第3話 別れ、そして旅立ち
「おかえりなさいませ」
夕暮れも迫ってきた頃、シグルズとアンソニーが屋敷から帰ってきた。シグルズは真っ先にあばら屋のほうに顔を出し、アンソニーは二頭の馬を馬屋へ繋ぎに行った。
「良い匂いがするな」
シグルズは炉端で腰をかがめ、鍋の様子を見ていたエマの元へ歩み寄った。彼は少し気疲れしたような顔をして、手袋を外し椅子の上に放り投げた。エマは振り返って答えた。
「はい、夕食の支度をしていました」
シグルズは悲しげに両手を広げると言った。
「昼食を食いっぱぐれた」
「まあ、それはいけませんわ!何かお召し上がりにならないと」
エマは慌ててエプロンで手を拭うと、パンやチーズを取りに、ささやかな食糧庫へ行こうとした。だが、「うん」と返事をしたはずのシグルズが、するりと後ろから彼女の腰に手を回したので、彼女はそこから動くことができなくなってしまった。
「…あの、シグルズ様、離していただきませんと何もできません」
エマは戸惑って訴えた。だが、彼は繰り返し「うん」と答えるだけで、離す気配はないようだ。
「疲れて動けないんだ」
そう言って、シグルズはエマをぐっと自分のほうへ引き寄せながら、背中から抱き込むようにして彼女の肩に顎を乗せた。ずっしりとした彼の体の重みを感じる。彼は鼻先をエマの首筋に埋め、深く息を吸い込んだ。
「いい匂いだ」
何が?と戸惑うより先に、彼女の体にぞくぞくとしたものが駆け抜ける。いい匂いなのはシグルズのほうだと彼女は思う。教会で焚く芳しい香の香りが彼の体に染み付いて、それが甘ったるく彼の体温と混じり合って鼻腔をくすぐるのだ。
シグルズは彼女が無下にしてこないのを良いことに、無遠慮にその白い首や耳元に頬をすり寄せた。あのクローストン卿の争乱以来、彼は妙に距離が近いのだ。
エマはドキドキして呼吸が浅くなるのを感じながら、恐る恐る振り返った。彼の神秘的に揺らめく青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。エマはまるで囚われたように目が逸らせなかった。一瞬、彼の瞳が熱を持ったように揺らぎ、やがて、その端正な唇が彼女のほうへ近付いてきた。
「ああ、腹が減った!昼飯を食いっぱぐれた!」
そこへ、乱暴に扉が開け放たれ、アンソニーが入ってきた。彼もまた主と同じように腹ぺこだったのだ。夕食までに何かつまもうとこちらへやって来たのだが、どうも間が悪かったようだ。
アンソニーはじっとりと主を睨み付けた。
「…何やってるんですか」
シグルズは悪びれる様子もなく、肩をすくめて見せた。
「見ての通りだ。腹が減ったので、何かつまみ食いさせてもらおうかと」
「つまみ食いの対象が違うんじゃないですかね」
アンソニーはずかずかとこちらへやって来て、無理矢理シグルズをエマから引き剥がした。いててて、とシグルズが苦笑いしながら悲鳴を上げる。
「まったく、ちょっと目を離したらこれだ!あなたは司祭様なんですよ。こんなところを人に見られたらどうするおつもりです」
「だから、人に見られないようにこっそりやっていただろう」
「余計に質が悪いですよ!」
アンソニーは眉を吊り上げて怒鳴った。エマは急激に恥ずかしくなってきた。顔が熱いし、きっと真っ赤になっているだろう。彼女は両手で顔を隠して後ろを向いた。
「おまえも、嫌ならちゃんと拒まないと。この人どんどん調子に乗るぞ」
アンソニーがたしなめるように言う。エマは小さな声で「ごめんなさい」と言って、慌てて外へ出ていった。
「あーあ、行ってしまった」
シグルズが残念そうな声で言い、アンソニーは再び主を睨み付けた。
***
そして、旅立ちの日がやって来た。トールも数名のガン族を連れて、エマに別れを告げに来た。
彼は名残惜しそうな顔で孫娘の頬を優しく撫でると、何度目か分からない同じ質問を繰り返した。
「本当に良いのか?フォートヒルに行ったら、そう簡単には領地には戻ってこれんぞ。侍女になどならなくとも、私達と共に暮らせばそんな苦労をせずに済むというのに」
エマは祖父の手を取り、微笑んだ。
「おじいさま、嬉しいわ。でも、おじいさま達に守ってもらいながら、私だけ呑気に暮らすなんてできないわ」
トールは悲しげに訴えた。
「ああ、エマ。おまえは守られていて良いのだぞ」
エマは笑った。大きな祖父が、孫娘のこととなると途端に眉を下げて、一段と過保護になるのがおかしくて嬉しいのだ。たくさんいる子供達や孫達の中で、女が自分一人しかいないというのもあるのかもしれない。
彼女はほんの少し、後ろ髪を引かれる思いがしながら答えた。
「ありがとう。でも、働いてお金を稼ぐのも素敵だと思うわ」
トールは肩をすくめた。
「実におまえらしい考え方だ」
彼はシグルズのほうへその大きな体を向けると、苦々しそうに口を開いた。肩をすくめ、残念そうな表情ではあるが、深い皺の奥にある緑色の瞳は優しげだ。
「ハラルドソン司祭、このように利かん気の強い孫娘だが、あなたに託そうと思う」
「トール殿、喜んで。きっと彼女は素晴らしい働き手になるでしょう」
シグルズが手を差し出すと、トールはため息をつきながらも彼の手を強く握り返した。
この男のことを心から信頼しているかといえばそうではない。若い時からずっと屈強な戦士として戦いに身を置いていた彼にとっては、このような見目麗しい口達者な聖職者というのは、どちらかといえばあまり信用に値しない類いの人物だ。
だが、エマが彼に恩を感じ、彼に従うと言うのだから、その祖父である自分も信じて任せてみる他あるまい。
彼はかすかに微笑むと、
「ガン族は必ずやあなた方の力になると約束しよう」
と言い、去っていった。
それから、一同はすっかり荷物をまとめてしまうと、出立の前に町役場に出掛けていった。ジョージに別れを告げるためだった。そこには膨大な政務を手伝うために、まだ町に留まっていたウィリアムもいて、どうやら旅の一行が今日立つようだと聞き付けたメアリーとマイケルも別れを惜しむためにやって来ていた。
「世話になったな」
ぶっきらぼうに手を差し出し、ジョージが言い捨てる。シグルズは笑って手を握り返した。
「叙任式に立ち会えないのが残念です」
「ふん、人を見せ物みたいにしやがって」
ジョージは悪態をつくと、ちらりとエマのほうを見て、つかつかとこちらへやって来た。そして、頭の後ろを乱暴に引っ掻くと、照れ隠しをするように仏頂面で言った。
「おまえも、ありがとう。礼を言う」
「ジョージ様、こちらこそ。ご親切にしていただき、ありがとうございました」
膝を折り、恭しくお辞儀をする彼女の胸に、革紐に通された指輪が下がっている。ジョージは、ふんと気のなさそうな顔をしたが、ひとつ息をついて落ち着くと、彼女の前で膝をつき、その白い手を取って口づけた。
「領地が落ち着いたら、おまえを嫁にもらいにいく」
「えぇっ!?」
驚き目を丸くした一同を尻目に、彼はにやりと笑うと言った。
「待ってろよ、すぐ行くからな。三年…いや、一年だ。一年で立て直して、たくさんの宝石を持っておまえを迎えにフォートヒルまで行ってやる。それまでせいぜいハラルドソン家で花嫁修行して箔をつけてくるがいいさ」
挑戦的な目で見つめられて、エマはたじろいだ。お待ちください、とシグルズが二人の間に割り込んで物申した。
「ジョージ様、彼女はそういうつもりでうちに来るのでは…!」
だが、横からウィリアムが口を挟む。
「さすが、ジョージ!短気な性格もたまにはいいな!」
「うるさいぞ!おまえも用が済んだならさっさと帰れ」
ウィリアムは肩をすくめた。
「冷たいな。せっかく手伝ってやろうと思って来たというのに」
だが、その表情は優しげだった。孤独と思われていたジョージに、実は信頼できる仲間がいたことに彼は安堵していたのだ。そして、その仲間の輪が次第に広がり、いつか大切な人を家族に迎えることができたら、それは素晴らしいことだろう。ウィリアムは、まるで年の離れた弟を見るかのような眼差しで、若きサンクレール次期伯爵を見つめた。
そのようなやり取りの様子を伺うようにして、メアリーが横から顔を出してきた。彼女は今日、どうしてもエマに渡したいものがあったのだ。麻のガーゼに大切に包まれたそれは、石鹸だった。エマは感嘆の声を漏らした。
「アンナがあなたにプレゼントしてたって、侍女達に聞いたから」
そう言って、メアリーは、部屋に置いてあったものは火事で駄目になってしまったからと、わざわざ新しいものを用意してくれたのだ。ローズマリーの青くて清々しい香りがする。
「ありがとうございます」
エマは目尻に涙を浮かべて答えた。頑張ってね、とメアリーは彼女を励ました。
「あなたはとても愛に溢れた人です。愛は人を強くするし、無条件に相手を信じる心をくれる。もちろん、時にはその逆もあるけれど」
もらい泣きをしたように、メアリーはしわくちゃの骨張った指で目元を拭いながら言った。
「私は信じていますよ。誰かを愛すれば愛するほど、あなたはたくさんの愛に支えられて生きていける。大丈夫、きっと何もかも上手くいくわ」
エマは頷いた。隣でマイケルが目を真っ赤にしてこちらを見つめていた。
「旅の幸運を。フォートヒルでまたお会いしましょう!」
馬に跨がった一行に、ウィリアムが手を上げた。シグルズは頷き、
「またフォートヒルで」
と答えた。ジョージはエマの手をとり、真剣な眼差しで言った。
「忘れるな、一年後だ。来年の夏、必ずおまえを迎えに行く」
エマは困ったように笑い、
「ご活躍をお祈りしております」
と答え、一行は長らく留まったティンカーに別れを告げた。




