第19話 狙われた女(4)
アンソニーは息を切らしながら、徹底的に打ちのめされ、血塗れで痣だらけの無惨な顔で横たわるバーナードを冷めた目で見下ろしていた。エマが声を上げなければ、このまま殴り殺していたかもしれない。身体の内から込み上げる、まるで獣のような衝動に突き動かされ、自分が自分でないような感覚だった。
エマはすぐそこに立って、アンソニーを見ていた。彼女は不安だった。あんなに激しく、我を忘れるほど暴力的な彼を見たことがなかったからだ。
だが、振り返った彼はいつもの穏やかな彼だった。少し眉を下げ、落ち着かない様子でこちらを見ている。思わずエマは駆け寄り、二人は強く抱き合った。
「エマ…!」
「アンソニー!ごめんなさい、私…」
今にも泣き出しそうな声で訴えるエマを、アンソニーは殊更力強く腕の中に閉じ込めると、首を横に振って答えた。
「いいんだ、謝るな。おまえを一人にした俺が悪いんだ」
アンソニーは上着を脱ぐと、エマの肩にかけた。近くで見ると、本当にひどい有り様だ。顔は青ざめているのに、頬が赤く腫れ、唇は切れて血が滲んでいる。
彼はそっと彼女の頬に手を寄せ、嘆いた。
「よくもこんなひどいことを…!恐かっただろう」
エマはちらりとアンソニーを見上げると、力なく微笑んだ。
「大丈夫よ、何とかなるって信じてたもの」
そして、自分の手を彼の手に重ね合わせると、ふうと息をつき、目を閉じて噛み締めるように言った。
「あなたの手、温かいわ」
エマの手は、すっかり冷えきっていた。何時間も冷たい床の上に縛られたまま放置され、食べ物も飲み物も何も与えられていなかったのだ。今立っていられるのが不思議なくらい、足先も氷のように冷たくなって感覚がない。
アンソニーは彼女を抱きかかえ、椅子の上に座らせた。そして彼女の乱れて汚れた髪を綺麗に撫で付けてやると、優しく語りかけるように言った。
「待ってろ、あいつらを縛りつけてきたら、すぐに戻ってくるから」
エマは頷いた。
「その前に、あれを取ってくれない?」
彼女が指差すほうを見ると、一本の短剣が落ちていた。以前シグルズが彼女に与えていたものは、ヘルギに行く途中で投げてしまったので、アンソニーが今朝のうちに買い直していたのだ。
アンソニーは、つかつかと歩いていって、床に落ちた護身用の短剣を拾い上げると、彼女に手渡した。
「あなたの言う通り、持っていて正解だったわ」
エマは嬉しそうに呟いた。何かあったときのためにと、上着の内側に剣を隠し持っていたのだ。両手を縛られてすぐに取り出すことができなかったのは反省点だが、外から見えないおかげで気付かれずに済んだ。
アンソニーは苦笑し、頷いた。
「ああ、さすがだよ。こんなに勇敢な女性はおまえくらいだ」
そして肩をすくめて、
「でも、これほど早く役に立つとは思わなかった。今後は使わずに済むことを願うよ」
と言った。
二人は目を合わせると、微笑んだ。ほっとして肩の力が抜けるようだ。アンソニーも、いつもの彼に戻って本当によかったと、エマは心から安堵した。
その後、アンソニーはまず気を失ったバーナードの懐をごそごそと探って、サンクレール家の印璽を探してエマに返した。それから、彼をぐるぐる巻きに縛り付けると、廃墟の前に留め置かれていた、建て付けの悪い荷馬車の荷台に放り投げた。
どうやら、エマはこれに乗せられてきたようだった。人目につくのを避けるためか、荷台の端には大きな黄麻の敷物がぐしゃっと丸めて寄せてある。繋がれたままの馬は、あれだけの騒ぎにも関わらず、大人しくそこで待っていた。
他にも男達が数人倒れているが、何人かは逃走したような気配がある。地下室に飛び込む前に揉み合っていた男も、気がついたらいなくなっていた。アンソニーはため息をついたが、とりあえずバーナードは捕獲できたのだから良しとしすることにした。
彼は残りの男達も同じように縛り付け、荷台に放り込むと、再びエマのいる地下室へ下りていった。
彼女はぼんやりと格子窓を見上げながら、指輪を握り締め、変わらず椅子に座っていた。よほど恐い目に合ったのだろう。アンソニーは水で濡らしたハンカチを彼女に手渡すと言った。
「これで頬を冷やすといい」
エマは黙って受け取り、自分の頬に当てた。ひんやりとして気持ち良い。体はとても冷えているのに、叩かれたところはじんじん熱を持っているのだ。
アンソニーは首に巻いていたスカーフを外し、二つに裂いた。そして、エマの血が滲んだ足首をそっと持ち上げると、丁寧にそれを巻き付けた。
「他は宿に戻ってから手当てしよう。足は歩くときに痛むから」
エマはきょとんとして足元で膝をついているアンソニーを見下ろした。彼は肩をすくませ、言った。
「痛すぎるなら、俺が抱えていってもいいけど」
「いいえ、そうじゃないの」
エマは言った。
「アンソニー、あの人達、誰かにお金をもらう約束をしてこんなことをしたみたいなの」
首を傾げながらも、アンソニーは頷いた。
「ああ、そのようだな。どいつもこいつも素人ばかりだった」
「でも、その指示した人達がいなくなったって。警備兵が来たって聞こえたわ」
「なるほど、つまりあいつらは切り捨てられたんだな」
アンソニーは小さなエマの足を持ち、手を動かしながら考えた。ヘルギに警備兵は来ていなかった。もしここに警備兵がいたら、今頃あの連中はとっくに逃げ出しているか、少なくともエマだってこんなことになる前に助かったに違いない。
ということは、指示役は別の町にいたのだろう。地理的に考えても、やはり一番に頭に浮かんでくるのはストールヘブンだ。
エマはアンソニーの頭の中を見透かしたように言った。
「行きましょう」
「えっ!?」
アンソニーは素っ頓狂な声を上げた。
「連れていくのよ、あの人達を。警備兵のところへ」
エマはきっぱりと言った。
「でも…」
アンソニーは戸惑った。たしかに、エマの言う通り、あいつらは警備兵に引き渡すべきだ。どのみち、このまま放置しておくわけにはいかないし、しかるべきところへ突き出して、しかるべき罰を受けてほしい。
だが、こんな状態のエマを連れていくのは無理だ。アンソニーは首を横に振ると言った。
「それはそうだが、おまえを宿に連れていくほうが先だ」
「なぜ?」
アンソニーは目を丸くして、肩をすくめた。
「なぜって、ひどい怪我じゃないか。それに服もボロボロだ。そんな状態で行けるわけがない」
「行けるわ。怪我は大したことないもの。しばらく動けなかったから、体が冷えて固まってしまっただけ。服はあなたのを借りたから大丈夫よ」
全然大丈夫じゃない。アンソニーはそう言いたかったが、エマが言い出したら聞かないことは、もうなんとなく分かっていた。でも、ここは譲れない。こんな状態の彼女をこのまま夜道に連れ出すなんて、できるわけがない。
「夜だからいいのよ」
と、彼女は言った。
「夜だから、無駄に人目につかずに済む。騒ぎを大きくしたくないの。朝が来る前に連れていきましょう」
アンソニーは立ち上がり、額に手を当て、ため息をついた。本気で言っているのか?彼としては、連中を突き出すことより、エマを休ませるほうを優先したかったのだが。
でも、事を荒立てたくない彼女の気持ちも分かる。目立っても良いことがないのは彼女も同じだからだ。連中を動かしたのは誰だったのだろう。まさか、あの時の追手が?アンソニーは眉根を寄せると、長いため息をつきながら、首を横に振った。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、エマは少し声色を落とすと、窺うよう彼に尋ねた。
「ところで、シグルズ様達の行方は分かった?」
今度はアンソニーがきょとんとする番だった。シグルズのことなど、今まで綺麗さっぱり忘れていたのだ。そういえば、そもそも二人を探すためにエマを一人置いていったのだっけと、ようやく今になって思い出したくらいだ。
アンソニーは自分の上着を着て、自分を上目遣いで見つめ、他の男のことを考えているエマを見下ろし、困ったように笑った。
エマは訝しげに彼を見上げた。
「まいったな」
アンソニーは頭を引っ掻きながら、エマのブーツを拾ってくると言った。
「手掛かりはつかめたよ。ストールヘブンだ。恐らくそこに警備兵も来てる」
「本当に?」
アンソニーはエマにブーツを履かせてやりながら答えた。
「そうだ。どうも馬が怪我をして、思うように動けなくなったらしい。湖近くの村人が教えてくれた」
「それで、ストールヘブンへ?」
「確信はないが、別れてからもう二日になるからな。思ったより北へ逸れてしまって、ストールヘブンに一旦移動したと考えるのが妥当だろう」
エマは頷いた。アンソニーはエマのブーツの紐を少し緩めに結んでやると、彼女を見上げ、微笑んだ。エメラルド色の瞳は、すっかりいつもの活気を取り戻し、輝いているように見えた。
アンソニーは立ち上がった。
「ストールヘブンへ行って、シグルズ様達を探すついでに、あいつらを警備兵に突き出してこよう」
そして、立ち上がれるか?と彼女に尋ね、アンソニーが手を差し出すと、彼女はにっこりと微笑んでその手を取り、
「ええ、もちろんよ」
と、まるで今までの騒動などなかったかのように、すっと美しく立ち上がった。




