頃は仕事なんてなかったから、何かを作ったり、思い切り庭中を走り回ったりすることで、些末な悩み事から逃げていた。
「今夜、シグルズ様を連れてくるよ」
と、アンソニーは今一番エマが聞きたくてたまらないであろうことを告げた。
「そう」と、エマの目が一瞬輝くのが見えた。アンソニーは多少傷つきながらも、これは仕方のないことなんだと自分に言い聞かせながら続けた。
「たぶん、俺は戻ってこないと思う。船の連中をケネス様一人で見るのは無理だし、わざわざ危険を冒してまでシグルズ様を船に戻す必要もないと思うし」
そうね、とエマは言った。だが、その真意はアンソニーには分からなかった。
少しでも寂しがってくれればいいのに。ジョーやベラのような明け透けな感情表現でなくとも、少しくらい、「あなたがいないと心細い」とか「ここに一緒にいてほしい」とか、そんなことを言ってくれたら、たとえケネスが一人ぼっちになろうとも、どんなに文句を垂れようとも、絶対に離れたりしないのに。
でも、そんなこと言うわけないよな、とアンソニーは自嘲した。なので、その後は食事をとって、エマも少し休ませて、夜に備えることにした。
夕方になると、ベラは野菜スープを煮込み始めた。時々、二人の病人が呻いたりするので、その都度、女達は体を冷やしてやったり、湯冷ましを飲ませてやったりして、手厚く看護した。アデルは折に触れて、色々な薬草をすり混ぜたものを煎じて病人達に与えた。
アンソニーは冷たい井戸水を汲み上げるのを手伝った。そして船の商人達に水や飲み物が足りているかが気になって、夜になる前に何度かエールを運び込みに行った。
そして野菜スープが出来上がり、辺りが闇夜に包まれた頃、アンソニーは籠を持って魔女の住処を出た。
「気をつけてね、危ない真似はしちゃ駄目よ」と、シグルズを連れ出してくるよう頼んだ張本人がそんなことを言った。
「大丈夫」
アンソニーは答えた。
「一時間以内には来れると思う。でも、なかなか来ないからといって、様子なんて見に来るなよ」
絶対にここから出るな、そう念を押して、アンソニーは夜の町に飛び出していった。背後から眠そうな顔のベラがよろよろと出てきて、「誰か来るの?」と尋ねた。
「ええ、神父様よ」
と、エマは答えた。




