第6話 襲撃者(2)
「ああ、畜生!畜生!」
無我夢中で湿原を駆け抜けていくと、やがて辺りには少しずつ木々が増え始め、ちょっとした丘陵地に景色は変貌した。その中に、僅かに盛り上がる、塚のような凹凸があって、ほとんど転げ込むようにその陰に身を潜めると、アンソニーは悔しそうに地団駄を踏んだ。
突如現れた謎の兵士達から逃れるべく必死だったので、ここがどこなのか二人は見当がつかなかった。ただ確かなのは、だいぶ南に逸れた気がするということだ。向こうのほうには山が見えるが、ガンヒース地方に高い山はない。これ以上先に進んだら山岳地帯に入って、サザーランド領かウィルダネス領に入ってしまうだろう。
そろそろ人も馬も限界だし、追手の姿もすっかり見えなくなった。ここで一休みしている間に天頂にある太陽が少し傾き、影が伸びてくれば、多少方角もはっきりしてくるだろうか。
「ごめんなさい、また私のせいで。シグルズ様とも離れてしまったわね」
エマは汗だくで震えている馬を優しくなだめ、端のほうで休ませると、アンソニーに言った。アンソニーはハッとして彼女を見ると、首を横に振って声を荒げた。
「そうじゃない、エマは悪くない!シグルズ様のことも別に心配してない。あの方は強いから」
アンソニーは頭をかかえ、うずくまった。いつもなら率先して馬の世話をしたり、火を起こす準備をしたり、てきぱきと働いているところだが、今の彼は何だか様子がおかしい。
「俺にもっと力があれば…」
そうやって、今度は弱々しく言葉を吐いている。普段の彼からは想像できないような落ち込みぶりだ。襲撃されたことが余程悔しかったのだろうか。銃を持った相手に逃げ切れただけで十分幸運だったとエマは思ったのだが。
彼女は彼の背中をさすって、優しく声をかけた。
「あなたは十分強かったわよ。私達、無事だったじゃない」
エマは訳も分からず、アンソニーを慰めた。
「…それだけじゃ駄目なんだ」
何が駄目だというのだろう。エマはため息をついた。抱え込まれた彼の汗に濡れた黒髪の向こうに、ちらりと赤いものが見える。彼の心情はよく分からないが、それでも手当てはしなければ傷が悪化してしまう。落馬したのが彼でなくてよかった。荷物はそれほどなくさず済んだからだ。
「アンソニー、手当てをするから腕を見せて」
エマが促すが、アンソニーは聞く耳を持たない。
「アンソニー、傷が化膿すると良くないわ」
彼はわずかに首を動かしただけだ。エマは苛々して、腰に手を当て、思わず怒鳴り上げた。
「アンソニー!シャツを脱いで傷を見せなさい!!」
ようやく彼は緩慢な動作で顔を上げた。眉を下げて、頼りなさげな顔をして、黒い瞳がしょぼくれた子犬のように揺らいでこちらを見上げている。
エマは初めて見る彼の表情に拍子抜けしてしまった。アンソニーは、しまったというように、手で口元を隠し、恥ずかしそうに目を逸らした。
「すまん、ダサいところ見せた」
エマはぽかんとしていたが、やがてぷっと吹き出すと、声を上げて笑ってしまった。
笑うなよ、とアンソニーが顔を赤くして彼女を睨み付けた。
「あいつら、本気で殺しかねない勢いだったな」
素直に服を脱ぎながら、アンソニーが言った。
必死だったので、あまり深く考えずにこの場所に逃げ込んでしまったのだが、見ると、塚のようだと思った地面の盛り上がりは、きちんと石積みされた建築物の基礎のようになっていて、その上にびっしりと苔やら雑草やらが生い茂っていた。
昔は大きな建物が建っていたのだろうか。教会か、それとも砦か、城か。分からないが、何にせよ熊や狼や、狼藉者の根城でなくて良かったとアンソニーは息をついた。
エマはガーゼや包帯を用意しながら、彼の言葉に頷いた。あの兵士達はどことなくこの辺りの人間ではないような雰囲気だった。それに、まるで、捕まえるというより、死んでもいいというような追い方だったのだ。思い返すだけでもぞっとする。発砲されたのは生まれて初めてだ。
「エマは体は大丈夫なのか?」
アンソニーが心配そうに尋ねると、彼女は頷き、
「大丈夫よ。あちこち痛むけど、骨は折れていないと思うわ」
と、答えた。運良く、柔らかい草むらの上に放り出されたのが功を奏したようだ。そうか、とアンソニーが返事をするのが聞こえ、準備の整ったエマは傷の手当てをしようと振り返って、固まってしまった。
「どうした?」
アンソニーが訝しげに尋ねる。エマは目のやり場に困って、視線を泳がせていた。シャツを脱げ、と大胆にも命令したのは自分だが、いざ目の当たりにすると動揺してしまったのだ。
男性の服を脱いだ姿を見たのは何年ぶりだろう。シグルズの着替えの世話をするときも、シャツを脱ぎ着している間は背を向けていた。記憶の中では、背中に湿疹が出て軟膏を塗ってやっていた、十二、三才のフィリップの裸体で止まっている。
アンソニーは彼女の内心を察して、にやりとした。先ほどの失態を取り返したいと思ったのかもしれない。
「なんだ、エマ、恥ずかしいのか?脱げと言ったのはおまえだぞ」
アンソニーは地面に手をつき、彼女ににじり寄った。エマは包帯にしようと思っていた布で顔を隠し、じりじりと後ろに下がった。
「逃げるなよ、手当てしてくれるんだろう?」
ちらりと、視界に彼の筋骨隆々とした肩が飛び込んでくる。首は太いし、胸元もがっしりしている。エマは顔を真っ赤にして後退りした。だが、背中にとん、と冷たい石の壁が当たった。
アンソニーがずいっと乗り出してきた。そして、その顔が彼女の耳元まで近寄ってきたとき、
「いってえぇぇっ!!」
バシャッと音を立てて、たっぷりの酒がアンソニーの傷口にかけられた。彼は大声を上げて思い切り顔をしかめると、のけ反って呻いた。
エマは顔を真っ赤にしながら、乱暴に彼の傷口を消毒し、汚れをごしごし拭き取り、ガーゼをバシッと当てた。
「痛い痛い痛い!!もうちょっと優しくしてくれ!!」
アンソニーが身悶えして訴えるが、エマは聞く耳を持たず、仕返しとばかりに包帯をぎゅうぎゅう縛る。
結局、半べそをかくことになったのはアンソニーのほうだった。
「なんて乱暴な女だ。こんな女は雇用しないほうがいいって、シグルズ様に言いつけてやる」
ご自由に、とエマはぷんぷん怒りながら荷物を片付けた。人の好意を逆手にとるなんてひどい。それに、ちゃんと手当てはしてやったのだから、彼にはむしろ感謝してもらいたいものだ。
背後では、大袈裟にため息をつきながら、アンソニーがシャツを羽織っている。
エマはすっかり荷物を片付けてしまうと、ふと眠っている馬を見ながら、肩を落とした。シグルズに買ってもらった剣を置いてきてしまったのだ。それに、馬も。
アンソニーは彼女の様子に気がつき、苦笑した。
「大丈夫、ここからヘルギまではそれほど離れていないはずだから、二人乗りでも何とか暗くなるまでには着くだろう」
剣は気にしなくていい、あの方はお金持ちだから。そう付け加えると、エマは少し笑って、黙った。
「疲れただろう。俺が見張りをしているから少し休め」
石垣の壁にもたれて座り込んだエマに、彼は隣に腰を下ろすと言った。彼女は長いため息をつくと、遠くを見つめ、大丈夫と小さく答えた。気の強い女だ、とアンソニーは内心くすっと笑った。
「シグルズ様、大丈夫かしら」
エマがぽつんと呟いて、アンソニーは肩をすくめた。
「あのお方なら大丈夫だろ。なんてったって弓の名手だからな。銃なら狙いを外すと次撃つまでに時間がかかるけど、弓なら一瞬だ。あんな連中、目じゃないさ」
そうよね、とエマは小さな声で返事をした。
だが、そうは言いながらも、アンソニーには一抹の不安がよぎった。シグルズのことは本当に信頼しているし、弓の腕前は疑いようもない。問題は、兵士達があちらをメインターゲットのようにして追いかけていったということだ。人数も向こうのほうに数が割かれていたように思う。万が一、連中の発砲した弾が一つでも命中したら、いくら並外れた身体能力を持つ彼でも無事ではいられないだろう。
何を仕掛けてくるか分からない連中だ、どうか戦うことなく、上手く逃げ切ってほしいとアンソニーは心の中で祈った。
とん、と肩に重みを感じ、アンソニーは視線を落とした。見ると、いつの間にか瞼を閉じたエマがすやすやと寝息を立てながら自分の肩に頭を乗せていた。
「さっきまであんなに威勢良かったのに…」
アンソニーは呆気にとられ、赤い髪の頭がぐらついて肩から落ちないように、そっと体勢を整え、座り直した。今や快活な緑の瞳は瞼に隠れ、それを縁取るように長い睫毛が頬に影を落としている。小さな鼻の頭にはそばかすがあり、薄く開いた唇はふっくらとして魅惑的だ。
なんとなく、シグルズが彼女に隙あらば触ろうとしたがるのも少し分かるような気がして、アンソニーは目を逸らし、頬をかいた。そんなふうに思ってしまうのも、きっと男ばかりの長旅で、今まで女っ気がなかったからだろうな、と彼は考えることにした。
そして、気持ち良く眠るエマの頭に自らの頭を預けると、アンソニーは空を眺め、主人達の無事を祈った。




