第8話 逃亡(1)
密かに塔を降り外へ出ると、黒髪の若い男とフードを被った教会の男が、それぞれに馬の手綱を引き待っていた。
「本当に連れてくるなんて」
呆れたように従者の男は言った。ハラルドソン司祭はひらりと馬に飛び乗ると、エマに手を差し出した。失礼、と一言添えて、黒髪の男がエマを持ち上げた。そして、彼もまた自分の馬に跨がった。フードの男はそこに立ったまま彼らを見守っていた。
「ケネス、後は頼んだぞ。また会おう」
ケネスと呼ばれたその男はため息をついて頷くと、城の中へ引き返していった。
エマは急激に心臓が早鐘を打ってくるのを感じた。逃げるのだ、本当に。家族や故郷を捨て、何も持たず、出会ったばかりの信用できるかも分からない、ほとんど何も知らない人達と一緒に。
「行きましょう」
ハラルドソン司祭が馬に合図を送った。エマの心臓はぎゅっときつく締め上げられるようだったが、もう引き返せないのだ。
裏手に回ると、使用人用の粗末な門の前で老齢の男が立っていた。アダム・ゴードンだった。彼は素知らぬ顔で門を開けた。
「感謝します」
ハラルドソン司祭が馬上から謝意を示すと、アダムは、私は何も知らぬ、ただ客人が帰ると言うので門を開けただけだ、と答えた。
「エマ」
すがるような声が背後から聞こえ、エマははっとして振り返った。トマス・モレイ男爵と弟のフィリップがそこに立っていた。
「お父様、フィリップ」
エマが答えると、二人は走り寄ってきて彼女を見上げた。
「エマ、このようなことになってしまって、本当にすまない。私にもっと力があれば」
トマスは泣き出しそうな顔でエマにすがった。エマは父親の手を取り、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ、お父様。会えなくなるのは寂しいけど、どうかお元気で」
「姉さん」
「フィリップ、お父様をよろしくね。お幸せに」
エマは今にも泣き出しそうになるのをぐっとこらえ、精一杯の笑顔を見せた。本当は話したいことがたくさんあったし、二人のことを抱きしめて、頬にキスしたかった。だが、これ以上顔を合わせていると、きっと人目も憚らず大泣きして皆を困らせてしまう。だから、エマはそれだけ言うと顔をそむけて、ハラルドソン司祭の両腕の中に小さくなって収まった。
「さあ行きましょう」
エマの様子を見たハラルドソン司祭は馬を発進させた。従者もそれに続いた。闇夜は濃く、すぐに彼らの姿は見えなくなり、馬の走る蹄の音だけがわずかに耳に残った。
二頭の馬が城の敷地から出ていくと、アダムは静かに扉を閉めた。トマスは意気消沈して肩を落とし、フィリップは優しく父親の背をさすった。
翌朝、サザーランド伯爵の屋敷に治安判事がやって来た。この国の治安判事は各領主に権限が委ねられており、すなわちサザーランド領の責任者は伯爵その人であった。
「この殺人事件を争いの火種にしてはならぬ。犯人は娘一人とし、ランス家を敵に回すな。ウィルダネスの連中には気の毒であったが、捜査活動に全力を尽くしていると伝え、なるべく落ち着いた対応を求めよう」
「真犯人は探さなくてよろしいのですか?」
アダム・ゴードンは顎を撫でながら、
「事を治めるのが先だ。真犯人は見つかれば良いが、まずは私に報告すること」
と、答えた。
治安判事が了解し、取り調べが始まった。が、一人がエマのいる塔へ向かうとそこはもぬけの殻になっていた。
「どこにもいない、逃走したぞ」
息を荒げて治安判事がランス家の集められた部屋へやってくる。人々は驚き、やはりあの娘が犯人だったのだ、ランス家の顔に泥を塗るようなことをして、と憤った。アダム・ゴードンは壁にもたれてその光景を眺めていた。
「マーガレット、この婚姻はとりやめるべきだ。殺人犯の家族などとんでもない。私から父上には話をしてやるから、さあ」
そう言って、一人の壮年の男が困惑するマーガレットの手を引き、部屋から連れ出そうとした。だが、その行く手を遮るようにして、男が一人、部屋の出入り口に立った。フードを被った、ケネスと呼ばれた教会の男だった。
「お待ちください、まだ取り調べは終わっていませんよ」
何の真似だ、と男は声を荒げた。ケネスは緩慢な動作でフードをはずすと、見下ろすように彼らに向き合った。人々はざわめいた。
「まさか、ランス家の方々は治安判事に協力もできない無法者ばかり、というわけではありませんよね」
彼はにやりと口端を上げた。フードの下から、亜麻色のゆったりとした長髪がこぼれ落ちる。
「さあ、もう一度一人ずつ昨夜のことを話してもらいましょう。銀の銃を一時でも所持していたことがあるかどうかも全て。全員終わるまで、誰もこの屋敷からは出られませんよ」
そして、男とマーガレットを部屋の中へ押し戻すと、気を取り直した治安判事らは取り調べを再開したのであった。




