第18話 狙われた女(3)
馬を走らせながら、アンソニーはなぜあんなことを言ってしまったのかと考えていた。
大切だ、なんて、自分達を夫婦だと信じ込んでいる宿屋の主人からしてみれば不自然な台詞ではなかったが、アンソニーにとっては掛け値なしの本心から出てきた言葉だった。
仲間なのだから、同じ主人に仕える者同士として、彼女のことは大切に決まっている。だが、それだけでは片付けられない、強い想いがあることに、アンソニーは気付かずにはいられなかった。
ストールヘブンはヘルギの北だ。アンソニーは一目散に街道を北上していった。その道中には今朝ロイ・アダムス司祭と出会った教会があり、さらにその向こうには廃墟となった館跡がある。
川沿いに煙と火が上がっているのが見えた。もしかしてあれが宿屋の主人が言っていた、廃墟にたむろする悪い連中だろうか。アンソニーは立ち止まり、考えた。
だが、やがて前を向くと、彼はその場を立ち去った。
***
そのころ、エマは暗い地下室で一人ぼっちだった。お腹も空いたし、喉も乾いた。男達は交代で見張りをしているようだが、あれから全く音沙汰がない。
外はすっかり暗闇だ。教会の夜のお告げの鐘を聞いてから随分時間が経った気がする。
鐘の音は町にいたときよりもとても大きく聞こえた気がした。ということは、ここは教会の近くなのかもしれない。
だが、それが分かったところで何ができるというのだろう。縄はきつく縛られていてびくともしないし、解けたところで出入り口は落とし戸だけだ。しかも、格子窓からは男の足がずっと見えている。まるで、逃げ出そうと思っても無駄だぞ、と暗に脅してきているように。
エマは冷たい足先をもぞもぞと動かしてみた。まだかろうじて感覚はある。部屋の隅に彼女の履いていたブーツが転がっている。
次いで、腰の辺りに手をやってみた。上着の上から、細長くて硬いものに触れるような感触がある。エマはどうにかしてそれを取り出せないかやってみた。もうここへ閉じ込められてから何度も試してみたことだ。だが、どうやってもたくさんのボタンできっちりと閉じられた上着の下に縛られた手を入れることはできないし、かといってボタンを外すこともできそうになかった。
痛みと空腹と疲労感、それに底冷えする寒さでうつらうつらとしながら、エマは外で男達が怒鳴り合っているのをおぼろげに聞いていた。
「畜生!!まだ行方は分からないのか!?」
「俺達、騙されたんだ!」
「女だけ拐ってきて、これからどうしろって言うんだよ!」
男達はかなり苛立っているようだった。少し前にバーナードが言っていた、彼女をご所望だった方々が行方不明だということと関係があるのだろうか。
それなら今すぐ解放してくれたっていいのに、とエマは心の中で愚痴をこぼした。用がないのならもう逃がしてほしい。だが、これだけ大事にしてしまった後ではそうもいかないのであろう。
バンと乱暴に落とし戸が開き、バーナードともう一人の男が入ってきた。明らかに殺気立った様子で、エマは肩を震わせ、怯んだ。
「おまえを欲しがってた連中が見つからねえ」
バーナードはエマにずいっと顔を近付けた。エマは反射的に顔を背けた。
「おい、女。おまえ誰に狙われてるんだ?正直に言え」
「知らないわよ」
そんなの、こっちが知りたいくらいだ。クローストン卿はいなくなったし、ウィルダネス兵は大方捕獲してサンクレール家から正式に抗議しているので、しばらくは動けないはずだ。なのに、あの追手は一体どこから来たのだろう。
バーナードは再びエマの頬を叩いた。唇の端から血が流れた。
「そうか、わかった」
そう言うと、バーナードはエマの体を足で思い切り蹴ってなぎ倒した。そして、彼女の髪を乱暴に掴み、顔を上げさせると言った。
「悪いが、連中がいなくなった以上、俺達もおまえに用はない」
エマは呻いた。
「だが、ここまで来て解放するわけにはいかん。誰かにチクられても困るからな」
そして、バーナードは引っ張り上げた髪を離し、再び彼女の体を力任せに突き倒すと言った。
「どうせ死んでもいいような女だ。だったら最後に楽しませてもらおうか」
バーナードは彼女を仰向けにすると、体の上に跨がった。その顔は赤黒く、憎悪と悪意に満ちていて、もはややけくそと言っても良いくらいだ。エマはぞっとした。
「やめて!」
エマは縛られた足を振り上げ、抵抗した。
「お行儀の悪い足だな」
バーナードはエマのスカートをめくり上げると、太ももを平手で叩いた。もう一人の男がやって来て、足を押さえた。バーナードは彼女の肩を床に押しつけたが、エマは力一杯抵抗し、彼の手に噛み付いた。
「ぐっ…、畜生!!」
バーナードは痛んだ手を押さえ、怒りに任せて再びエマの頬を叩いた。彼の手から血が流れているが、彼女だって傷だらけだ。それでも、黙ってやられっぱなしになんてなりたくない。
「この、じゃじゃ馬が!!」
バーナードはナイフを取り出した。殺されると思って、エマはぎゅっと目を瞑った。振り上げられたナイフは彼女の服を切り裂き、胸元を暴いた。ほんの少し、白い肌に血が滲み、首にかかっていたシグネットリングが揺れた。
バーナードは目を細め、眉を吊り上げた。
「なんだ、これは」
金色に光る指輪がバーナードの目に触れ、エマはハッとした。
「この紋章…、もしかして伯爵様の指輪か?いいもの持ってんじゃねえか!金がもらえなくてもこれは使えるぜ!」
バーナードは勢いよく指輪を引っ張った。首が痛んだかと思うと、ぶつりと音を立てて革紐が切れ、ジョージの指輪は男の手の中に収まった。エマは叫んだ。
「駄目!!返して!!」
その時、ふいに外で物音がして、男達の悲鳴が聞こえてきた。何事かと、バーナードは立ち上がり、急いで階段を上がって、外の様子を見に行った。エマの足を押さえていた男もその場から離れた。
必死に抵抗して息も絶え絶えだったエマは、男達が目を離した隙に、上着の中に手を入れ、急いで腰の辺りをまさぐった。野蛮な連中のおかげで、かえって手が届くようになったのは良かった。欲しいものはすぐそこに見えている。指先に金属の冷たい感触が伝わってくる。
縄が擦れたところから血が滲み出ていた。だが、構うものか。逃げるなら今しかない。
「嘘だろ…」
外を見たバーナードは息をのんだ。仲間が皆一人の男にやられてバタバタと倒れていたのだ。
その男の手に握られた剣の切っ先からは、ぽたぽたと赤い血が垂れ、頬には返り血が飛んでいた。男は暗闇に溶け込むような漆黒の髪をしていたが、こちらをじろりと一瞥したその目は金色に光っている。
バーナードは思わず身をすくませた。まるで闇夜で狩りをする狼のようだ。
「ふん!商人風情が寄ってたかって…、相手にならんな」
アンソニーが頬についた血を拭いながら、鬼気迫る様子でそこに立っていた。バーナードはすぐに、あの時の男だと理解した。でも、こんな男だっただろうか?ぎろりと刺し殺されそうな目つきに、恐怖で体が固くなる。
バーナードはやっとの思いで声を絞り出した。
「おまえ、なぜここが…!」
アンソニーは真っ直ぐにこちらへ近付いてくると、剣を持っていない左手でバーナードの首をぐっと締め付け、壁に力任せに押し付けた。
バーナードは呻き、手に持っていたナイフを落とした。アンソニーは右手で彼に剣を突き付けると言った。
「そんなことはどうでもいい。彼女を返せ!」
首を圧迫され、バーナードがガリガリとアンソニーの腕に爪を立てながら泡を吹く。苦しい。息ができない。締められたところが熱を持って焼けていくようだ。なんて力なんだ。霞ゆく視界の中に、二つの金色の瞳が獲物を捕らえるような目でこちらを睨み付け、光っている。
すると、横から、助太刀しようと男が剣を振りかざして飛び出してきた。地下室にいたもう一人の男だ。だが、アンソニーは剣を受けることなく、片足で簡単に男を蹴り飛ばした。
「死にたいのか?」
アンソニーは失神直前のバーナードから手を離すと、倒れた男に近付いた。ゲホゲホと咳き込むバーナードの首は、赤黒くただれていた。
男は怯んで、アンソニーの顔を仰ぎながら這うように後ずさった。男が何か命乞いをするような言葉を、悲鳴を上げながら細切れに言っているのが聞こえたが、アンソニーは男の胸を片足で踏みつけると、剣の切っ先をその鼻先に突き付けた。
「や、やめろ…!」
男の額から汗が噴き出す。アンソニーは剣を振り上げた。男は顔を背け、目を瞑った。
だが、階段の下から女の声が聞こえてアンソニーはハッとしてそちらに振り向いた。
「アンソニー!!」
エマだった。手には彼が買い与えていた護身用の短剣を持っている。上着の中に忍ばせておいたのだ。愚かなバーナードのおかげで、彼女はなんとか手足の拘束をほどくことに成功したのであった。エマはよろよろとおぼつかない足取りで立ち上がり、彼を見上げていた。
彼の金色に鋭く光っていた目が、いつもの優しげな黒い目に戻る。男を踏みつける力がわずかに緩んだ。アンソニーはエマのひどい姿を見て、愕然としていた。暗闇でもはっきりと分かる、彼女の腫れ上がった頬と、乱れた髪、血の滲むはだけた白い胸元。
その時、踏みつけられていた男が、隙をついて彼の足を払いのけ、逃げ出した。アンソニーは逃すまいとしたが、一瞬、彼の右手がズキンと痙攣して剣を落としてしまった。
そこへバーナードが走ってきて彼に体当たりをした。アンソニーは倒れ込み、その隙にバーナードは地下室に駆け下りた。
彼が落ちた剣を拾い、立ち上がろうとしたときにはもう、先程の男が目の前にいて、逆に剣を突き付けられていた。
男がしてやったりと、嫌な笑いを浮かべている。アンソニーは蹴り飛ばしてやろうとしたが、地下室から悲鳴が上がるのが聞こえてきて、彼は息をのんだ。
バーナードがエマを追い回していたのだ。彼はぜいぜいと喘ぎながら、彼女に迫ると言った。
「殺してやる!!どいつもこいつも、馬鹿にしやがって…!!」
エマは両手で短剣を握り締め、後退りしながら叫んだ。
「来ないで!近寄ったら刺すわよ!!」
バーナードはもはや自暴自棄になっていた。首の周りが火傷でもしたかのように赤くただれ、目は充血していて、尋常ではない。刃物が差し向けられていることなどものともせず、エマに向かって真正面から突き進んでいくと、彼女の腕を掴み、押し倒した。
短剣が音を立てて床に落ちる。いくら気が強くても、所詮エマは世間知らずの田舎娘だ。本当に人に刃を立てる度胸なんて持ち合わせているわけがない。
「エマ!!」
アンソニーが叫んだ。男が剣を振り上げた。一瞬の隙をついて、さっと横に転がりすり抜けると、アンソニーは男のみぞおちに強烈な一撃を食らわせた。
「アンソニー!!」
バーナードがエマを殴ろうと拳を振り上げた。だが、それより速く、アンソニーが滑り降りるように地下室へ駆け込んできて、バーナードを彼女から引き剥がし、投げ飛ばした。物凄い音を立てて、彼は古ぼけた木の机に衝突し、それを破壊した。
エマは浅い呼吸を繰り返しながら、やっとの思いで半身を起こした。見慣れたアンソニーの後ろ姿がそこにある。アンソニーは手の甲でしたたり落ちる汗を拭いながら、倒れ込むバーナードに近寄った。
そして、その胸ぐらを掴んで起こし、彼の顔を思い切り殴った。何度も、何度も。
エマは首を横に振った。
「アンソニー!やめて、死んでしまうわ…!」
彼女の声に、彼はようやく手を離した。バーナードは気を失って倒れた。顔は赤紫色に腫れ上がり、鼻血と口からの出血でおぞましい姿になっていた。
アンソニーは肩で息をしながら、拳を握り締め、呼吸を整え、振り向いた。彼女の美しい緑色の瞳が、不安そうに揺らめいていた。長く苦しい夜の果てに、辺りは再び、静けさを取り戻したようだった。




