第1話 来訪者(1)
「これからどうするんですか?」
クローストン卿の反乱から数週間が経過したある日、アンソニーがいつも通り剣の手入れをしながらシグルズに尋ねた。
その頃、一行は変わらずティンカーに留まっていた。アンソニーの右手の具合が良くないというのもあったし、サンクレール家のその後の状況も注視しておく必要があったからだ。だが、今や彼の右手はすっかり良くなって、多少の違和感はまだあるものの、ほとんど元通りに動くようになっていた。屋敷のほうもだいぶ落ち着いて、ジョージもティンカーに仮の住まいを整え、滞っていた政務に着手し始めたようだ。出発の日が近付いていた。
「当初の予定通り、ヘルギを経由して、ストールヘブンに行こうと思っている。旅の最終目的地だ」
「最終目的地…」
エマは確認するように反復した。
「そうだ、それが終わればフォートヒルに帰る」
彼女はごくりと唾を飲み込み、わずかに頷いた。その顔からは、ほんの少しだけ緊張の色が見てとれる。
シグルズは穏やかに微笑むと尋ねた。
「不安か?フォートヒルに行けば、次はいつこの地に戻ってこれるか分からないぞ」
エマはぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です。私、一生懸命働きますわ」
それは頼もしい、とシグルズは笑った。
エマはすっかり心を決めていた。祖父からの、一緒に暮らさないかという、心揺らぐ提案もあったが、彼女は誰かに守られながら静かに暮らすより、自分の力で人生を切り開き、生きることを選んだのだ。もちろん、不意にどうしようもない不安にかられることもあるのだが、彼女は今まで与えられてばかりだった自分の人生から初めて脱却して、新しい世界へ飛び込むことにわくわくしていた。
その時、教会の前の通りを、にわかに早馬が大急ぎで駆け抜けていくのが見えた。突然やって来た来訪者に、人々が悲鳴を上げて道路脇に避難する。
「何事だ?」
アンソニーが表に出て、人々に尋ねた。籠を持った中年の女が、ふうと胸を撫で下ろしながら、
「たぶん、お屋敷からの使いじゃないかね。ジョージ様のお住まいのほうに走っていったよ」
と、答えた。
「屋敷の使い?」
シグルズも顔を出す。女は頭を下げて挨拶した。
「ええ、あれはたしかにお小姓のマイケルでしたよ」
一同は顔を見合わせた。
***
「ストップ、ストップ、ストーップ!!」
町役場の前でけたたましい叫び声を上げ、マイケルはなんとか馬を立ち止まらせることに成功し、ふらふらしながら地面に降り立った。息も荒く、肩は大きく上下している。
争乱のあった夜、華麗に馬を操るエマに憧れて、自身も乗馬の練習を始めたのだが、どうもなかなか上手くいかない。こんなことなら、もっと早くやっておけばよかったと、彼は言うことを聞かない相棒を引き摺るように馬屋に繋ぎながら肩を落とした。
「コルディアのウィリアム・サンクレール卿がいらしています」
マイケルは乱れた上着を整えながら、きちんと背筋を伸ばして主人に報告した。
ジョージは町役場の二階に一旦居を移し、政務にあたっていた。ここなら屋敷にも近いし、ストールヘブンやヘルギなど、主だった町とも街道でつながっているので利便性が良い。それに一階には広間もあるので、人々の陳情を聞いたり、裁判を行ったりするのにも都合がよかった。
若き当主はちらりと彼を見やると、興味なさそうに視線を再び手元に戻し、ペンを動かし続けた。
「あの…、聞いていらっしゃいます…?」
マイケルがおずおずと尋ねると、ジョージはぐしゃっと書類を握り潰した。ひっ、と身構えたマイケルは、虫の居所が悪かったかなと、明後日の方向を向いて素知らぬ顔をした。
ジョージは黙って立ち上がった。
「…どちらへ?」
マイケルが再び尋ねると、ジョージはじろりと彼を睨み、
「おまえが俺を呼んだんだろ!」
と怒気を含んだ声で答えるので、彼は「はいはいはい!」と慌てて主の上着を取り、着せ、出かける支度をしなければならなかった。
「しばらく屋敷にいる」
執事の男にそう告げて、ジョージは部屋を後にした。すれ違い様に町長の男が「お出かけですか」と尋ね、彼は片手を上げて階段を駆け下りた。
屋敷が燃えているのを間近に見たこの町の人々は、概ねジョージに好意的だ。労働の対価として報酬を弾んだのも功を奏したかもしれない。
「お待ちください」
よたよたとマイケルが不慣れな手付きで馬に跨がる。
「早く来い!」
ジョージが大声を上げた。
「ちょうど煮詰まってむしゃくしゃしてたところだ。飛ばすぞ!」
にやりと口の端を上げ、ジョージは馬に発進の合図を出した。マイケルは「お待ちください、お待ちを!」とあたふたしながら、ようやく彼の後に続けて走り出した。
***
再び、教会前をドカドカと馬が通りすぎ、人々が二度目の悲鳴を上げるのが聞こえた。
「またか」
アンソニーが、やれやれといった様子で外を見る。すると、目の前を通りすぎ、遠ざかっていったはずの早馬がとんぼ返りしてこちらに戻ってきた。アンソニーは表に出て、その馬の主を見た。
「ジョージ様」
それはサンクレール家の当主であった。その後に続き、小姓のマイケルが半分泣きべそをかきながらついてくる。「ジョージ様、速いですよ」と愚痴をこぼしながら。
「司祭はいるか?」
ジョージは明瞭な声で尋ねた。部屋にこもって難しい書類の束とにらめっこしているより、馬を乗り回しているほうがよっぽど性に合っているらしい。
騒ぎに気がつき、教会からシグルズが出てきた。
「これはこれは、サンクレール家のご当主殿」
シグルズは穏やかな表情で慇懃に挨拶した。背後からケネスやエマも顔を出し、主に倣って頭を下げた。
「今から屋敷に行く。おまえも来い」
シグルズは突然の申し出にピンとこない様子で、首を傾げた。
「何かご用でしょうか」
「そうだ、急用だ」
ジョージは馬に乗ったまま、きっぱりと答えた。
「コルディアのサンクレールが来た」
シグルズやケネス、アンソニーは、はっとした表情を浮かべたが、エマにはよく分からなかった。察した小姓のマイケルが「フォートヒルの近くに住んでいるジョージ様のご親戚筋です」と、彼女に耳打ちした。
「おまえ、あの男と知り合いなんだろう。どうせ向こうはおまえがここにいることも承知の上で来たに違いない。何度も出向くのは面倒だ。一緒に来い」
ジョージはほとんど命令のような口調でそう言った。既に馬の鼻先を屋敷のほうへ向け、すぐにでも出発しそうな勢いだ。
やれやれ、とシグルズは腰を上げた。
「アンソニー、馬の用意だ。おまえも来い」
了解しました、と返事をし、アンソニーが馬屋に走る。エマは黙ったままそこに立っているケネスに尋ねた。
「ケネス様はご一緒されないのですか?」
ケネスはちらりとエマを見下ろすと、再び視線を外し、答えた。
「私はシグルズ様の部下ですが、従者ではありませんので」
なるほど、とエマは小さく頷いた。彼は続けた。
「それに、シグルズ様やサンクレール卿のように、議会に議席を持っているわけではありませんから」
「シグルズ様は議席もお持ちなのですか?」
エマは驚いて声を上げ、尋ねた。
「聖アンドレアス教会の首席司祭なのですから、当然です」
ケネスが、そんなことも知らないのかとため息をつきながら答えた。
この国の議会は三身制で、三つの身分の代表者から構成されていた。第一身分は聖職者で、大司教や司教、修道院長など、高位聖職者がそれに該当する。第二身分は貴族で、公爵や伯爵、子爵など。第三身分は都市委員で、これは平民だ。
聖アンドレアス教会は、王都フォートヒルの中心部にある、国内でも最も権威ある教会である。その発言権は絶大で、ほとんど誰も異論を唱えることはできない。この教会だけで議席を三つも持っている他、大司教は枢密院の構成員でもある。
そんなわけだから、聖アンドレアス教会の首席司祭であるシグルズが議会に議席を持っているのも、ケネスの言う通り、当然だった。
エマは、あまり想像がつかないといった様子で、つくづく住む世界の違う方なのだなぁと感心していた。彼女の父親のモレイ男爵は、力のある貴族でもなければ都市に住んでいるわけでもなかったので、そんな世界とは全くの無縁であったのだ。
「では、行ってくるよ。ケネス、エマ、留守を頼む」
二人は恭しく頭を下げて、シグルズと従者のアンソニーを見送った。
若き当主はとっくに姿が見えなくなっていた。ケネスは黙って教会に戻り、エマも旅立ちの日に備えて、この一月の間過ごした仮の住まいを丁寧に片付け始めた。




