第26話 市場にて
「おい、エマ、待てよ!待てったら!」
どんどん先に行ってしまうエマを、アンソニーは小走りで追いかけて、パッとその手を掴んで立ち止まらせた。二人とも小さく肩を上下させながら、エマはくるりと彼のほうに顔を向けた。
彼女の頬は上気して赤く、眉も下がって、頼りなさげな表情をしていたが、緑色の瞳は真っ直ぐにアンソニーをとらえていた。
ーーー泣いているのかと思った。
アンソニーは一瞬唇を噛んだが、すぐに彼女の横に歩み寄ると、その小さな肩を優しく叩いて言った。
「勝手に行くと迷子になるぞ」
エマは少し俯いたが、彼の表情の読めない横顔をちらりと見やると、やがて大人しく肩を並べて歩き出した。
不思議と二人の間に会話は少なかった。ぎこちない空気が二人を包んでいた。やっと主人達に会えて嬉しいはずなのに、安心したはずなのに、思っていたように喜びの感情を表現できないのはなぜだろう。
エマは急に自分のとった行動が恥ずかしくなってきて、まるでご機嫌窺いをするように、アンソニーに話しかけた。
「シグルズ様とケネス様がご無事でよかったわね」
うん、とアンソニーは頷いた。
「お二人はお粥なんて作れないでしょうから、宿舎で作って持っていく?」
再び、アンソニーは頷いた。
そしてまた、沈黙だ。エマは言葉に詰まってしまった。米を買うか、それとも小麦を買うか、野菜や、飲み物はどうする、など話し合うべきことはたくさんあるはずなのに、上手く言葉が出てこない。
そうこうしているうちに、市場まで来てしまった。お昼時の市場は朝ほどではないが、まだ充分に活気に溢れていて、人の数はローランやティンカーのピーク時より更に多いくらいだ。ずらりと広場から通りまで隙間なく埋め尽くされた天幕の軒先には、買い物客がひしめいている。
その入り口で、アンソニーはあからさまに大きなため息をつくと、額に手を当て言った。
「ごめん、俺、ちょっと頭がぐちゃぐちゃになってて…」
エマも彼を見上げると言った。
「それは私も。急におかしくなっちゃったみたい」
アンソニーは彼女を見下ろした。二人とも「シグルズ」という名を口に出すことができなかった。その名を口にしたら、また心の均衡が崩れてしまいそうな気がしたからだ。
アンソニーは、自分を信じていると言ったシグルズの言葉に、胸が締め付けられるようだった。ハラルドソン家の呪いの中で生きているシグルズにとって、誰かを信じるというのはとても重い意味をもつからだ。少しでも、疑われていたらどうしようなんて不安になっていた自分が恥ずかしい。
だが、一方で、エマとシグルズの間に流れる妙な空気感に気付かないわけにはいかなかった。今までは、女性を無下にできない性格のシグルズが、必要以上に彼女に構って甘やかしているだけなのだと思っていた。だが、あの時、彼女はまるで戦地に赴いた夫でも見るような目で彼を見つめ、また彼も、恋しい女を求める気持ちが抑えきれないといった様子で、彼女を物欲しそうに見ていたではないか。
だから、アンソニーの頭の中はぐちゃぐちゃだった。恐らく、自分の気持ちに気がつき始めたエマ以上に。だが、幸か不幸か、今はやるべきことが他にある。
アンソニーは、これ以上エマがシグルズへの想いに気をとられないように、しっかりと彼女の手を握ると言った。
「エマ、俺は…」
彼が口を開きかけたとき、広場の奥から誰かが大声を上げるのが聞こえた。人々が一斉にそちらのほうを注目する。声の主達は罵り合いをしながらこちらへやって来るようだ。人々はばっちりを避けようと、後ずさったり飛び退いたりしている。
大声を上げていたのは市場の店主の一人と、客と見られる女だった。店主の男は量り売りのための柄杓を振り上げて、顔を真っ赤にして怒鳴り、女もまた怒鳴り返しながら応戦していた。
アンソニーとエマも、何事かと騒ぎの様子を窺った。
「帰れ!魔女になんて売る物はない!!」
「病人がいるっていうのに見捨てんのかい!?ゲスはどっちだい!!」
男はカッとしたようだ。女の肩を力一杯手で押して突き飛ばした。女はアンソニーの足元に転がってきた。うめき声を上げている。人々がどよめいた。
「ふん!北の連中の病気なんて知ったことか!」
男はパンパンとあからさまに手を叩きながら、吐き捨てるように言った。
エマは思わず頭に血が上って、何かとんでもない言葉を叫び出しそうになった。だが、幸いなことにアンソニーがいた。彼はエマを制すると、倒れた女の肩を支え、店主の男に尋ねた。
「女に乱暴をはたらくとは、どういう了見だ?この女が何の罪を犯した?」
周囲の視線に晒され、男は多少ばつが悪そうにたじろぎながら答えた。
「その女は魔女だ!北の商人をかくまってる!病を町に持ち込んだ!」
アンソニーの手に支えられながら、女が片肘をついて体を起こしながら言った。
「何を見当違いなこと言ってんのさ!あたしらは病人の世話をしてるだけ!病を持ち込んだのは商人連中だろ!」
魔女と言われた女は、みすぼらしい格好をして、茶色い髪に多少白髪は混じっているものの、まだ若そうだった。唇はカサカサに乾燥して色がなく、手も真っ黒に汚れていたが、腰にはしっかりと口が閉じられた巾着がぶら下がっていて、どうやら買い物に来ていたというのは間違いなさそうだ。
店主の男はますます激昂した様子で、顔を赤くして柄杓を振り上げた。女は目を瞑った。人々は再びどよめいた。
だが、アンソニーは、振り下ろされた柄杓を軽く受け止めると、男を睨み付けて言った。
「何も悪さをしてないのに暴力を振るうのはいただけない」
そして、ちらりと広場の向こう側に目をやると、意味ありげな笑みを浮かべて続けた。
「それに、知らないのか?この町は今、警備が強化されてるってこと」
すると、男が何か言い返す間もないまま、人々をかき分けるようにして二人の警備兵がやって来て、あっという間に騒ぎの真ん中に飛び出してきた。
兵士は店主の男と倒れた女、それにアンソニーを交互に見比べて尋ねた。
「どういうことです?」
警備兵は、またお二人ですか、と言わんばかりの表情だ。アンソニーは肩をすくめた。なぜ行く先々で問題が起こるのか、こっちが聞きたいくらいだ。
アンソニーは答えた。
「こちらの店主が、買い物客の女性に不満があるようだ」
すると、店主の男は急に一回り小さくなったようにたじろいで、警備兵達を上目遣いで窺い始めた。二人の兵士はじろりと男を見下ろした。そして、腰に手を当て、ため息をつくと、「よろしい」と一言吐き出して言った。
「あなたの不満は詰所で聞きましょう。それで良いですね」
男は、ええ、とか、でも、とか、しどろもどろになりながら言葉を探していたが、こうなったらもう抵抗する術はない。二人の兵士に挟まれて、ちらりとこちらを見て顔をひきつらせ、何か言いたそうにしていたが、アンソニーは目を逸らしてそれを無視した。エマはエマで、ずっと何か口を挟みたくて仕方ないのを堪え、むっとした表情のまま彼らを見送った。
アンソニーの手の中で、女が身をよじった。彼は彼女に手を貸して立ち上がらせた。女はパンパンと服を叩くと、顔にかかった髪を払いのけながら言った。
「悪かったね、巻き込んじゃって」
立ち上がった女は、痩せていて身なりこそみすぼらしいものの、美しい顔立ちの女だった。年の頃は分からない。アンソニーと同じか、もう少し上か、下かもしれない。
女が手を差し出すので、アンソニーはその手を取り、握手した。すると、少しの間を置いて女は吹き出すように笑った。アンソニーは怪訝な顔で女を見た。
「いや、変な意味じゃないんだよ。ただ、おかしくってね」
アンソニーはますます訳が分からないといった様子でエマと顔を見合せた。
女は腰に手を当ててアンソニーを見ると言った。
「昔はこうやって手を出すと、男どもが跪いてキスしてきたものだけどね、今じゃせいぜい握手だもんね」
手を握ってくれただけマシだよ、と女は高らかに笑いながら言った。
アンソニーは肩をすくめて、すまない、と返事が合っているか分からないまま、とりあえず答えた。
「いいよ、気にしてない。あんた、良い男だね」
そう言って、女はアンソニーに片目を瞑ってみせた。アンソニーはぎょっとして肩をすくめたが、それ以上彼女が何かしてくることはなかった。
すると、エマが横から顔を出してきて、女に尋ねた。
「あなた、お怪我はありませんか?何か買おうとなさっていたのね、病気の商人をかくまってるって…」
女は、ふんと鼻を鳴らすと答えた。
「かくまってるんじゃない、世話してんの。ちゃんと医療費もらってね!」
そして、ずいっとエマの目の前にやってくると、腰に手を当てて詰め寄った。
「あたしが何を買おうとあんたらの知ったこっちゃない!そうやって難癖でもつけて役所に突き出すつもり!?」
エマはどう返したらいいものかと戸惑っていたが、アンソニーが彼女達の間に入ると言った。
「難癖とかじゃなくて、俺達も病人の世話が必要で買い物に来たところなんだ」
女はじろりとアンソニーを見上げた。アンソニーはエマの代わりに弁明するように答えた。
「港でノースガルドの商船が封鎖されてるって聞いてないか?俺達は彼らの支援をするためにここに来たんだ」
ふうん、と女はあまり信用していない様子で、アンソニーのことを上から下までじろじろと見た。アンソニーは体に穴が開きそうな気がして居心地が悪かったが、これ以上彼女の神経を逆撫でしないようにじっとしていた。女の扱いは全く彼の得意とするところではないのだ。
彼の背中にだらだらと冷や汗が流れ落ちてきた頃、ようやく女は、はぁと大きなため息をついて言った。
「あたしの名はベラ。買い物に付き合ってくれるって言うなら、あたし達もあんたらに協力してあげる」
アンソニーとエマは再び顔を見合せた。ベラという名の女は、にんまりと笑うと続けた。
「案内してやるよ、魔女の巣窟にさ」




