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《狭間の国》のエマ ~捨て駒令嬢と蛇の神父様  作者: 夜中メグ
第二章

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第25話 流行り病(3)

 船の中は苦しそうな病人達のうめき声で、こちらまで頭がおかしくなるほどだった。商船の狭い甲板の上にはマットが敷き詰められ、病人達はそこに寝かされていた。売り物である馬達は既に下ろされ、船底には毛皮やセイウチの牙など、一部の商品が残っているのみだ。富裕層を顧客に持っている一団だったのであろうか。

 シグルズとケネスはそんな船の上で途方に暮れていた。

 ヴァイキングの一団が病に冒され、道端で話をしていたトルフィンも熱で倒れたと知ったのは昨日の午後のことだった。二人は船の様子を見に来ていたのだが、タイミング悪く、流行り病の騒ぎを聞き付けた役人により、船内に取り残されたまま封鎖されてしまったのだ。

 食料は既にほとんど底を尽いていると言っても良い。より多くの商品を積み込むために、もともと船員のために必要な荷物は最低限しか持ち合わせていないのだ。病人の世話をするための栄養のある食べ物もなければ、暖かい布団も、水さえない。


「困ったな、このままでは私達も餓死しかねないぞ」


 シグルズが顎に手を当てて言った。


「その前に病がうつって死ぬかもしれませんよ」


 ケネスは肩をすくめて答えた。

 病死するのが先か、餓死するのが先か、シグルズは苦笑しながら呟いたが、もちろんそんなふうに惨めに死ぬつもりは毛頭ない。強行突破することも考えたが、余計な騒ぎを起こすのは、今は得策ではないだろう。なんとか打開策を考えなければ。要は目の前にいる病人達が全員治ればいいのだ。

 でも、どうやって?


「せめて、誰か食料と毛布でも届けてくれたらなあ」


 シグルズは独りごちた。発熱しているときは誰でも食欲は湧かないものだ。船に備蓄してあるのは保存のきく干し肉や、チーズや固いパン、酒などで、とても病人に勧められるような代物ではない。こんな時には、くたくたに煮込んだ粥や、野菜スープにパンを浸して食べるのが一番なのだが、あるわけもない。

 すると、視界に見慣れた黒髪と赤毛が飛び込んできて、シグルズは目を見開いた。二人は港を通り抜け、真っ直ぐ桟橋を突き進みこちらへやってくる。シグルズの顔がにんまりと輝いた。


「おい、ケネス、私の従者は素晴らしいな!救世主だ!」


 ケネスが船の外に目をやると、そこにいたのはアンソニーとエマであった。

 二人は桟橋の手前でシグルズとケネスに気がつくと、大きく手を振った。そして、船から少し離れたところまでやってくると、声を張り上げ言った。


「シグルズ様、大丈夫ですか!?」


 シグルズは笑いながら、大丈夫じゃない、と声を返した。二日ぶりに見た桟橋の上の二人は、変わらず元気そうだ。多分、それ以上は船に近付くなと役人か港の職員に言われているのだろう。

 彼らは交互に、大声で言った。


「俺達は港の許可を得て来ました」


「何を持ってきたらいいですか?何でもおっしゃってください!」


 シグルズは心配そうにこちらを見上げて声を上げるエマを見て微笑んだ。よかった、無事だったのだと、急速に気持ちが緩み、胸が温かくなっていくのを感じる。あれほど気が急いて、落ち着かなかったのが嘘のようだ。

 だが、こんなふうに再会するつもりではなかったのになあ、とシグルズは眉を下げ、彼女を見下ろしながらため息をついた。銃を持った兵士に追われながら別れたのだ。どんなにか恐ろしかったことだろう。

 つい、抱きしめてやりたいと、病気のヴァイキング達もこの状況も何もかも放っぽり出して、そんなことを思ってしまう。

 それを言ったら他の二人は怒るだろうな。シグルズは隣に立つケネスと、桟橋の上のアンソニーを交互に眺めながら苦笑した。

 そして、心の内を悟られないように、なるべく威厳を保ったまま答えた。


「食料だ!病人に食べさせるものがない。それから毛布と水も」


 離れた場所で、エマは頷いた。

 一方で、彼女はシグルズの姿を見て、涙が溢れそうになるのを、唇を噛み締めてぐっと堪えていた。お元気そうでよかったと、張り詰めていた心の内側がじわっと解きほぐされて、崩れていくような感じだった。きっと、最後の一本の糸が切れたら泣いてしまうだろう。

 強がってはいても、本当はずっと不安だったのだ。もしも彼に何かあったらどうしようと、最悪の事態が何度も頭をよぎり、その度に彼女はあまり深く考えないように努めてきた。ストールヘブンに移り、ここにいると分かってからだって、病に冒されて苦しんではいまいかと、本当は気が気ではなかったのだ。

 なるべく他のことに目を向けて、大丈夫なふりをしていないと、どんどん悪いほうへ悪いほうへと思考が傾いてしまう。

 エマはそれ以上何も言葉を返すことができず、


「行きましょう」


と一言だけ告げて、船とアンソニーに背を向けて歩き出した。

 もう涙がこぼれ落ちる寸前で、見られたくなかったのだ。アンソニーは慌てて彼女を引き止めながらも、主人に向かって再び声を張り上げた。


「待っていてください、また用意してここに置きに来ます。俺達は船へ上がることはできませんから!」


 シグルズは分かったと手を上げた。少し離れたところにある詰所では、港の職員達がじっとこちらを注視している。連中はずっとあそこから船の中の人々が外に逃げ出さないか、監視しているのだ。

 だが、


「アンソニー」


と、急いでエマを追おうとするアンソニーを、シグルズは呼び止めた。

 再会したら、なんと声を掛けようか、シグルズはずっと考えていた。だが、考えれば考えるほど、気が利く言葉というのは案外思い付かないものだ。それなら、長々と神父らしく説くのはやめよう。そもそも彼とは、神父と信徒という間柄でもないのだ。

 シグルズは息をつき、穏やかに微笑むと言った。


「おまえが何者であろうと、私はおまえを信じている」


 アンソニーはちらりと船を見上げた。まるでこの海のように揺らめく、主人の穏やかなブルーの瞳とぶつかった。暖かな太陽の光に反射して、金色の髪が眩しいほどに輝いている。

 アンソニーは一礼すると、駆け足で去っていった。そんな従者の姿を船上から見送り、シグルズは大きく深呼吸をすると言った。


「聞いただろう、もう少しの辛抱だ。もうじき、私の優秀な家来が、旨い食べ物と暖かい布団を持ってやって来るぞ」

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