第17話 狙われた女(2)
アンソニーがヘルギの町へ戻った頃には、辺りはすっかり暗くなってきていた。雨は小康状態で、強く降りつけることはなかったが、一日中ぽつぽつと彼の肩を濡らしていた。
シグルズとケネスがもしやその辺りにいるかもと、周囲によく目を凝らしながらここまで戻って来たのだが、残念ながら彼らの姿は見当たらなかった。
宿にいてくれたらいいな、とアンソニーは期待した。だが、もしかしたら悪天候の中の移動を避けて、まだストールヘブンにいるかもしれない。あの二人なら無茶な行動は避けるだろう。もし今夜も来なければ、明日の朝早くに発つことにしよう。
アンソニーは心を決めると、宿へ急いだ。だが、彼を待ち受けていたのは、シグルズでもケネスでもなく、思いも寄らぬ大事件だった。
閉め切られていた扉を開けて中へ入るなり、宿屋の主人が飛び出してきて、床に頭を擦り付けるようにして言ったのだ。
「す、すいません、旦那…!本当に誰も中に入れていないのですが、食事の時間になって扉をノックしても返事がなく…」
男の丸い背中がぶるぶると震えている。彼の背後では、女将が事を見守るように、祈るような面持ちで両手を胸の前で握り合わせていた。
「思い切って開けてみたら、奥様がいなくなっていたんです」
ようやく事態を飲み込んだアンソニーは、慌てて二階へ駆け上がり、二人が昨夜から使用していた客室の扉を開けた。
アンソニーは息を飲んだ。誰もいない。そこにいるはずの彼女がいないのだ。忽然と姿を消してしまった。
アンソニーは部屋に入って、信じられないといった面持ちで周囲を見回した。
開けたままの鞄も、上着も、ショールも、全てがそのままだった。寝台の上には、言い付け通り部屋に閉じ込もって作業していたのであろう、縫いかけの自分のシャツが放り出されている。針も糸も、中途半端に繋がれたままだ。
見覚えがないものといったら、部屋の真ん中に置かれた、酒瓶の入った木箱だ。粗末なサイドテーブルには使いかけのグラスが一つ。そして床には割れたもう一つのグラスと、ハンカチのようなもの。
アンソニーは膝をつき、落ちていたハンカチを拾い上げた。エマのものではない。それに、何やらおかしな臭いがする。
彼は、どんとサイドテーブルを叩いた。
「本当に誰も中に入れていないんだろうな!」
「ほ、本当です。でも…」
「なんだ!」
主人は言い淀んだ。
「…バ、バーナードもいなくなっていたんです」
アンソニーは怒りに任せて、サイドテーブルを払い除けた。大きな音を立て、粗末な木の机の脚が折れる。宿屋の主人は、ひっと小さな悲鳴を上げて頭を抱えた。
「あの男か!」
アンソニーはぎりぎりと唇を噛んだ。なんとなく、嫌な雰囲気の男だと思ったのだ。だが、閉め切られた宿屋の中で、主人と女将と商人の男の三人きり、誰が悪さをするなどと思うだろうか。事を起こしたって、すぐに悪事は露呈するに決まっているのだ。
だが、現にエマはいなくなってしまった。これは自分の落ち度だ。彼女が狙われているのを知りながら、一時でも人に託してしまったのが間違いだったのだ。
主人は震える手で、出掛ける前に受け取った、金の入った袋を差し出し言った。
「お、お役所には通報しましたが、まだ行方は分からず…。お金はお返しします。なので、どうか、どうか…」
アンソニーは頭をぐしゃぐしゃと抱えた。なんだってこんなことになってしまったんだ。シグルズとケネスは見つからない、エマも消えた。この連中を信じた自分が馬鹿だった。
彼は主人に詰め寄ると言った。
「おい!おまえ、あの商人と顔見知りなんだろう!?何か心当たりはないのか!?」
主人は手を合わせ、丸い指をとんとん叩いて、怯みながら答えた。
「あ、あいつの家はストールヘブンですがね、近頃はめっきり景気も悪くなったんで、今はどんな暮らしをしているかなんてそんな…」
アンソニーは大声を上げて遮った。
「ああ、もう、わかった!ストールヘブンだな!それなら今からそこへ行く!」
彼の頭の中はすっかり滅茶苦茶だった。行き当たりばったりに動き回ったって上手くいきっこないと、ほんの少し前に反省したばかりだったのに、また同じことを繰り返そうとしている。だが、じっとしたまま何もしないなんて無理だった。
彼は入り口を塞いでいる主人を押し退けると言った。
「おい、主人!その金はやるから、一番速くて上等な馬を出せ!」
主人は素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ、今からですか?夜は危険ですよ。近頃は良からぬ連中がそこの廃墟に集まって悪さをするって噂なんですから」
「それでも行かなきゃならないんだ!」
アンソニーは一日外を駆けずり回って濡れそぼった上着を着替え、女将に差し出されたエールをぐびぐびと飲み干した。
主人はため息をつき、首を横に振った。
「裏手に馬屋があります。どれでもお好きなのをどうぞ」
「恩に着る」
アンソニーは帽子を被り直しながら、階段を駆け下りた。腰に下げられた剣が揺れている。
今帰ってきたばかりなのに、脇目もふらず、再び夜道に飛び出そうとするとは、なんて男だろう。鬼気迫る様子の彼を見下ろし、宿屋の主人は呟くように言った。
「よほどあの奥様が大切なんですね」
アンソニーは一瞬ぴたりと立ち止まった。そして、扉に手をかけながら、彼を見上げて、
「ああ、そうだ、大切だ」
と、真剣な眼差しで答えた。




