第9話 古の町ヘルギ(2)
部屋に入り、二人はふうと大きくため息をつくと、よろよろとその場にへたり込んだ。体も心もすっかりすり減らしてくたくただ。
「はったりだったけど、何とか上手くいったみたい」
エマは力なく苦笑いを浮かべた。お見事、とアンソニーは笑い返した。
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。いつの間にかもうすっかり夜だ。太陽は姿を隠し、白くぼんやり光る月と、小さな星々が夜空を点々と彩っている。心地よい夜風が頬を撫でていく。
背後ではアンソニーが荷物を下ろし、上着を脱いで椅子の背もたれに放り投げていた。
エマは独り言のように小さな声で尋ねた。
「シグルズ様は巡礼のためにいらしているのよね?早々に切り上げて、フォートヒルにお戻りになったほうが良いんじゃないかしら」
彼女はまだ、シグルズ達の旅の本当の目的を知らなかったのだ。少し前、ティンカーへ向かう途中で理由を尋ねたときは「巡礼」とはぐらかされてしまったからだ。もちろん、ティンカーでは司祭不在の教会に留まり、ずっと働き詰めであったので、それが完全に嘘であるとは彼女も思ってはいなかったが。
アンソニーは困ったように言葉を選びながら答えた。
「ああ、そうなんだが、ここには別の目的もあってな…」
だが、なんと言ったら良いのか、言葉が見つからず、彼は肩をすくめた。
それを見たエマは笑って、「いいのよ」と答えた。
「ご主人の許可なく勝手にべらべら喋るわけにはいかないものね。どうするかはシグルズ様ご本人がお決めになることだわ。私達はそれに従うだけ」
話しても構わないんだけどな、とアンソニーは思った。どうせ、このまま旅を続けていれば、遅かれ早かれ知ることにはなるだろう。むしろここまで来たからには、知ってもらっていたほうが行動しやすいのでは、と彼は考えた。
だが、勝手に話せばシグルズは怒るだろう。これはシグルズにとっては、一種のアキレス腱でもあるからだ。今や彼がエマに特別な思い入れがあることは誰の目にもはっきりしている。明らかに彼は彼女を気に入っているし、彼女も彼をぞんざいにできなくて困惑している。
ーーーだからこそ言ってしまいたいのだろうか、あの方の弱点を?
そんなことが頭によぎり、アンソニーはハッとして首を横に振った。自分は一体何を考えているのだろう。
「こんなに暗くなってしまったら、もう今日は来れないでしょうね」
エマは呟いた。夜間の移動は危険すぎる。どこかで一泊していると考えたほうが無難だろう。
アンソニーも頷いた。
「そうだな、何かあったのかもしれないな」
「何かって!?」
エマが勢いよく振り返った。アンソニーは慌てて彼女の口を押さえた。
「大きな声出すなよ。こんなボロ宿じゃ全部筒抜けだぞ。大丈夫、きっと馬が怪我したとか、何か理由があるんだろう。明日には来るさ」
しまった、とアンソニーはよく考えずに発言したことを心の中で後悔していた。ただでさえ、彼女は自分のせいで追われることになったのではと後ろめたく感じていたのに、迂闊だった。
エマはがっくりと項垂れた。アンソニーは困って何か声をかけようとしたが、ふと人の気配に気がつき、体を強張らせた。
「誰かいる」
エマはアンソニーを見上げた。
「静かに」
彼は彼女を隠すように立つと背後をじっと睨み付けた。間違いない、誰かがそこにいる。建て付けの悪い扉が、わずかにガタガタと揺れている。
扉の外で声がする。男の声だ。アンソニーはエマを押し潰すほどしっかりと壁にくっ付けて、彼女の体を自身の体で覆い隠した。
「おい、押すなよ!」
「しっ、声をたてるな!」
「いてえ!誰だ足踏んだやつ!」
二人が訝しげに眉根を寄せて扉の向こうを睨んでいると、やがてひどい音を立てて扉が外れて倒れ、男達が声を上げながら雪崩のように倒れこんできた。
アンソニーは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんだ、おまえら!!」
先ほどエマの指輪のくだりの際に、客室から顔を出して野次馬をしていた別の部屋の男達だった。男達は折り重なるようにして、無様な呻き声を上げている。
騒ぎを聞き付けた宿屋の主人が走ってきて、この有り様を見て青ざめた。
アンソニーは声を荒げた。
「おい、主人!おまえの言う身元のはっきりした人間っていうのは、こういう覗き見をするような連中のことなのか!?」
宿屋の主人はほとんど平伏すようにしてぺこぺこと頭を下げ、冷や汗をかきながら謝罪した。
「す、すいません、旦那!おい、おまえら一体何やってやがる!とっとと部屋に戻りやがれ!」
そう言って、客の頭に重たいげんこつを落としながら、主人は追い立てるようにして部屋から男達を押し出した。商人のような身なりの男達は、皆、頭を擦りながら、悪びれることなく答えた。
「いてて、お城のきれいな女の人が来てるっていうから、気になって…」
「だからって、下品な真似をすんじゃねえ!」
アンソニーの背後で、ぽかんと口を開けて彼らのやり取りを見ていたエマは、やがて堪えきれず、腹を抱えて大笑いした。そんな彼女を見て、商人の男達はへらへらと愛想笑いをしながら部屋から出ていった。
だが、翌日になっても、まだシグルズ達はやって来なかった。一階の食堂で朝食をとりながら、エマとアンソニーは不安になっていた。
昨夜はとんだ珍客が現れてちょっとした騒ぎになったが、主人の言った通り、一組を残して連中は早朝から荷物をまとめて出ていった。
「静かになって、せいせいした」
固くて茶色いパンをスープに浸し、口に放り込みながらアンソニーは悪態をついた。エマはくすっと微笑みながら、面白い人達だったけど、とからかった。
「何が面白いもんか。あんな悪趣味な連中、ろくなもんじゃない」
このスープはなかなかいける、と彼は頷きながら女将に親指を立てて見せた。女将は主人に負けず劣らずの恰幅の良い女で、得意気に眉を吊り上げると、ドンと大きなジョッキに並々と注がれたエールを二人の前に置いた。張りのある、肉付きの良い丸い頬が、にっと高く上がっている。朝からこんなに飲み食いしたら、一日中元気はつらつとして動けそうだ。
「まずは教会に行ってみよう。昨日はそこまで行けなかったしな」
すっかりエールを飲み干し、ふう、と満足そうに息をつきながら、アンソニーはどっかりと長椅子に両手をついて姿勢を崩した。エマも布巾で口元を拭いながら、そうね、と頷いた。
今朝はきちんと朝のお告げの鐘が鳴り響いていたので、ここの教会はティンカーとは違ってしっかり機能しているらしい。それはひとまずホッとした点である。ここも司祭がいないとあらば、またシグルズの仕事が増えてしまうからだ。
「いらっしゃるといいけど」
エマがぽつりと呟くと、アンソニーも窓の外を見つめながら、ただ黙って頷き返した。彼も、平静を装っているように見えて、本当は不安なのだろう。何しろ二人の主従の絆は、誰が見たって、そこいらの主と従者なんかよりよっぽど深いし、それに、二人は本当に信頼し合っているのだ。エマはそんな二人が眩しくもあり、羨ましくもあった。彼女は、故郷も、家族も、友人以上で恋人未満のような関係だった例の幼馴染みも、全て投げ置いてきてしまったのだから。
エマはアンソニーの横顔を見て微笑んだ。何、と彼が訝しげに彼女のほうに振り向くと、彼女は笑いながら立ち上がって、
「仕方のない子ね」
と言って、彼の頬についたスープを優しく布巾で拭き取ってやった。
「おやおや、お熱いこと!」
厨房から女将が顔を出して二人をからかった。アンソニーは真っ赤な顔をして、慌てて口元を袖でごしごしと擦り、エマはきょとんとしていたが、やがて可笑しそうに笑い出した。食堂には二人の女の陽気な笑い声が響いていた。




