第30話 忙しい配達人
その頃、アンソニーは一人で大忙しだった。まず大量のエールと蜂蜜酒を船に届け、それから警備兵の宿舎に走って、ありったけの毛布を集めて荷馬車の荷台に乗せた。それらを桟橋まで下ろしに行った後、さらに体を拭くための清潔な木綿や麻のタオルを市場で買い漁り、海水しかない船の上の人々のために、何度も井戸水を汲み上げに行かなくてはならなかった。
体力には自信のあるアンソニーも、さすがにこう働き詰めではくたくただ。早く美味い酒と食べ物をたらふく胃の中に流し込んで、暖かい布団に潜って気のすむまで眠りたい。こうなったら、あのヘルギのオンボロの宿でさえ恋しく思えてくるのだから不思議なものだ。
だが、今の彼にとっては、この忙しさがかえってありがたくもあった。相変わらず彼の頭の中は整理がつかないまま、分厚い雲に覆われた曇天のように重たくなっていたからだ。昔から考えることは苦手だ。どんなに考えても、良い結果が出たことなんてほとんどない。
桟橋の中程で、最後の井戸水の入った桶をどしっと置くと、アンソニーは船に合図をして陸地に引き返した。ヴァイキング達の巨大な商船の上から、見慣れたプラチナブロンドが顔を出し、こちらに向かって手を上げている。
その男は腰を上げると、渡り板を軽い足取りで渡って桟橋に下り、桶の置かれたところまで歩いてやって来た。そして、それを持ち上げると、アンソニーのほうを見て微笑んだ。
詰所では職員の男達がしっかりと二人を見張っている。変な真似をしたら許さないぞ、とばかりに。
「助かった、これでだいぶ快適に過ごせるようになった」
と、シグルズは言った。やや大きな声で、少し張り上げるように。アンソニーは頷いた。
「商人達はどんな様子ですか?」
「変わりない。皆高熱で具合は悪い。だが、徐々に良くなるだろう」
淡々とした様子でシグルズは答えた。長いブロンドの髪が潮風にさらされ続けたせいでもつれているが、まるで真夏の白い砂浜か、海面に反射する太陽の光のように、きらきらと輝いて美しい。
アンソニーは、ぎゅっと口を結んだ。ずるい人だな、と思ったのだ。公正公平、寛大で、弱者を絶対に見捨てたりしない、まさに絵に書いたような神父様だ。その上、この美貌で、人徳があってーーーたまに子供っぽかったり、女性に弱かったりするけれど、それすら、この男の魅力にもなっている。小さなことでくよくよしたり、苛ついたり、何かにつけてはメイウェザー家の息子であることを後ろ暗く思ってしまう自分とは大違いだ。家同士のことなんて気にしない、と口では言いながら、本当は一番気にしているのは自分自身なのだ。
まるで、光と影のようじゃないか。アンソニーは遠くからシグルズを眺め、思った。シグルズが眩しい太陽の光なら、自分は彼の影だ。いつも彼に付き従い、決して離れず、彼の前に出ることもなく、足元で踏まれ続けるだけの存在。エマが彼に惹かれるのも当然だ。だって、誰が影になんて気をとめる?
「そちらは?」
シグルズが尋ねた。その瞳は海のように美しく揺らいでいる。だが、その目に映しているのは自分ではない。自分を見ているようで、実際はその向こうにいる女の姿を探しているのだ。アンソニーはこの距離感にホッとしていた。今、彼と近くで向き合う自信はなかったからだ。
「変わりません。エマも元気です」
そうか、とほんの一瞬だけ、シグルズの表情が緩むのをアンソニーは見逃さなかった。
そろそろ戻ろう、と彼は思った。今頃ベラ達が病人のための食事の支度を整えて、配達係である彼の帰りを待っているだろうし、これ以上、完璧な主人と対峙してますます気分が滅入るのも嫌だった。
「もう戻ります。次はお粥を持ってきますから」
そう言って、アンソニーは手を上げて港を去った。なるべく忙しそうに、何でもないというふうを装いながら。働くのは得意だし、忙しいのも好きだ。だから、今は忙しなく動いているほうがいい。
それからアンソニーは駆け足で広い町を突っ切っていくと、たしかこの辺と路地裏を探った。座り込む浮浪者達の足を飛び越えて、野良猫達と顔を合わせ、建物の隙間から見える狭い空をカラスがバサバサと飛び立っていくのを見送って。そして、どうやら迷ったかもしれないぞ、とそろそろ不安になってきた頃、ようやくアンソニーは覚えのある薬草の匂いを嗅ぎとって、例の魔女の住処に戻ってくることができたのであった。
「お帰りなさい。ちょうど良い頃よ」
口布をして、病人達の横に座っていたエマが、立ち上がってこちらを見て微笑んだ。緑色の大きな美しい瞳が自分に向けて細められるのを見て、アンソニーは心底安堵した。魔女の家に辿り着いて、こんなに安心するとは思わなかった。開け放たれた勝手口の向こうからは、まろやかな良い匂いが漂ってくる。
「子供と遊んでいたんじゃなかったのか?」
と、アンソニーは部屋に入りながら尋ねた。エマは、ええ、と返事をして、
「アデルが部屋で休むと言うから替わったの。神様ごっこはとても楽しかったわ」
と言って微笑んだ。彼女の背後では、二人の男が静かに眠っていた。
「船の人達の様子はどう?」
エマは勝手口を通り、中庭に出ながらアンソニーに尋ねた。彼は頷き、
「シグルズ様とケネス様は元気そうだった。商人達の病状は分からないが、感謝していたよ」
と答えた。エマは「よかった」と微笑んだ。
すると、鍋を持っていたベラが奥から顔を出してきて、声を上げた。
「旦那!帰ってたんだね、待ってたよ!」
彼女の足元にはジョーもくっついていた。ジョーはアンソニーを見るなり、顔を輝かせながらも、恥ずかしそうに母親のスカートの影に隠れてしまった。アンソニーは首を傾げ、エマはくすくすと笑った。
「こら、ジョー!引っ付くなって!邪魔だろ!」
そう言って、ベラは足でジョーを振り払おうとしたが、小さな女の子は素早く逃げ回り、なかなか離れようとしなかった。しかも、その合間に顔を出してはアンソニーのほうにちらちらと視線を送り、また目が合っては隠れて、を繰り返していたので、ベラは苛々して何度も自分のスカートでかくれんぼをする娘を「しっし!」と追い払わなければならなかった。
「まったく、どうしたっていうのかねぇ」
ベラは悪態をつきながらも、手際よくお粥をもう一つの鍋に取り分けると、残りは蓋をした。そして、何重にも布を重ねて敷いた籠にその鍋を丸ごと入れて、しっかりと包み込んで保温すると、アンソニーに手渡した。ずっしりと重くて温かい。良い匂いがする。
「早く持ってって食べさせてやりな」
ベラが片目を瞑ってみせた。アンソニーは「ありがとう」と言って受け取った。匂いを嗅いでいたらこちらもお腹が減ってきた。病人に食べさせた後は、健康な人達も食事の時間だ。
それを見ていたジョーが、何かを思い付いたように走っていくと、奥から干しブドウを持って戻って来た。そして、肩で息をしながら、緊張した面持ちでアンソニーを見上げると、ずいっとそれを差し出した。
「くれるのか?」
アンソニーは尋ねた。ジョーは赤い顔でぶんぶんと首を縦に振った。アンソニーは笑った。
「ありがとう、ちょうど疲れて腹が減ってきたところなんだ」
アンソニーは干しブドウを口の中に放り込んだ。濃い甘味がじわっと広がって、身体中に染み込んでいく。
「美味いよ!これで、もう一踏ん張りできそうだ」
そして、ぽんとジョーの頭を大きな手で優しく撫でたので、小さなレディはすっかりのぼせ上がってしまった。彼女の背後では、ベラが「あたしのおやつ!!」と声を荒げている。
「それじゃあ、もう一度行ってくるよ」
ええ、と言いながら、エマはアンソニーの後についていった。ベラは、ため息をついて、病人と自分達の分の粥を取り分けながら、
「次は夜までに野菜スープを作っておくよ」
と言った。アンソニーは「帰りに干しブドウを袋一杯に買ってくる」と答えた。
エマは戸口のところまでアンソニーを見送った。何度もあちらこちらを往復したせいで、彼はすっかり汗だくで、いつの間にか上着は脱いで、シャツの袖を肘までまくっていた。
これを運び終えたらやっと一息つけそうだ。戻ってきたら食事をとって、彼女も少し休ませてやらないと、とアンソニーは思った。どうやら、彼女も子供の相手から病人の世話まで付きっきりで、疲れているような様子に見えたからだ。口数も少ない気がしたし。そもそもティンカーを出てから色々ありすぎて、ろくに休息もとれていないのだ。
ところが、エマはちらりと横になって眠っている病人二人に目をやると、アンソニーの腕に手を伸ばして彼を引き止めた。彼は一瞬ドキッとしたが、エマの緑色の目が真剣に自分を見上げていたので、何かあったのだろうかと考えた。エマは少しの間彼を見つめていたが、やがてためらいながら口を開くと言った。
「シグルズ様をここに連れて来れないかしら」




