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《狭間の国》のエマ ~捨て駒令嬢と蛇の神父様  作者: 夜中メグ
第二章

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第8話 古の町ヘルギ(1)

 ヘルギはガンヒース地方のちょうど中央部に位置し、この地域では最も古い町の一つだ。南北に大きな河が流れており、川沿いに南へ行くとサザーランド領に接する山脈、北へ行くと港町ストールヘブンに出る。

 町の北には、こんな辺鄙な地域には似つかわしくない大きな教会があり、その尖塔は町中どこにいてもよく見えるほどだ。ごつごつとして、ところどころ白化したり苔むしたりしている石造りの建物は、気の遠くなるほど遥か昔からそこに建っていたことを伺わせる。

 そこから少し横に逸れたところには、廃墟となった建物がある。今は誰も使っていない、かつての権力者の館跡だ。ヘルギはそこかしこに古い歴史を感じる町だ。

 そういえば、三百年くらい前までは、ウォーデン・フリッカ諸島からこのガンヒース地方までは《北の大陸》ノースガルド帝国の領土だったんだっけ、とエマは思い出した。この地域に住む人々にとっては、厳しい山脈を越えた先にあるダルヘイムの他の町や、陸続きになっているグリトニー連合王国よりも、ノースガルドのほうが身近な存在なのだ。実際、ストールヘブンには毎日のようにノースガルドの商船がやって来ていて、あの色白で山のように背の高い異国人がうろうろしているのだから。

 ふと、エマは船に乗った異国人の姿を思い出しながら、シグルズの姿が頭によぎるのを感じ、首を横に振った。体が大きくて、豪快で、酒を浴びるようにぐびぐび飲む、荒くれ者の船乗達と、シグルズが重なって見えるなんてどうかしている。


「まだ到着していないようだな」


 アンソニーがため息をつきながら言った。

 湖での襲撃から南へ逸れてしまったエマとアンソニーだったが、ひとまず西へ西へと向かううちにこの川を見つけ、そこから下流へと川に沿って進むことで、なんとか日暮れ前にはヘルギまで辿り着くことができたのだった。二人は古い石畳の町を端から端まで散策してシグルズ達を探したが、その姿は見当たらなかった。

 古いだけで、それほど広くはない町だ。薄暗くなってきたからか、行き交う人々もまばらで、明らかにティンカーより住人は少ないように見えた。


「疲れただろう、今夜はもう宿をとって休もう。あの方達なら目立つから、町に来たらすぐ分かるさ」


 二人は宿屋を探して歩き出した。たしか町の中央広場から少し奥に入ったところに一軒あったはずだ。


「ここには神父様はいらっしゃるのかしら」


 町のどこからでも目に入る、教会の一際背の高い尖塔を見つめ、エマは呟いた。沈みかけた太陽の残り僅かな光を受けて、鐘が鈍色(にびいろ)に光っている。

 アンソニーは頷いた。


「ここの教会はティンカーより手入れがされているように見える。明日の朝、鐘が鳴れば分かるだろう」


 エマはため息をついた。シグルズとケネスに会えなかったことが心をざわつかせるのだ。あの二人のことだから、きっともう先に着いて、遅いぞとお小言の一つでも言われるものと信じていたのに、まさかいないなんて。


「本当にごめんなさい。また私のせいで」


 エマは額に手を当て、思い詰めたように言った。アンソニーは両手を広げて首を横に振った。


「違う、おまえのせいじゃない。おまえは巻き込まれただけだ」


アンソニーは、なだめるように訴えた。


「シグルズ様達は北回りで来るのだから、時間がかかって当然だ。俺達よりもっと道を逸れているかもしれないし」


 俯く彼女に、彼は周囲を警戒して声をひそめ、囁いた。


「それに、サザーランドの件は伯爵や大司教様が揉み消しているはずなのに、どうして追手が来たのか分からない。あいつらは危険だ。ここも安全じゃないかもしれない」


 エマはとうとうと捲し立てるアンソニーの黒い瞳をじっと見つめ、スカーフを頭からかぶった。なんとなく、顔を隠したほうがいいような気がしたからだ。今更ではあるが。


「どうしたらいいの?」


 エマはすがるような目で尋ねた。アンソニーはふうと息をついて、肩をすくめた。


「たぶん、目立つのは、シグルズ様と一緒にいるおまえだ。俺と二人なら平凡な町人に見えるだろ?」


 エマは不満げだが、納得だった。赤毛もこの地域では別に珍しくもなんともないし、彼女一人ならどこにでもいる普通の田舎娘だ。あの聖人のごとく輝くような美貌のシグルズと一緒にいるから目立つのだ。


「さあ、いつまでも外をうろついていると怪しまれる。とりあえず宿に行こう」


 ようやく宿屋に着くと、二人を待ち構えていたのは仏頂面で、いかにも不機嫌そうなオーナーだった。


「後から合流してくるから二部屋ほしいんだが」


 アンソニーが帽子をとって申し込むと、カウンター越しのその男は横柄な態度で彼を睨み、答えた。


「生憎、今日は満室でな」


「は?満室?」


 アンソニーは素っ頓狂な声を出した。どう見ても、この古びて埃っぽい宿屋は賑わっているようには見えない。彼は苦笑した。


「冗談だろ?こんな寂れた町でどうして満室になるんだよ」


 宿屋の主人はぎろりと彼を睨み付けた。肉に埋もれかけた小さな目が鋭く光る。アンソニーは肩をすくめた。


「残念だが他をあたってくれ。といっても、この町の宿はうちしかねえがな!」


 そう言って、主人は奥に引っ込もうとしたので、エマは慌てて引き留めた。


「ごめんなさい、失礼なことを。でも、私達他に行くところがないんです。今から帰ることはできないし…。なんとか一部屋だけでもご用意いただけませんか?」


 主人は振り返るとため息をつき、首を横に振った。


「悪いが、身元のはっきりしない人間は泊めるわけにはいかねえんだ。例の騒動があったばかりで、最近、物騒だからな。それにおまえさん達、一体どういう関係なんだ?身元の知れないよく分からん未婚の男女を泊めたとありゃあ、うちの評判にも関わるだろう」


 エマはため息をついた。横ではアンソニーが困ったように頭を掻いている。

 宿屋の主人の言うことにも一理ある。クローストン卿が起こした暴動によって、今やこの地域は再び大きな混乱に陥っているのだ。突然統率者を失ったことにより、今まで甘い汁を吸っていた商人達は急激に足元が危うくなり、身を守るために労働者を解雇する雇い主も出始めたと聞いている。仕事がなくなれば生活は立ち行かなくなり、先の読めない漠然とした不安感がこの地域一帯を覆っていた。

 ここにシグルズとケネスという、いかにも高貴な二人がいればよかったのだが、今はエマとアンソニー、二人の凡人しかいない。


「わかったわ、身元がはっきりすればいいのね」


 エマは仕方なく胸元から指輪を取り出した。あまり使いたくはなかったのだが、これしか方法がなさそうだ。


「これでいかがですか?」


 金色に光る指輪と、そこに彫刻された美しい鷹の紋章を見て、主人は目を見開いた。


「こりゃ…、サンクレール伯爵の!?なんてこった!あんたがた、サンクレール家のもんかい!?」


 なんだなんだと客室で息を潜めていた他の客がぞろぞろと顔を出してきた。エマはあまりじろじろ見られないうちに急いで指輪をしまい、


「ここで突き返されたら、次期伯爵様にヘルギでのことを何とご報告したら良いのか分かりませんが、それでも構いませんか?」


と、大見栄を張った。主人は慌てて、帳簿を出した。


「わかった、わかったよ!それならそうと、最初に言ってくれりゃあ、悪いようにはしなかったのに…」


手際良く、主人は鍵も取り出した。


「でも、二部屋は本当に無理だ。うちは小さな宿なんだ。おまえさんたち、夫婦だろ?明日になれば空くから、今日のところは一部屋で勘弁してほしい」


えっ、と一瞬アンソニーがたじろぐが、エマは満足そうに頷いた。


「ええ、それで結構ですわ。無理を言って申し訳ありません」


 主人は愛想笑いを浮かべ、手揉みをしながら目の前のご婦人の様子を伺った。この堂々たる振る舞い、言われてみれば貴婦人と呼ぶにふさわしいーーーきっと伯爵様の遠縁か、側仕えの高貴な方に違いない。

 さっきまであれほど邪険に扱っていたのに、輝く指輪を見た途端、太客のように見えてくるのだから、家紋の力は偉大だ。


「へへ、それで、サンクレール伯爵には…」


 主人が猫なで声ですり寄ると、エマはつんと鼻先を上に向け、いかにも尊大な態度で、


「ええ、大変良くしていただいたと伝えておきますわ」


と答えた。お気遣いどうも、と宿屋の主人はにんまりと笑った。エマはペンを持ち、少し迷った末に、


『ジェーン・サンクレール』


と記した。アンソニーも隣にサインしたが、エマは見ていなかった。ジェーンはミドルネームでもあるのでまだ良いとしても、サンクレールの名を勝手に使ってしまった罪悪感で、彼女の胸はドキドキして落ち着かなかったのだ。

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