第20話 陰でうごめくもの
荷馬車は明らかに重量オーバーだった。エマ一人ならまだしも、大の男が五、六人も乗っているのだ。年寄りの輓馬はひいひい言いながら、のっそりのっそりと動き、これでは到底朝までにストールヘブンへたどり着けそうになかった。
「困ったな」
アンソニーはぽりぽりと頭を掻いた。
「これじゃあ、歩いていったほうが早いくらいだ。今からでも引き返して、ヘルギで馬を調達してくるか」
数十分かけても、教会まで来るのがやっとだった。エマが囚われていたときの、鐘の音が近くで聞こえた気がする、というのは決して気のせいではなかった。荷台の連中が根城にしていた廃墟は川のすぐ近くだったが、街道まで出れば、あの名もなき教会はすぐそこだったのだ。
エマはアンソニーがヘルギの宿屋で借りた馬に跨がっていた。馬車の操縦には自信がなかったので、こちらを譲ってもらったのだ。体が痛むのでは、とアンソニーは心配したが、追手に追われた時のように全速力で走らない限りは全く問題ない。
「この子が馬車を牽ければいいんだけど」
エマは馬の首を優しく撫でてやりながら言った。体が大きく、力も強いが、とても穏やかな性格の馬だった。彼女は一目でこの馬が気に入ったのだ。アンソニーは、ご婦人向けではないと笑ったのだが。
「素質はありそうだが、訓練していないと流石に無理だろう。こいつらを途中で落としたりしたら困るからな」
「はっ!その前にストールヘブンまでたどり着けなくて、途中で根を上げるだろうな!言っておくが、俺は歩かないぜ」
先程意識を取り戻したバーナードが、腫れぼったい顔のまま、嘲るように言った。アンソニーはじろりと彼を睨んだ。
「口を開くなら、もう少し役に立つことを言え」
バーナード達は、誰にこの件を唆されたのか、決して吐こうとしなかった。いや、吐くに吐けなかったのだ。彼ら自身、相手が誰かなど知らなかったのだから。
ただ、分かったのは、頭からマントを被り、口元も布で覆い隠した、いかにも怪しい風貌の男だということと、彼らの組織がストールヘブンに滞在しているということだけだ。しかも、その男も、謎の組織も、どうやら警備兵がやって来たのと同時に、煙に巻くように消え失せてしまったときたものだ。あとは何とかして、ストールヘブンで手掛かりが掴めれば良いのだが、これ以上は警備兵や治安判治ーーーすなわち、ジョージ・サンクレールに任せるより他ないだろう。
領地の責任者がエマの事情を知っているジョージだというのは、不幸中の幸いといったところか。
「おやおや、これは一体どうしたことでしょうか」
行き詰まって困り果てていると、教会からロイ・アダムス司祭が顔を出した。まだ夜明けには随分早いというのに、こちらが騒ぎすぎてしまったのだろうか。
アンソニーは嫌な顔をしながらも、ひとまずは礼節をもって司祭に頭を下げた。エマは自らの格好を恥じて、少し後ろに下がって同じように礼をした。バーナード達は荷台で縛られたまま、ふんと顔を背けた。
「アダムス司祭、お騒がせして申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
司祭は感じ良くにこりと微笑むと、答えた。
「全く問題ありません。朝のお告げの時刻まで、もう二時間ほどですから」
「あと二時間で朝ですって?」
エマは驚いて、思わず声に出して言ってしまった。アダムス司祭は笑いながら、少し距離をとったまま彼女の姿を見て、それから荷台に乗せられたおかしな荷物達を見た。エマは居心地が悪そうに顔を背けた。
アンソニーは肩をすくめながら、言葉少なに説明した。
「これは、その、ちょっとした事件があったのです。私と彼女はそれに巻き込まれ、この後ろの連中をストールヘブンに連行するところでした。ですが、このように立ち往生してしまい…」
そう言って、再び彼は肩をすくめた。
アダムス司祭はというと、ふむふむとさほど驚く様子もなく、顎に手を当てて彼の話を聞いていた。そして、合点がいったように頷くと、両手を広げて提案をした。
「それなら、私の馬を貸しましょう。毎週ヘルギにお使いに向かわせるのに使っている、まだ若くて元気の良い馬です。そちらの老馬と交換したら良いでしょう」
それは願ってもない提案だった。アンソニーは借りを作りたくないなと思いながらも、このままではあと二時間で朝になってしまうので、受け入れざるを得なかった。さらにアダムス司祭は全員を見ながら言った。
「それから、下男達に馬を取り替えさせている間、あなた方は飲み物を飲んで、何か食べるべきです。見たところ、全員が傷だらけだし、疲れきってひどい顔をしていますから」
エマとアンソニーは目を合わせた。
「司祭様、なんとお礼を申し上げたら良いのでしょう」
エマは胸に手を当てて感謝の言葉を述べた。彼女の着ている服はアンソニーの上着で、袖も長すぎるし、肩が大きく落ちて不恰好だったが、アダムス司祭は気にすることなく微笑んだ。
エマがアダムス司祭に好感を抱いているのをアンソニーは不満そうに見ていたが、実際、司祭がこれ以上なく親切にしてくれることに文句がある者は誰もいない。しかも、彼は聖職者らしく、荷台のお荷物達にも分け隔てなくエールとパンを恵んでくださったのだ。もちろん彼らは手が使えないから、渡されたところで、受け取ることも、口に運ぶこともできなかったのではあるが。
「近頃は私の館に良からぬ連中が集まっていると聞いていたので、どうしたものかと困っていたのです」
アダムス司祭は、ちらりと荷台のほうに目をやると、これ見よがしに頭を抱えながら訴えた。バーナード達は足元に置かれたパンや、ボウルに注がれたエールを手を使わずに器用に飲み食いしていたが、司祭の視線を感じると目を逸らした。
「あの建物は司祭様のものだったのですか?」
あっという間にエールを飲み干しながら、アンソニーは尋ねた。作り置かれて数日経っていたのか、少し味は酸っぱくなっていたが、くたくたの体に染み渡る。エマはそれ以上に、まさに生き返ったような顔をしていた。
アダムス司祭は答えた。
「ええ、そうです。昔はとても良い家でした。ですが、ご覧になったように、今では廃墟同然です」
「地上部分はほとんど崩れてなくなっていますね。かなり古い年代のものですか?事故か何かで?」
アンソニーが尋ねると、アダムス司祭は悲しげに眉を下げた。だが、ふとその目が笑ったのをアンソニーは見逃さなかった。悲しそうな表情の裏で、心の中では嘲っている、そういう顔だ。
「それはあなたのご主人がよくご存知でしょう」
アダムス司祭が口の端を吊り上げながらそう言ったので、アンソニーはぞっとした。
「何故そんなことをおっしゃるのですか?あなたは私の主人が誰なのか、知らないでしょう」
だが、司祭は何も答えなかった。アンソニーは彼の濃い緑色の瞳をじっと見た。何を考えているのかさっぱり分からない、底知れぬ恐ろしさと闇を感じる目だ。
「行こう。ゆっくりしている暇はない」
アンソニーは、エマやバーナード達のグラスやボウルを手際よく回収し、下男に渡した。罪人どもは手が使えず、まだ飲み終わっていなかったので、慌てて顔をボウルにつけて勢い良く吸い込んだ。エマはアダムス司祭に丁重にお礼の言葉を述べた。
「司祭様、寛大なお心遣いに感謝いたします」
「礼にはおよびません」
アダムス司祭は後ろで手を組み、にっこりと笑った。
「それに、もし私が昨日言ったことをお忘れでなければーーー次は是非、あなた方のご主人様と一緒にいらしてください。呪いについて、知りたいことがあるようだから」
エマは戸惑い、アンソニーを見た。このアダムス司祭は、見かけは良い人なのに、時々こうやって訳の分からないことを言う。まるで、謎かけでもしてくるみたいに。
アンソニーはエマの視線には気付かず、ただ射抜くような鋭い目で、司祭を睨み付けていた。
「また会いにきますよ、馬を返しにね。でも、それだけだ」
そう言って、アンソニーは御者台に乗り込むと、最後にもう一度だけ司祭を見た。アダムス司祭は変わらず、不敵に微笑みながらこちらを見ていた。美しく整った顔の下に、とんでもない怪物が隠れているような気がして恐ろしかった。
アンソニーは馬を発進させた。エマもそれに続いた。寒空の中、アダムス司祭は去り行く者達を、それが小さな点になって見えなくなるまで、ずっとずっと見つめ続けていた。
***
一方、森の中では、みぞおちに鋭い攻撃を受けて倒れていた男が、痛みをこらえ、ふらふらになりながら川下へと向かっていた。
「畜生…!」
男は、ぎりぎりと唇を噛んだ。何もかもが上手くいかなかった。あの女を誘拐してきたら大金を得られるという話だったのに、持ち掛けてきた連中は消えてしまったし、仲間も大勢捕まってしまった。
計画は完全に失敗だった。バーナード達は治安判治に突き出され、そのうち自分も指名手配されるだろう。商売につまずき、大金欲しさに道を外れるような真似をしたからこうなったのだ。始めからこんなことには関わるべきではなかった。もう少しで、金を得るどころか、死ぬところだったではないか。
足を引き摺りながら必死に歩いていると、眼前にふと怪しい風貌の男が現れた。それまで、まるで人の気配などなかったのにと、彼は身をすくませた。だが、それが例の依頼主の男だと分かるや否や、彼は声を荒げて言った。
「おまえ…!何故いなくなったんだ!話が違うじゃねえか!!」
だが、亡霊のようなその男は、冷ややかな目で彼を見下すと呟いた。
「しくじったのだな、役立たずめ」
そして、胸元からナイフを取り出すと、躊躇うことなく、さっと一息に男の胸を切りつけた。
しくじってない、言う通りにしたと、男が漏らすのが聞こえたが、布で覆われた顔からは何も表情は窺えなかった。
男は呻き、口から泡を吹いてこと切れた。ナイフには毒が塗ってあったのだ。小さな刺し傷一つでも、一度体の中に入り込めば、たちまち死に至るような猛毒だ。
マントを被ったその男は、汚らわしいものを払うようにナイフについた血を振り落とし、丁寧に拭き取ると、再び胸元にしまい込んだ。
「女の生死は問わぬと言ったのに」
そう言って、男は生気のない、冷たい目で足元を見下ろした。そして、血で汚れた雑巾をまるでゴミのように倒れた男の上に放り投げ、再び来た時と同じように、静かに去っていった。
さながら、地獄から這い出してきた亡霊が、暗闇に溶けて消えていくかのように。




