第29話 魔女の巣窟(3)
イレインが立ち上がり、扉を開けて外の様子を伺うと、ベラが慌てて桶に水を汲んで走っているところだった。イレインに気がついたベラが言った。
「熱で一人錯乱してるんだ!」
そして、炉のほうを指差し、
「お粥、吹きこぼれちまう!!」
と言った。
イレインは頷き、慌てて炉に駆け寄った。蓋を開け、杓子で中をかき混ぜ、火加減を調整する。
エマもジョーを部屋へ押し戻しながら、恐る恐る中から出てきた。中庭を通り、病人達の部屋を覗く。男の一人が錯乱して、意味不明なことを大声で叫んでいた。体をガバッと起こしてわめき散らすのを、アデルがカリカリの枯れ枝のような腕からは想像できないくらい物凄い力で、必死で押さえている。
ベラが冷たい井戸水を汲んだ桶を持って、病人の足元にやって来た。だが、暴れるヴァイキングの男の力は強く、ベラの桶は蹴り飛ばされてびしょびしょだ。
「こんちくしょう!!」
ベラは悪態をついた。
「ああ、ああ、何やってんだい!!このグズが!!早く新しい水汲んどいで!!」
アデルが地獄のような怒鳴り声で急き立てた。エマは呆気にとられてその光景を眺めていた。
すると、アデルがちらりとこちらを見て、チッとわざとらしく舌打ちをすると、
「ボケッと突っ立ってないで、ちったぁこっち来て手伝ったらどうだい!」
と苛々しながら声を荒げた。エマはハッとした。ベラが口布をこちらに放り投げ、エマはさっとそれを巻きつけ、顔半分を覆うと部屋に飛び込んだ。
ヴァイキングの男は激しくうなされ、暴れている。エマはどうしたら良いか分からなかったが、とりあえず、ベッドから飛び上がりそうになっている男の足を馬乗りになって押さえ付けた。
「いいよ、その調子だ!体も押さえときな!」
アデルに言われた通り、エマは「はい!」とためらいながら返事をして、男の胸を押さえ付けた。すごい熱だ。こちらまで燃えてきそうなくらいの。
アデルはてきぱきと布を水で冷やして絞り、男の首と頭に巻き付けた。それからシャツの隙間から手を入れて、脇の下にも同じように忍び込ませる。
ベラがひいひい言いながら、もう一度桶に水を汲んできた。アデルはエマのほうに乾いたタオルを二、三、放り投げた。エマはそれを受け止めるとアデルのほうを見た。
「ズボンを脱がして!太ももの付け根!急いで冷やすんだ!」
エマは一瞬たじろいだ。ズボンを脱がす?太ももの付け根?アデルがにやりとせせら笑った。
「さてはあんた生娘だね?恥ずかしがってる場合じゃないよ。大丈夫、熱のときはあれもぐったりとして可愛いもんさ」
エマは顔を真っ赤にしてひきつらせ、なるべく見ないようにしながら、さっとズボンを下ろし、冷たいタオルを押し付けた。ベラは文句を言いながら、アデルが使っていた桶の水を再び井戸に取り替えに行った。
大丈夫、と優しい声色で、老婆が病人に語りかけるのが聞こえてきた。エマは彼女のほうに目をやった。
「大丈夫、大丈夫だから。私が見ててやるから」
アデルは優しく声をかけ、冷たいタオルを額に押し当てながら男の手を握った。男はうっすらと目を開けて、自分の手を握っているのは誰だろうと顔を見たようだ。だが、熱に浮かされ、ぼんやりとした眼差しには、老婆の顔が自分の母親のように見えただろう。
次第に男は落ち着きを取り戻し、アデルが煎じ薬を飲ませると、穏やかに眠り始めた。
「よかった…」
エマは安堵のため息をついた。アデルはほうと息をつきながら、黙って頷いた。
「高熱のときは気が抜けない。うわ言を言い出すのは子供が多いんだけど…、ま、この男もまだ若そうだしね」
と、アデルは言った。エマは隣に寝かされているもう一人の男を見た。こちらはまるで今までの騒ぎなんて気にもしていないみたいに、静かに眠っている。
「そっちの男はもう長くないよ」
アデルはひっそりと呟いた。エマは驚いて振り向いた。
「昨日ここへ来たときはもうほとんど手遅れだったのさ。だいぶ船の上で弱っちまったようだね」
アデルは男を見下ろした。血の気のない、まるで人形のような顔だ。紫色の唇は半開きで乾燥していて、灰色の歯が覗いている。
「熱ってのはね、皆怖がるけど、病と戦ってる証拠なのさ。だから熱が出てる患者はまだマシでね。本当に弱って死が近付いてる人間は、病と戦う気力もなく、ただ静かに冷えていくだけさ」
そう言って、アデルはもう一人の男の青白い額を優しく撫でた。男は薄く息をしているようだが、わずかに口が開くのみでほとんど反応がない。穏やかに眠っているように見えて、実は天からの使者が迎えに来るのを待っているのだ。痛いとも苦しいとも何も言えずに。
「神父様でも呼べりゃあいいんだけど、こんなとこじゃねぇ」
と、アデルはため息をついた。そして、魔女が神父様なんておかしいだろ、とばかりに肩をすくめた。
「湯冷ましを飲ませておやり。私は少し休ませてもらうよ」
そう言って、アデルは奥へ引っ込んでいった。昨日からずっとかかりっきりだったのだろう。ボキボキと首を鳴らして、肩を回しながら出ていった。
エマは何も言わず、水差しに湯冷ましが入っているのを確認すると、そっと男の口に差し込んでやった。そしてほんの少量ずつ、慎重に水を含ませては男の喉が動くのを確認し、死にゆく者へ思いを馳せた。気がつけば、また、あのヘレナの子守唄を口ずさんでいた。




