第28話 魔女の巣窟(2)
ーーー遥か昔、この世界は一つの神様の国でした。
***
「さあ、約束の日だ!城壁が完成しなくて残念だったな!」
「ちくしょう、よくも騙してくれたな!おまえらなどこうしてやる!」
「きゃー!助けてー!!」
「あ、あれは!雷神ソール!!」
「乱暴な巨人め!許さないぞ!!どーん!!ガシャーン!!ばこーん!!」
エマは思わず笑ってしまいそうな口元を隠そうと手で覆った。
目下、ジョーと二人で神様ごっこの最中だ。
もう一刻は過ぎただろうか。アンソニーと別れて、奥の居室に案内され、小さな女達の部屋でジョーと「神様ごっこ」という名のお人形遊びにふけっている。といっても、夢中になって遊んでいるのはジョーだけで、神様のストーリーをよく知らないエマはもっぱら受け身に徹していた。先程の巨人との戦いの中でも彼女の台詞は「きゃー!助けてー!!」の一言のみだが、それでもジョーは機嫌良く遊んでいる。珍しい遊び相手が来たので興奮しているのだろう。
エマは手の中の小さな男女の人形を見た。もともと黄色であったであろう髪色は茶色く汚れているが、大切に使われてきたのがよく分かる。歪だが補修された形跡がたくさんあるのだ。
部屋の隅では、ほとんど化石のような老婆カーラとお腹の大きな女イレインが膝掛けをして、それぞれ繕い物や豆の鞘を剥いたりして、静かに二人を見守っている。
「よくやった、ソール!これで我々はほとんどの城壁を手に入れたぞ!ところでロキはどこにいる?」
ジョーの神様ごっこはまだ続いている。ソールというのは雷神で、とても強い。どんなものでも打ち砕く、魔法の槌を持っている。今は神様達が自分達の城の城壁を巨人に造らせ、騙されたと気付いた巨人が雷神ソールに返り討ちにされたところだ。
「俺はここだよー!」
ロキという名の別の神様が現れる。枝を組み合わせて作った、脚が八本ある馬を連れている。エマは微笑んだ。
「スレイプニルね!」
ジョーは嬉しそうににんまりと笑った。
「そうだよ!スレイプニル!これをおまえにやるよ、オーディン!」
そしてジョーは、オーディンと呼ばれた青い帽子に青い服を着た人形を木の馬に乗せ、パカッパカッと言いながら楽しそうに部屋中を飛び回った。イレインはくすくすと笑い、野菜籠を蹴られそうになったカーラは緩慢な動作でそれを端に避けた。
「とてもたくさんあるのね」
エマは転がった人形を拾いながら微笑んだ。どれも汚れて色褪せ、中からあちこちおが屑が飛び出していたが、赤毛の雷神ソールや、ちょっと意地悪そうなロキ、美しい金髪の兄弟に、他にもたくさんの色とりどりの神様が、皆人形になってジョーの遊び相手となっていた。
無論、ここで言う神様とは、古くから言い伝えられてきた北の土着の神様のことで、教会で崇められている主たる神とは全然違う。
彼らは、人々が十字架の遥か彼方に存在を感じるだけの大いなる神とは違って、それぞれが人間のような個性を持ち、戦い、酒を飲み、遊び、喧嘩をし、互いを愛したり憎んだりする。ただ清く正しく美しいだけの存在ではなく、人を騙したり、ずるをしたり、間違いを犯したりする、どこか出来損ないの神なのだ。
「全部イレインが作ったの!」
ジョーがぴょんぴょん跳ねながら、針仕事をしているイレインにまとわりついた。イレインと呼ばれたお腹の大きな女は、危ないわと笑いながらジョーを制した。エマは目を丸くした。
「これを全部!?信じられないわ!あなたって、とても器用なのね!」
イレインは何も言わず、頬を染めて微笑んだだけだったが、ジョーは、
「そうだよ、すごいんだよ!」
と言って、イレインの手元を覗き込んだ。そこには赤毛の女神のような人形の姿がある。
「作るのは好きなの、昔から」
と、イレインは言った。
「でも、お人形遊びは苦手。ジョーみたいにたくさんのお話や台詞が出てこないのよ」
エマは笑った。たしかに神様ごっこをしているときのジョーは、まるで十人に分身したかのように一人でよく喋る。その言葉を全部聞き取って理解しようとするだけでも大変だ。それに、彼女は本当にたくさんの神様の話を知っている。
「神様のお話は誰に教えてもらったの?お母様?」
と、エマは尋ねた。ジョーは大きく頷いた。
「それと、アデルにもね!」
そして、ちらりとカーラを見ると、そそくさとエマのほうに寄ってきて耳打ちをした。
「カーラもたくさん知ってると思うんだけど、あんまり喋らないからよく分かんないの」
エマは優しく頷いた。カーラと呼ばれた老婆は、相変わらず同じ場所で岩みたいに固まった背中のまま、節くれだった指だけ動かして豆の鞘を剥いていた。指先が僅かに震えているが、一分の隙もない見事な動作で鞘から豆を取り出していた。
ジョーはエマを見上げて言った。
「ねえ、お姉様は何かお話ご存知ない?私もっと知りたいの」
いつの間にか、エマはジョーに「お姉様」と呼ばれるようになっていた。ジョーにとってエマは、まさにいたらいいなと想像していた、エレガントで優しい理想の姉にぴったりだったのだ。実際の彼女が、勝ち気で利かん気の強い、ただの田舎娘であることなど、このような路地裏に住むジョーには知る由もない。だがそれでも、中庭でのエマの素敵な貴族の挨拶は、小さな女の子を夢中にさせるだけの魅力に溢れていたのだ。
「お話ねぇ…。私の住んでいた町には、あまり北の商人が来なかったから」
エマは顎に手を当てて考えを巡らせたが、何も思い出したりしなかった。亡き母との会話にだって、古い神様の話はあまり出てこなかった気がする。そもそも、ローランの町の人々は皆敬虔な教会の信徒なのだ。誰も他の神のことなんて口にするはずがない。
ジョーはつまらなそうに、「そうなの?」と口を尖らせ、
「それじゃあ、お姉様のいた町って、どんな町?大きい?小さい?港はあった?素敵な恋の思い出は?」
と、今度は矢継ぎ早に次々と質問を始めた。エマは困ったようにくすっと笑って、知りたがりの小さな女の子の質問に全て答えてやった。
ストールヘブンよりずっと小さな港町であること、羊や山羊がたくさんいたこと、素敵な石畳の坂道があって、いつも美味しそうなパンの匂いがしていたこと。造船所、魚の跳ねる港、明るく朗らかな町人達、丘の上の我が家。それから、忘れかけていた、ほろ苦い初恋の思い出も。
ジョーはうっとりとして、椅子に腰掛けていたエマの膝に上体を預けて聞いていた。
なんて素敵な町なの、行ってみたい。こことは全然違う。もしかしたら、山には巨人が住んでいたりして。
「それじゃあ、お姉様はその初恋は諦めて、あの騎士様と一緒になったのね」
「えっ?」
エマは目を丸くした。「騎士様」というのは、もしかするとアンソニーのことを言っているのだろうか。
「違うわ」
と、エマは言った。
「アンソニーは私の大切な仲間よ。そういう関係じゃないわ」
「そうなの?」
と、今度はジョーが目を丸くする番だった。そして頬を赤く染めて、みるみる間にその真ん丸の目を輝かせると、鼻の穴を膨らませて言った。
「それなら、私が騎士様と結婚してもいいよね!?」
そう言って、ジョーはエマの膝に手をついて、ぴょんぴょん跳ねた。エマは呆気にとられて、「ええ」と返すのが精一杯だった。エマのお墨付きを得て、ジョーはますます満足そうだ。
驚いた、アンソニーって、とても女の子に人気があるのね!と、エマは一瞬で母子双方の好意を勝ち取った彼に関心せざるを得なかった。
ジョーはエマの膝にぐいっと体を乗り込ませてくると、顔を目一杯近付けて、興味津々に尋ねた。
「それじゃあ、お姉様の今の恋のお相手は?」
「えぇっ?」
再びエマは目を丸くした。部屋の向こうで、イレインが「そんなことを聞いては失礼よ」と釘を刺しているが、ジョーはお構いなしだ。
「いるんでしょ、好きな人!」
ジョーはぐいぐい乗り出してくる。小さな体のくせにすごい力だ。押しの強さは母親譲りかもしれない。
好きな人と言われても、そんな人いるかしら、とエマはジョーの期待を裏切る羽目になるのが忍びなくて、なんとか良い答えを探そうと思いを巡らせていた。
ジョージ様にしておく?でも、またサンクレール家を利用するのは申し訳ないわ。それなら、兵士の中の一人ということにする?
エマが考えあぐねていると、突然ジョーが「そっか、分かった!」と声を上げた。
「昨日来た、金髪の素敵な騎士様ね!あの方もヴァイキング達と一緒にいたもん!」
「えっ!?」
エマはここに来てから何度目か分からない、素っ頓狂な声を上げた。
「ジョー」
イレインがたしなめるように、こちらを睨んで首を横に振っている。ジョーは唇を尖らせた。
「昨日、シグルズ様がこちらにいらしていたの?」
エマの反応に、ジョーがにっと口の端を吊り上げた。
「シグルズ様っていうのね!来たよ!病気のヴァイキングを連れてきたんだもん」
イレインが肩をすくめながら、
「たしかに昨日のお昼くらいに、金髪の美しい紳士がお連れの方と一緒に病人を連れてきたわ。その前に既に一人担ぎ込まれていたんだけど、その人の兄弟だっていうから受け入れたの」
と言った。
間違いない、シグルズだとエマは確信した。彼もここに来ていたのだ。最初の部屋で見た、あの苦しそうな病人を連れて。きっと、偶然町で病気のヴァイキング達と遭遇し、善意で彼らの世話を買って出たのだろう。そうしたら不運にも船に閉じ込められて、身動きがとれなくなってしまったのだ。
エマの胸はぎゅっと締め付けられるようだった。彼らしい、いかにも神に仕える聖職者らしい理由ではないか。困っている人達を放っておけなかったのだ。
なのに、あの方の名を口にするだけで、こんなに胸が苦しくなるのは何故?
エマは自分がおかしくなってしまったような気分だった。ジョーがエマの膝に手をついたまま、うっとりと見つめて言った。
「お姉様、シグルズ様のことが好きなのね」
エマが目を見開き、何か言い返そうとしたその時、部屋の外で何やらとんでもない叫び声がするのが聞こえ、女達は一斉に扉の向こうに目をやった。




