第15話 再び、ヘルギにて(2)
アンソニーが出掛けて行ってから、エマは約束通り、部屋から一歩も出ずにずっと外を眺めて過ごしていた。
本当に、うんざりするような空模様だ。ただでさえ狭い部屋の中でじっとしていなければならないというのに、この鬱々とした灰色の空と、湿気と寒さで、彼女は既に嫌気が差していた。彼と一緒に外に出られたらどんなに良いかと思うけれど、これ以上迷惑は掛けたくない。仕方なく、荷物をごそごそと広げて仕事を探し、何かやることはないかと考えた。
宿屋の主人は約束通り一日貸し切りにして、今日はもう閉めてしまった。先ほど女将が温かいお茶を差し入れて、経緯を話してくれたのだ。
静かな部屋で、エマは血に汚れて破れたアンソニーのシャツを取り出し、ざくざくと袖を切り落としながら、ため息をついた。彼の腕の怪我が大したことがなくて本当によかった。今朝、包帯を取り替えた時にはすっかり出血も止まっていたので安心したが、一人で無茶をして、また傷口が開いていないか心配だった。
それから、縫い目を丁寧にほどきながら、同じような洗い晒しの麻布を探した。ティンカーの市場で購入した中からちょうど良さそうなものを見つけると、無事だったもう片方の袖をきれいに広げて新品の布に重ね合わせ、慎重に鋏を入れた。
ふと、頭の中に、あの時の歌が蘇る。ヘレナが歌っていた、不思議な子守唄だ。《嘆きの塔》の件以来、なんとなくずっと頭に残っているのだ。
気がつけば彼女はその歌を口ずさんでいた。そして、切った袖に丁寧に針を刺しながら、今度はシグルズのことを考えていた。心配など杞憂に終わって、今すぐにでも、あのとろけるような美しい笑顔で目の前に現れてくれたらいいのに。
扉がこんこんと軽く叩かれ、エマは顔を上げた。
「私です。バーナードです」
エマは手を止め、立ち上がることなく、その場で「何かご用でしょうか」と尋ねた。食事のとき以外は扉を開けるなと言われているのだ。
バーナードは言った。
「退屈でしょうから、話し相手でも、と思いまして」
エマは、今は誰とも会わないと伝えられていないのかしら、と訝しく思いながら答えた。
「お気遣い感謝します。ですが、食事の時間以外は扉を開けるなと言われておりますので」
なるほど、とバーナードは扉の向こうで呟いた。エマは再び視線を落とすと、手を動かし始めた。よくマーサに教えてもらいながら、こうしてお父様やフィリップのシャツを繕っていたっけ、と懐かしく思いながら。ブローラは小さな町なので、シャツや肌着などは皆自分で仕立てているのだ。
悪びれる様子もなく、バーナードがまた扉の向こうから話しかけてきた。
「でしたら、食前酒ということで、お飲み物はいかがですか?ご主人にも申し上げましたが、私は酒を売っているのです。以前は伯爵様のお屋敷にも出入りしておりましたが、あなたのようなお美しい方がいらっしゃったとは…。いやはや、存じ上げませんでした」
「残念ですが、遠慮しておきますわ」
エマはぐるりと目を回し、きっぱりと答えた。商人のおべっか使いになど騙されるものか。そうやって、男がいないうちに上手く取り込んで、サンクレール家との個人的なつながりを得ようと目論んでいるのだろう。
バーナードはいかにも残念そうに、そうですかと答えると、しばらく黙りこくった。
諦めたのかしら、とエマが様子を伺っていると、三度、扉の向こうから声が聞こえた。
「ところで、あなた方はサンクレール家の使いとのことですが、このヘルギへはどのようなご用向きでいらしたのですか?ストールヘブンではなく、わざわざこの町にいらっしゃるとは…、何か特別なご用でもおありで?」
エマは無視しようかしらと思いながらも、何か勘ぐられたら困るので、つんとして答えた。
「あなたに申し上げる必要があって?」
すると、バーナードは慌てて取り繕うようにしながら、
「いやいや、特に深い意味はないのです。もしかしたら、ストールヘブンに行ったは良いものの、サンクレール家の方のお眼鏡にかなう品物がなかったのではと想像しまして…」
と、答えた。そして仕切り直すように息をつくと、言った。
「せっかくですから、うちの商品をご覧になっていただけませんか」
扉の向こうで、手揉みをしながら様子伺いをするバーナードの姿が目に浮かぶようだ。
エマはため息をつきながら、手元のシャツを膝に押し付けると、やや苛立って答えた。
「主人には開けるなと言われておりますの」
だが、なおもバーナードは食い下がった。
「あなたのご主人は随分厳しいお方なのですね。特別、嫉妬深い?心配性?それとも、何か開けられない理由が他にあるとか…」
ちくりと指先に痛みが走り、エマは舌打ちをして、口の中に指を突っ込んだ。バーナードがしつこく騒ぎ立てるせいで、針が刺さってしまったではないか。新品の袖になる予定のシャツに血がついてしまった。
エマは、ああ、とうんざりして息を吐き出すと、乱暴に繕い途中のシャツを寝台に放り投げ、立ち上がった。扉の向こうでバーナードがにやりとする。
エマは扉の前で、腰に手を当てると、はっきりと言った。
「わかりました。ですが、見るだけですよ。私の一存で買うことはできませんから」
もちろんです、とバーナードは嬉しそうに答えた。エマは一瞬ためらいながらも、扉を開けた。すると、そこには初対面の、灰色の上着を着たバーナードがにっこりと微笑みながら立っていた。
エマはじっとりとした目で彼を見ると、少し迷いながらも部屋に招き入れた。
女将もお得意さんだと言っていたし、見た目もただの商人だ。それに、この宿にはオーナー一家とこの男しかいないのだから悪さのしようもないだろう。少し相手をしてやったら、すぐにお引き取り願おう。
大丈夫、部屋からは出ていないのだから、アンソニーとの約束を破ったことにはならないわ。そう自分に言い聞かせながら、エマは仕方なくバーナードに向き合った。
「お招き感謝します」
バーナードは両手を広げて、嬉しそうに挨拶した。エマはぶすっとした顔で、腰に手を当てたまま答えた。
「招いたわけではありません。あなたが無理矢理入って来たのです。さあ、ご自慢の商品とやらを見せてください」
「見るだけなんてとんでもない!」
バーナードは木の箱いっぱいに詰められた酒瓶を取り出し、きらきらとしたその液体の輝きを確かめながら、これぞというものを一本決めて、グラスに注ぎ、差し出した。
「酒は飲んでみないと分かりません。どうぞお試しください」
「まあ!」
エマは呆れた。
「あなたって本当に口が達者なのね!」
バーナードはにっこりと笑い返した。
「お褒めいただき、光栄です」
エマは口をつけるべきか迷っていた。知らない男を部屋に入れた挙げ句、酒を飲んで万が一にも何かあったりしたら、アンソニーに弁解する余地もない。
なかなか手に取ろうとしない彼女を見て、バーナードは「ああ」と合点がいったように手を叩くと言った。
「毒でも入っていないかとお疑いなのですね」
そして、もう一つグラスを取り出すと、そこに先程と同じ酒を注ぎ、一息に飲み干した。
「ああ、美味い。このように、ただの美味しいお酒です」
そう言って、バーナードはエマにグラスを差し出した。
「さあ、どうぞ」
エマはためらいながらも、グラスに口をつけ、思い切って一口飲んだ。ほんのりと甘さを感じる、とても飲みやすいハーブのお酒だ。
「美味しいわ」
思わず頬が緩んでしまった。バーナードが得意気に口角をつり上げるのが見え、エマは恥ずかしくなって顔をそむけながら、誤魔化すようにもう一口飲んだ。
疑ってしまって申し訳なかったわ、とエマは思った。勧められたものには何もおかしいところなどなかった。それどころか、今まで味わったことのないような、とても美味しいお酒だったのだ。本当に、ただ商売のために来たのかもしれないと、彼女はグラスの中の蜜色の液体を眺めながら思った。
「そう、美味しいでしょう」
バーナードが近寄ってきた。怪しい笑みを浮かべているが、グラスを見ていたエマは気が付かなかった。
彼女はすっかり油断してしまったのだ。目の前の男がただの商人だと信じ、サンクレール家に商品を売り込もうと躍起になって部屋に押し掛けてきただけだと思い込んでしまった。男の張った罠が、まだこの先にあるなんて思いもよらなかったのだ。
気配に気がつき、振り返った時には、もう彼は目の前にいて、ぞっとするような目つきでエマを見下ろしていた。
エマは息を飲んだ。
「当然です、これは本当にただのお酒ですから」
バーナードはエマの首をぐいっと自分のほうに引き寄せると、彼女が声を上げる間もなく、その小さな鼻と口に、何重にも折り畳まれた布を押し付けた。
エマはもがいた。息ができない。男の手と腕に爪を立てて抵抗するが、力が強くて離れない。苦いような、甘いような、何とも言えない芳香にあてられて、にわかに視界がぐにゃりと歪む。
エマはとても立っていられなくなり、そのままバーナードの腕の中で足元から崩れ落ち、気を失ってしまった。
「おっと」
バーナードはぐったりとしたエマの体を、倒れ込む前に腕で支えた。そして、してやったりと、口の端を吊り上げた。彼女の口元を塞いでいたハンカチが、ぽとりと床に落ちた。




