第14話 再び、ヘルギにて(1)
シグルズ達がストールヘブンで病気になったヴァイキングにかかりきりになっていた頃、ヘルギでは、あの美しいが奇妙なロイ・アダムス司祭と別れて宿屋に戻ったエマとアンソニーが、なかなか来ない二人を思い苛立っていた。
雨は降ったり止んだりを繰り返し、外を歩き回るには生憎の天気だ。あの二人に限って、追手の兵士に捕まってどうにかなっているなんてことは考えられないが、こうなったら、どこかで立ち往生でもしているのではないかと、いよいよ心配になってきた。
「おかしいわ、一日たっても来ないなんて。やっぱり何かあったんじゃないかしら」
客室の窓から外を眺めながら、エマはため息をついた。アンソニーも寝台に腰掛け、頬杖をつきながら不安そうに「そうかもしれない」と答えた。もしかしたら、本当にどこかで困ったことになっているのかも。
彼は少し考えた末に、立ち上がると言った。
「よし、ちょっとその辺を見回ってくるよ」
エマは振り向くと、「私も行くわ」と言った。だが、アンソニーは首を横に振り、答えた。
「駄目だ、おまえはここにいろ。外は雨だし、馬もない。それに、シグルズ様達と入れ違いになったらどうする?おまえはここでお二人を待っていてほしい」
エマは不貞腐れたように唇を尖らせた。だが、彼の言い分ももっともだ。そもそも、あの兵士達はエマとシグルズを追っていたのだ。無用心に動き回るとかえって迷惑になってしまう。彼女が一緒に行って良い理由なんて一つもない。
じっとしていることが大嫌いなエマだが、ここは彼に任せるより他なかった。
彼女は不安そうに彼を見上げて言った。
「大丈夫?」
アンソニーは安心させるように笑って肩をすくめると答えた。
「俺なら平気だ。馬も剣もある」
そう言って、すらりと腰から剣を引き抜いて見せた。
聖タール教会の前でウィルダネス兵と一人戦った際に折った右手の骨折は、今やすっかり良くなっていた。ありがたいことに、あれから一度も実戦はないのだが、毎日鍛練は欠かしていない。
ただ、完治に向かう段階で少し骨がねじれてしまったのか、何かを強く握ろうとすると、薬指と中指が重なってしまうことだけがネックだ。だが、それも大したことではない。よく見なければ誰も気が付かないほど些細なことだ。慣れればどうということはない。
アンソニーは剣を鞘に収めると、帽子を被りながら言った。
「それよりエマ、おまえのほうが心配だ。分かってると思うが、部屋から一歩も出るなよ」
エマは頷き、
「ええ、分かってるわ」
と答えた。今のところヘルギは平和そのものだが、まだ襲撃される可能性がなくなったわけではないのだ。
それに、とアンソニーは続けた。
「あの教会の神父、どうもあいつは怪しい」
エマは笑って肩をすくめた。何を藪から棒に、といった様子だ。だが、アンソニーは首を横に振った。
「おまえだって、変だと思っただろう。いきなり祖父の話を持ち出したりして」
それにはエマも同感だ。たしかにそこは腑に落ちない部分ではあった。だが、すっかり他の誰かと勘違いし切っていた可能性もあるし、それ以外は本当にハンサムで話上手な、普通の神父様のように彼女には見えたのだ。
アンソニーは額に手をやり、ため息をついた。
「おまえって、実は面食いだったんだな」
何よ、とエマはむっとした。
「あいつは普通じゃない。握手をした時に感じたんだ。手がとても冷たかったんだ、死人みたいに」
「雨で冷えたからじゃないの?」
「でも、俺の手はすごく熱くなったんだ」
あ、と何かおかしなことを口走ったかのように、アンソニーはどうにか説明しようとして口を開いたが、良い言葉が出てこなかった。
エマは訝しげに彼の黒い瞳をじっと見た。だが、やがて、どうでもいいとばかりに肩をすくめると、ふうと息をついて答えた。
「あなたって、血の気が多そうだものね」
それはどういう意味だと、アンソニーはエマを睨み付けた。
「いいわ、とにかく、私は部屋から出ない。あなたも、くれぐれも気をつけてね」
ああ、とアンソニーは返事をした。
「日暮れまでには戻ってくるよ。主人と女将には声を掛けておくから」
そう言って、アンソニーは扉を閉め、階下へ駆け下りていった。一人きりになったエマは、窓の外の降りしきる雨を見て、長いため息をついた。
アンソニーがカウンターの鈴を鳴らして大きな声を出し、宿屋の主人を呼び出すと、丸々太った男が手揉みをしながら出てきて言った。
「お出かけになるので?この雨の中を?」
主人は冷や冷やした表情で尋ねた。アンソニーは頷いた。
「そうだ、急用でな。急ぐので女は連れて行けない。すまないが、外出している間、彼女のことを頼みたい」
「ええ、そりゃあ構いませんがね、ただ…」
言い淀む主人に、アンソニーは金の入った袋をカウンターの上にどすんと置いて、差し出した。
「俺が戻ってくるまで安全に過ごすことができれば、この倍やる。どうだ、できるか?」
主人は目を輝かせて答えた。
「も、もちろんです、旦那!ちょうど今朝、昨日の騒がしい連中が帰って、お客はあと一組だけなんでさ。今日はもう貸し切りにして、誰も中には入れないようにします」
「あと一組とは?」
アンソニーは眉根を寄せて尋ねた。主人は機嫌良く笑いながら答えた。
「なに、心配いりません。顔見知りの商人です。もう長い付き合いなんですよ。信用のおける男です」
「信用できるかどうかは俺が決める」
アンソニーはきっぱりと言った。昨夜の件もあって、この男の言うことはいまいち信用ならないのだ。
「私のことですか?」
すると、階段の上から一人の男が顔を出して言った。
「すみません、話が聞こえてしまいまして」
「バーナード」
宿屋の主人にバーナードと呼ばれたその男は、ひょろりと痩せた、アンソニーと同じ年頃の男だった。灰色の上着を羽織り、きっちりと白いスカーフを首に巻きつけ、外見上はそれなりのきちんとした階級の紳士のように見えた。
バーナードは静かに階段を下りてくると言った。
「奥様を置いてお出かけになるのですね。それでしたら、私達にお任せください。うちの店は伯爵様に酒を卸していたこともあるのです。お城の方にはご恩を売っておいて損はありませんから」
そう言って、バーナードはにっこりと微笑んだ。
なんとなく嫌な雰囲気の男だな、とアンソニーは思った。それは商人ならではの腹の読めない作り笑顔のせいだろうか。
宿屋の主人は、「よほど奥方様が大事なんですねえ」としみじみ呟いた。アンソニーが横目でじろりと睨み付けると、主人はびくりと肩を震わせた。
アンソニーは腰に手を当て、ため息をつきながら答えた。
「わかった。それなら、よろしく頼む」
彼女を残していくことに一抹の不安は感じるが、あまりいつまでものんびりしているわけにもいかない。こうしている今も、二人の身に何か重大な危険が差し迫っているかもしれないのだ。ひとまず、この連中のことを信用するしかないだろう。
アンソニーは念のため、主人に釘を刺しておくことにした。
「だが、もし彼女に何かあったら…、わかってるな?」
「わ、わかってますよ」
宿屋の主人は冷や汗を流しながら答えた。バーナードにも目を向けると、彼はにこりと人の良さそうな笑顔を見せ、「いってらっしゃいませ」と言った。




